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523.法中会および花まつり検討会が開催されました

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 3月27日、宝林寺さんを会場に法中会(宇部北組の住職をメンバーとする会議です)とそれに引き続いて「花まつり」を検討する「御同朋の社会をめざす運動」宇部北組委員会が開催されましたので、内容をご報告します。

○法中会では次の議題が報告、検討されました。
 1.「花まつり」
  これまでの検討状況が報告され、細部については引き続き開催される委員会で検討される旨報告がなされました。

 2.念仏奉仕団実施計画(10月21~23日を予定)
  担当委員での検討結果として、本山での奉仕活動の後に三重県方面に出かける案と鳥取、島根方面に出かける2案について報告があり、出席者で両案について検討した結果、三重県方面に向かう案で進めることとなりました。この案では、長島一向一揆の地および真宗高田派の本山専修寺などを訪ねる計画になっています。
  今後、案内のパンフレットを作成して参加者を募ることとなります。

○引き続き、「御同朋の社会をめざす運動」宇部北組委員会委員(委員である住職に仏教婦人会会長、坊守会会長、総代会会長、教区会議員を加えたメンバーです)により、花まつりに関する細部の検討が行われました。以下、その内容をご報告します。

 ・ステージ、フリーマーケット
  このブログでもご連絡しましたようにステージとフリーマーケットについて参加者を募りましたが、ステージで2組、フリーマーケットで6組の申し込みがあった旨報告がありました。
  ステージではギター演奏とコーラスが予定されています。また、フリーマーケットでは既報の通り壽福寺のご門徒さんの岩﨑祥子さんと友人の大山しのぶさんが出店される他に、生活用品や子供のおもちゃ販売、クッキーやカステラの販売、手作りケーキの販売、着物の古着で作ったアクセサリー販売それにおはぎの販売など、多彩な出店が予定されています。

 ・仏教体験コーナー
  腕輪念珠作り、写経の他に葬儀体験などが予定されています。写経では「重誓偈」を使って写経をしますが、写経した紙を製本してオリジナルのお経本を作る体験をしていただけます。サンプルを見せていただいたのですが、本格的な和綴じのお経本ができていました。これは貴重な体験になりそうです。

 ・カレーライス
  坊守会と仏教婦人会の方に準備していただきますが、通常のカレーだけでなく野菜だけで作る「精進カレー」が初めて登場します。この味もお楽しみに。

 ・その他、雨天時の対応、前日の準備について細部を確認をしました。

 多くの方のご参加をお待ちしています。

(写真はショカツサイの花です。ちょうど今頃花期を迎えています。)

 漢字で書くと「諸葛菜」。中国三国時代の蜀の軍師、諸葛孔明に因んで命名されたといわれています。オオアラセイトウ(大紫羅欄花)とかムラサキハナナ(紫花菜)などとも呼ばれています。
 アブラナ科の植物で、元々は栽培されていた植物だと思いますが、自生しているのをよく見かけます。写真は藤ケ瀬から黒五郎に入るところに群生しているものです。

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522.歴史を訪ねる(15):大内氏歴史文化研究会(1)「寺社の建築様式」

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 去る3月16日、山口県立図書館で開催された「周防・長門国に於ける中世社寺建築の様式について」という講演会を聞くことができました。この講演会は、大内氏歴史文化研究会が主催されたもので、第12回講演会の当日の講師は秋田公立美術大学の澤田享教授でした。

 この大内氏歴史文化研究会は、「大内氏に関わる歴史及び文化に関連する研究を行い、その拡大と深化を図る」(「研究会設置要綱」)ために設置されたもので、研究調査、資料の収集、研究誌の刊行、講演会・シンポジウムの開催などを行っておられるということです。
 実は、私はこの研究会についてはそれまで全く知らず、今回の講演会もたまたま立ち寄った「学びの森くすのき」でそのポスターを見かけて出かけたものです。

 澤田氏のお話しでは、山口を中心とする防長二国の中世建築には、他の地域と比較して特色ある細部意匠が見られるのだということです。この中世というのは鎌倉時代(1185~1332年)から室町時代(1333~1572年)に当たるのだそうですが、特に15世紀後半からの室町時代後期に防長二国独特の意匠が顕著なのだそうです。この室町時代後期は、守護大名だった大内氏の時代の後期にも当り、その特徴は防長二国に広く広がったものであったということです。
 このように、建築物の特徴からその建物が建築された時期や場所(当初の建築場所から他の場所に移築されたものもあるのだそうです)が分かるということも興味深いことでした。

 澤田氏によりますと、建築物の意匠を見る場合次のような個所は時代や場所で変化が見られ、その点に注目して観察すると面白いという紹介がありました。
  蟇股(かえるまた):上の写真左にあるような、蛙が股を踏ん張っているような部材・装飾のことです
  虹梁(こうりょう)の袖切(そできり):虹梁は写真中のような梁(はり)のことで、袖切はその端部にはいる切り込みのことです
  肘木(ひじき):荷重を支える腕のような横木のことです
  大瓶束(たいへいづか):荷重を支えるために梁上に建てられる瓶形の柱のことです
  縁桁鼻隠板(えんげたばなかくしいた):縁用の材の先端を隠すための装飾のことです
 
 「蟇股」は以前耳にしたことがありましたが他の言葉は今回初めて耳にしたものでした。「なるほどそのようなもので建造物が支えられ維持されているのか」という思いで聞いていました。
 当日配布された資料では、稔小野の法泉寺さんの厨子は享禄年間(1528~1532年)のもので、実肘木(さねひじき)および大瓶束に時代の特徴があるという紹介がなされ、また吉部八幡宮の縁桁鼻隠板は18世紀初頭のものだという紹介もありました。

 この講演をお聞きして、自坊だけでなく他の寺社の建物ついてさらに興味を持って見ることができそうです。

 余談ですが、上記のように、鎌倉時代のスタート時期は1185年というのが現在の主流になっているのだそうです。私たちは、源頼朝が征夷大将軍に任じられた1192年を「いいくにつくる」と鎌倉時代の始まりとして覚えていたのですが、変わってきたようです。

(写真は、建築物の意匠で手元に写真があるものです。)

 写真左は、下部が蟇股、上部が大瓶束だと思われるもの(自信がないのですが・・)です。蟇股は自坊の本堂では見当たらなかったものですから、以前下関市長府の功山寺の輪蔵(経蔵)で撮った写真を使っています。1799年に建立されたそうです。
 写真中は虹梁、右は斗栱(ときょう)です。こちらは寺の本堂のものです。 
 斗栱は斗(ます)状の支えと肘木、さらには肘木上の小さな斗が組み合わされて1組となります。写真のものは3段重ねとなっていますがこれを「ニ手先」と呼ぶのだそうです。軒を前に広げるためにも使われる技術で、六手先という大規模なものまであるということです。

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521.「花フェス2019(花まつり)」:フリーマーケットの情報です

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 すでに概要についてご案内しております「花フェスタ2019(花まつり)」のフリーマーケットに、壽福寺のご門徒さんとお友達が出店されることになりました。

 出店していただくのはご門徒さんの岩崎祥子さんと友人の大山しのぶさんで、お店の名前は「レインボー」です。3月19日にお二人にお会いしてお話しを伺いました。

 祥子さんは以前にこのブログでもご紹介しましたように、色えんぴつで絵を描かれています。寺の本堂に置いてあります「合掌・礼拝のしかた」を説明した絵も描いていただきました。
 今回のフリーマーケットには子供さんなどを描いたポストカードと小さな絵を出品されます。色えんぴつのほのぼのとしたタッチで描かれていて、男の子と鯉を描いたものもあり、どれも明るく楽しい絵です。

 大山しのぶさんは初めてお会いしましたが、クラフトバンドを使った作品を制作されている方です。
 クラフトバンドをご存知ですか?紙製の細い紐を複数本並べて接着したもので、もともとは梱包用として使われるものだったそうです。紙製の米袋の取っ手になっている「あれ」で、紙製なのに強度があるなあ、と感心していたものです。

 そのクラフトバンドですが、いろいろのカラーのものが手芸用に販売されていて、それを組み合わせ、織ってカゴやバッグ、箱、動物などをつくることができるというものです。
 作品を見せていただきました。縦横(経緯)糸(バンド)で織っていくのが基本ですが、その織り方に変化をつけたり、カラーの組み合わせを工夫したりすることで、様々な形とデザインのものができます。
 写真の箱を作るのに3~4時間が必要だということですから、デザインを考える力と、制作に当たっては注意力と根気が必要だということが分かります、これは大変だなあと思いました

 当日ぜひご参加いただいてお二人の作品をご覧になってください。フェスタのご案内は、前回「壽福寺だより」の2月号と一緒にお届けしています。多くの方のご参加をお待ちしています。

(写真左は大山しのぶさんの作品、右は岩崎祥子さんの作品です)

 大山さんは、3月24日(日)に小郡の「里乃駅ランプの宿」で催されるイベントにも出品されるということです。
 こちらです⇒「里乃駅ランプの宿」

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520.最近の話題(27):大河ドラマ「いだてん」

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 NHKの大河ドラマ「いだてん」をご覧になっていますか?

 『本願寺新報』の記事によって知ったのですが、このドラマの舞台に宗門の大学である龍谷大学の大宮学舎の建物が使われているそうです。主人公(日本人初のオリンピック選手となったマラソンの金栗四三氏がモデルです)は東京高等師範学校に入学して学ぶのですが、その師範学校の校舎として龍谷大学の学舎が撮影に使われています。

 『本願寺新報』の記事によりますと、龍谷大学の歴史は江戸時代の初期寛永16年(1639年)に設立された「学寮」にまで遡ります。その後様々な変遷を経て、宗門の最高学府の「大教校」の校舎として、明治12年(1879年)に大宮学舎の建物が完成し、大正11年(1922年)には龍谷大学となり、現在に至っています。
 大教校の校舎として当時建設された本館や北黌(こう)、南黌、旧守衛所などの建造物は重要文化財に指定されており、現在も大学の施設として使われています。

 大宮学舎は本願寺の南に隣接してあります。本館の建物は一見すると洋館に見えますが、建築様式は当時流行した「擬洋風建築」で、木造建築の周囲に石材を巡らして石造りに似せた「木骨石貼(もっこついしはり)」工法で建設されたのだそうです。

 大学の情報によりますと、大宮学舎は様々なテレビの番組に舞台として登場しているそうで、テレビ朝日の[科捜研の女]の舞台にもなったということです。
 3月11日、本願寺にお参りした後に大宮学舎を訪ねました。当日は、生憎の雨でしたが、人影もなく静かなキャンパスでした。「いだてん」の撮影スポットだということが知られて多くの人がいるのではないかと思っていたのですが、静かなたたずまいの中、ゆっくりと過ごすことができました。

  ネットで「いだてん」の中で大宮学舎が使われている場面を探したのですが、この1枚しかありませんでした。勘九郎さんの向こうにあるのが大宮学舎の本館だと思われます。
 ⇒いだてん

(写真左は本館と南黌、右は旧守衛所と門扉です)

 旧守衛所は現在は大学のオリジナルグッズの展示場およびショップとして使われていました。

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519.最近の話題(26):本願寺の建造物修復工事

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 3月11日、久し振りに本願寺にお参りすることができました。

 本願寺では今、境内の複数の建造物の修復工事が並行して進められています。これは、宗門総合振興計画の一環として国庫補助事業として進められているもので、2017年7月から取り組まれています。

 具体的には、次の3つの工事です。いずれも国宝の建造物です。
  阿弥陀堂内陣修復工事(2017年8月~2022年3月)
  唐門修復工事(2018年6月~2022年3月)
  飛雲閣修復工事(2017年7月~2020年3月)

 阿弥陀堂の内陣修復工事に先だって、阿弥陀堂に安置されていたご本尊や奉掛されていた御影は御影堂の方に移され(ご遷仏、ご動座され)ました。
 これに伴い、御影堂では御真影(ごしんねい:親鸞聖人のお像)を北脇壇にお移しするなどの対応がなされました。その結果、現在の御影堂では、お像や御影が次のように安置、奉掛されています。

 中央:ご本尊(阿弥陀如来お像)
 北脇壇(向かって右の脇壇):御真影(親鸞聖人お像)
 南脇壇(向かって左の脇壇):先師(第23代勝如上人)御影
 北余間(向かって右の余間):三高僧御影(二幅)、聖徳太子御影、源空聖人御影
 南余間(向かって左の余間):歴代(第2代~第22代)宗主双幅御影

 なお、2022年3月の修復工事完了までの間、法要は御影堂で勤められます。このようなご遷仏、ご動座が行われるのは、阿弥陀堂昭和大修復(1981年)以来37年ぶりになるということです。

 次の写真はいずれも工事中の阿弥陀堂内部(左)、飛雲閣(中)、唐門(右)です。

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(最初の写真は御影堂、左は南脇壇(勝如上人)、中はご本尊、右は北脇壇(親鸞聖人)です)

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518.春の法座をお勤めしました

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 昨日3月10日、春の法座をお勤めしました。
 ご講師には大津東組願生寺ご住職 蘭哲昭師をお迎えしました。

 ご講師は、平成6年2月に即如前ご門主が当時の厚狭北組をご巡教になられた時に山口教務所でその担当をされていたというお話しをされました。ご巡教のなかで前ご門主は壽福寺にもおいでになられたのですが、ご講師はその担当として何度も寺にこられ、打ち合わせ、準備をされたのだそうです。

 その際に印象に残っていることとして、前ご門主は寺の境内に入られる際は、どんなに遠回りになっても必ず山門から入っておられたとお話しになられました。以前にも記しましたが、私たちはつい便利だからと、駐車場からそのまま境内に入ってしまおうとしますが、これはやはりやってはいけないことだと、改めて思い返させていただきました。
 もう一つ、ご講師の記憶に残っていることは、前ご門主が時間に厳格な方だったことだそうです。そのため、準備の担当者は行動計画を分単位でたてるようにされていたのだそうです。前ご門主がそのように時間に厳格だったのは、相手の方を待たせてはいけないということをいつも心にかけておられたからだそうです。例えば前ご門主が通られる際にはご門徒さんが出迎えるということがあるのですが、その場合も到着や通過が遅れて待たせるようなことになってはいけない、といつも考えておられたからだということです。前ご門主は相手の立場に立って考え行動するということの大切さを自ら示しておられたのです。


 ご講師はご法話の中で、岡本かの子さんの次の和歌を紹介されました。
  年々(としとし)にわが悲しみは深くして いよよ華やぐ命なりけり

 ご講師は、この歌の前半では、私たちは年を経るに従ってより深い悲しみを背負っていく姿がうたわれているとされます。対外的な関係での悲しみは勿論、私自身のうちにある悲しみ、老い、病そしてやがて迎える死、そのようなものが私たちを暗く、逃れることができない境遇に追い込みます。
 かの子さんは歌の後半で、そのような自分が「いよよ華やぐ」とよまれます。年を追うごとに悲しみを深くし続ける私の命が、なぜいよいよ華やぐのでしょうか、というのがご講師の問いでした。

 ご講師は、かの子さんがこのような境地に達した背景には仏教との出会いがあったからだと言われました。
 調べてみますと、かの子さんは結婚生活や交友関係などで様々な葛藤の中でもがき苦しみ、精神的にも追い詰められるという境遇にあったのですが、『歎異抄』に出遭って仏教に心を寄せ、仏教のみ教えを力にされるようになられたということです。

 そうしてみますと、「華やぐ命」とは、老、病、死という苦に直面しながらも、その向こうに新しい喜びを見出すことができたということを表されたのではないでしょうか。「老、病があってその後、死でおしまい」ではなく、その苦を超えたところに楽しみ、新しい命を感じることができる、という喜びを表現した歌だったのではないか、と思います。

 今回の法座でも多くの皆さんにお世話になりました。
 新に会計監査になられた岩﨑明さん、会計担当になられた吉屋博志さんには受付の仕事をお願いしました。初めてお願いしたのですが、受付方法にも工夫をしていただきスムーズに処理いただきました。
 また、仏教婦人会の井上愛子会長、会計監査の志賀信子さん、万倉船木地区の役員齋藤智代さん、松本三枝子さん、江木都美恵さんにはおときの準備から給仕、後片付けまでをお願いしました。

 皆さんのご協力に厚くお礼申し上げます。

 下の写真左は、新しい三役、左から会計吉屋博志さん、代表総代井上啓志さん、会計監査岩﨑明さんです。
 写真右はおときを準備していただいた仏教婦人会の皆さんです。

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517.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (24):上巻第七段(2)

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 今回は、御絵伝上巻第七段の後半部分について学びます。
 前半部分では、親鸞聖人がご自身の信心と師である法然聖人の信心とはなんら変わるところはなく、一つである、と述べられたことに対して、他のお弟子さん方はそれはおかしいと反論されました。これに対して、親鸞聖人は、信心は自分の力で得るものではなく阿弥陀さまからいただくものなのだから、師の信心と変わるところはない、と反論されました。

 今回の部分では、この論争に対して法然聖人がご自身の考えを述べられます。『御伝鈔』の御文と訳文です。

 大師聖人まさしく仰せられてのたまはく、「信心のかはると申すは、自力の信にとりてのことなり。すなはち智慧各別なるゆゑに信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまはる信心なれば、源空が信心も善信房の信心も、さらにかはるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず、信心のかはりあうておはしまさんひとびとは、わがまゐらん浄土へはよもまゐりたまはじ。よくよくこころえらるべきことなり」と云々。ここに面面舌をまき、口を閉ぢてやみにけり。

 そうすると師聖人(法然)がはっきりおっしゃいました。「信心が違うというのは、自力の信について言うことです。人によって知識が違うから、信心にもまた違いが出てきます。しかし他力の信心は、善人であろうと悪人であろうと、阿弥陀さまからいただいた信心なのですから、私・法然の信心も、善信房(親鸞)の信心も、少しも違ったところがあろう筈はありません。信心はみな一つなのです。私が賢いから信じるのではありません。もし私の信心と違う信心を抱いておられる人があったら、その人びとは、私が参ろうとしているお浄土へは、まさか行かれることはありますまい。よくよく心得ておきなさい。」と。そこでそこにいる人びとは、驚嘆して口をつぐみ、その論争は決着したのでした。


 法然聖人は、信心は阿弥陀さまからいただいた他力のものだから自身の信心と師法然聖人の信心には変わるところはない、とされる親鸞聖人の主張を支持されました。さらには、法然聖人の信心と違った信心を持っているものは、同じ浄土に生れることはありえない、と強くたしなめられました。

 この論争について、平松令三氏は、「それにしても、同じ法然聖人門下でありながら、信心を同じくする人びとが少ないというのは、驚きではないでしょうか。」と述べておられます。
 といいますのも、この時に親鸞聖人を論難した正信房・勢観房・念仏房という3人のお弟子さんは、法然聖人門下の重要なお弟子さんだったと伝えられているからです。

 平松令三氏および岡村喜史氏の著書によりますと、正信房・勢観房の二人は親鸞聖人よりは年少ながら、早くから法然聖人のお弟子さんとなっていた人です。
 正信房湛空は、法然聖人が流罪になられた時には聖人に従って配所まで赴かれ、法然聖人の示寂後に三七日供養の施主を努め、聖人の遺骨を迎えて嵯峨二尊院に墓所を営まれた方ですし、勢観房源智は、法然聖人のご臨終に当たって遺書である「一枚起請文」を授けられた方で、大谷の墓堂に法然聖人の遺骨を安置し寺院として整備した方です。これが後の知恩院です。

 このように、今回の第七段に記されている出来事は、法然聖人の高弟の中でも、聖人の教えを正しく理解している人が少なかったということを示すものといえるようです。

(図は、伝絵西本願寺本の「信心諍論」の部分です。)

 奥に座っておられるのが法然聖人、親鸞聖人は左に一人座っておられます。前回の図とは違って、今回の図では、法然聖人の前で親鸞聖人が他のお弟子さん方と論争されているという雰囲気を感じることができます。

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516.仏教婦人会役員会を開催しました

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 3月1日、定例の仏教婦人会役員会を開催し、次の内容について協議、確認しました。

1.住職挨拶と報告、説明
 平成30年度報告

 平成31年度計画
 ・寺の法座の計画
 ・別院の年間計画
 ・宇部北組の計画
  「花フェス2019」の開催と協力、参加要請
  念仏奉仕団計画(10月21~23日)

2.平成30年度活動報告、会計報告(井上会長)

3.平成30年度会計監査報告(志賀会計監査)

4.平成31年度活動計画(井上会長)
 平成31年度宇部北組仏教婦人会連盟大会
 法座でのおとき準備への協力

5.会計収支の改善
 マイナス収支が続いていることに対して、会費の増額やその他の対策について検討し、来年の役員会で実施を決定することになりました。
 検討については、新聞「壽福寺だより」でも状況を周知することとなりました。

(写真は当日出席いただいた役員の方です)
 今年もお世話になりますが、よろしくお願いします。

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515.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯(23):第七段

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 本日から、御絵伝の第七段を学びます。御絵伝の第ニ幅、下から3番目の図です。
 『御伝鈔』のこの段の前半と訳文です。

 上人[親鸞]のたまはく、いにしへわが大師聖人[源空]の御前に、正信房(しょうしんぼう)・勢観房(せいかんぼう)・念仏房(ねんぶつぼう)以下(いげ)のひとびとおほかりしとき、はかりなき諍論(じょうろん)をしはんべることありき。そのゆゑは、「聖人の御信心と善信(親鸞)が信心と、いささかもかはるところあるべからず、ただひとつなり」と申したりしに、このひとびととがめていはく、「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるることいはれなし、いかでかひとしかるべき」と。
 善信申していはく、「などかひとしと申さざるべきや。そのゆゑは深智(じんち)博覧(はくらん)にひとしからんとも申さばこそ、まことにおほけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まつたくわたくしなし。しかれば聖人の御信心も他力よりたまはらせたまふ、善信が信心も他力なり。かるがゆゑにひとしくしてかはるところなしと申すなり」と申しはんべりしところに、

 あるとき親鸞聖人がおっしゃいました。むかし師の法然聖人の前に、正信房・勢観房・念仏房などの人びとがたくさん集まっておられたとき、思いもよらない論争をしたことがありました。それというのは、私・親鸞が「法然聖人のご信心と、私・善信(親鸞)の信心とは、少しのちがいもありません。一つなんです」と言ったのを、この人びとが聞きとがめて、「善信房が、師聖人のご信心と自分の信心が等しいというのはまちがっている。どうして等しいといえるのか」と申されました。そこで私・善信は、「いや、どうしても等しいと言わざるを得ません。というのは、知識の深さや見聞の広さが等しいと言ったら、それは全く身のほど知らずということでしょうが、浄土往生の信心ということでは、ひとたび他力信心の道理を教えていただいてからは、全く自分の力というものを考えません。師聖人のご信心も阿弥陀さまから賜ったもの、私・善信の信心も阿弥陀さまから賜ったもの。ですから同じであって、違うはずがない、と申したのです」と申しました。


 今回の第七段は「信心諍論」の段と呼ばれています。
 覚如上人は、親鸞聖人と他のお弟子さん方との間であった、師の法然聖人のご信心と弟子である親鸞聖人のご信心が同じものなのかどうかという議論について述べられています。
 
 親鸞聖人は、ご自身の信心と師である法然聖人の信心は少しの違いもなく一つなのだと述べらたことがありました。この聖人の言葉を正信房・勢観房・念仏房などの他のお弟子さんが聞きとがめられて、どうして師聖人のご信心と同じなどということができるのか、と論難されます。
 これに対して、親鸞聖人は、自分は知識の深さや見聞の広さについて師聖人と同じだと言っているのではなく、信心をいただいてお浄土に往生を遂げることを考えるならば、その信心は私の力ではなく阿弥陀さまからいただいた力、他力によるのだから、師聖人の信心と違うものではないと、述べられました。

(図は自坊の御絵伝の第七段です)

 中央でこちらを向いて座っておられるのが法然聖人で、他に左の畳の上に7人、右の室内、板敷きに2人の僧侶が描かれています。
 左の畳の7人が親鸞聖人および正信房・勢観房・念仏房などのお弟子さんで、7人のうち前列左端で顔をこちらに向けている人が親鸞聖人だと考えられています。ただ、前列の真ん中、柱の影になりそうな人物が聖人だという説もあるようです。

 この図を見て不思議な感覚にとらわれるのですが、室内を描いた部分が画面全体の半分くらいしかなく、残りの部分には廊下と手前の植え込みが描かれているところです。植え込みは、右から松、薄、白萩、紅葉、杉なのだそうですが、これになにかの寓意が込められているのではないか、などと思って調べてみたのですがよく分かりませんでした。

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