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505.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (19):上巻第六段

20190128法然聖人絵伝2s   

 しばらく間が空きましたが、「御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯」です。
  今回からは、上巻第六段に入ります。『御絵伝』の第2幅、下から2番目の絵に当たり、「信行両座」の段と呼ばれています。

 この段の『御伝鈔』の御文と訳文を見てみます。最初の部分です。

 「おほよそ源空聖人在生(ざいしょう)のいにしへ、他力往生の旨をひろめたまひしに、世あまねくこれに挙(こぞ)り、人ことごとくこれに帰しき。紫禁(しきん)・青宮(せいきゅう)の政(まつりごと)を重くする砌(みぎり)にも、まづ黄金樹林の萼(はなぶさ)にこころをかけ、三槐(さんかい)・九棘(きゅうきょく)の道をただしくする家にも、ただちに四十八願の月をもてあそぶ。しかのみならず戎狄(じゅてき)の輩(ともがら)、黎民(れいみん)の類、これを仰ぎ、これを貴(とうと)びずといふことなし。貴賤、轅(ながえ)をめぐらし、門前、市をなす。常随(じょうずい)昵近(じっきん)の緇徒(しと)その数あり、すべて三百八十余人と云々。しかりといへども、親(まのあた)りその化をうけ、ねんごろにその誨(おしえ)をまもる族(やから)、はなはだまれなり。わづかに五六輩(ごりくはい)にだにもたらず。」
 
 「法然聖人が生前に他力往生の教えをひろめられたところ、世間の人びとはこぞってこの教えに傾倒し、法然聖人に帰依しました。朝廷が政治を行う際にも、まず浄土に心をかけ、大臣や公卿の人びとも弥陀の本願に思いを寄せるようになりました。それだけではなく、辺国の人びとや一般庶民もみな、法然聖人の教えを仰ぎ尊ばないものはありませんでした。貴賤を問わずみなやって来て、草庵の門前はまるで市場のようでした。法然聖人のおそば近くで親しくしている僧侶も多く、その数は三百八十数人ということでした。
 しかしながら直接に親しく法然聖人の教化を受け、一生懸命その教えを守っていこうとする人びとはたいへん少なくて、わずかに五、六人もない、というありさまでした。」


 親鸞聖人の師である法然聖人が京都の東山吉水(よしみず)に庵を構えられたのは1177年の頃だとされています。法然聖人は吉水の地で、念仏一つにより衆生が救われるという、浄土の教えを説かれました。
 時代は平安の社会秩序が乱れ、武士が台頭し血で血を洗う争いが日常的におこる時代でした。天災や飢饉も発生し、人びとはこの「末法の世」の只中で、おそれおののき、絶望するほかない境遇に置かれました。しかし、在来の仏教はこの事態を前にしても、互いに争い、利益をむさぼることに終始し、救いを求める多くの人びとの力となることはできずにいました。
 親鸞聖人が法然聖人を訪ねられたのは建仁元年(1201年)ですから、法然聖人が吉水に移られてから34年が経過した頃のことになります。
 混乱の時代の中で、誰もが念仏一つで往生を得ることができると説かれる法然聖人の教えは、身分を超えて広範囲の人びとの心に響きしみ込み、力となったことと思われます。『御伝鈔』の文にもありますように、法然聖人のもとに多くの信者が集まり、押しかけて、「門前市をなす」賑わいだったことだと想像されます。

 『御伝鈔』では、法然聖人のお傍にいた僧侶も380人を超えるという大きな集団になっていたのですが、その中で、聖人の教えを正しく受け止め、守っていこうというものは5,6人もいなかったのだ、と覚如上人は記されています。
 覚如上人は、正しく師の教えを理解し実践していこうという者が少ない中、市中の人気は高まる一方、という状況が当時の法然聖人の周辺の姿だったとされます。
 今回の「信行両座」は、そのような教団の中で生じた出来事だということになります。

(図は、当時の法然聖人の庵室の様子を描いたものです。知恩院のサイトからお借りしています。)

 法然聖人のご事跡を描いた国宝『法然上人絵伝』の中の図で、浄土宗の総本山である知恩院に伝わるものです。詞書には次のように記されています。
 「尋ね至る者有れば、浄土の法を述べ、念仏の行を勧めらる。化導日に従ひて盛りに、念仏に帰する者、雲霞の如し」

 男女の別なく、貴族や武士、一般の庶民も含めて多くの人びとが集まっている様子が生き生きと描かれています。皆が楽しそうにしていることで笑い声や喧騒が聞こえてくるような気がします。
 末法の不安の世に、法然聖人の説かれる教えが多くの人びとに受け入れられて希望と力を与えたことが感じられる図です。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください) 

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505.ご消息「親鸞聖人御誕生850年、立教開宗800年 慶讃法要」

20190128本願寺新報号外s 

 去る1月9日、本山本願寺の御正忌報恩講の初日にご消息発布式が行われました。ご門主は「親鸞聖人御誕生850年 立教開宗800年についての消息」を親読され、2023年に慶讃法要をお勤めすることを示されました。
 ご消息にもありますように、2023年が親鸞聖人ご誕生850年に、また2024年が立教開宗(『教行信証』の完成)800年に当たることから、それを慶讃して法要が勤修されるものです。

 以下、ご消息の全文をお伝えいたします。
 
 来る2023年には、宗祖親鸞聖人のご誕生850年、また、その翌年には立教開宗800年にあたる記念すべき年をお迎えするにあたり、2023年に慶讃法要をお勤めいたします。

 親鸞聖人は承安3年(1173年)にご誕生となり、御年9歳で出家得度され、比叡山で修行を重ねられましたが、29歳の折、山を下りて法然聖人の御弟子となられ、阿弥陀如来の本願念仏の世界に入られました。その後、専修念仏停止によって越後にご流罪になられ、赦免の後は関東に赴かれて他力念仏のみ教えを人々に伝えられるとともに、『教行信証』の執筆にとりかかられました。他力念仏のみ教えがまとめられた本書は、浄土真宗の根本聖典という意味でご本典と呼ばれています。そして、そのご本典の記述によって、その成立を親鸞聖人52歳の時、すなわち元仁元年(1224)年とみて、この年を立教開宗の年と定めています。

 仏教は今から約2500年前、釈尊が縁起や諸行無常・諸法無我というこの世界のありのままの真実をさとられたことに始まります。翻って私たちは、この執われのないおさとりの真実に気づくことができず、常に自分中心の心で物事を見て、悩み、悲しみ、あるいは他人(ひと)と争ったりしています。釈尊は、このような私たちをそのままに救い、おさとりの真実へ導こうと願われたのが阿弥陀如来であることを教えてくださいました。そして、親鸞聖人は、この阿弥陀如来の願いが、南無阿弥陀仏のお念仏となってはたらき続けてくださっていることを明らかにされたのです。

 ありのままの真実に基づく阿弥陀如来のお慈悲でありますから、いのちあるものすべてに平等にそそがれ、自己中心的な考え方しかできない煩悩具足の私たちも決して見捨てられることはありません。その広大なお慈悲を思うとき、親鸞聖人が「恥づべし傷むべし」とおっしゃったように、阿弥陀如来のお心とあまりにもかけ離れた私たちの生活を深く慚愧せざるをえません。しかし、この慚愧の思いは、阿弥陀如来の悲しみを少しでも軽くすることができればという方向に私たちを動かすでしょう。

 それは、阿弥陀如来の願いを一人でも多くの人に伝え、他人(ひと)の喜び悲しみを自らの喜び悲しみとするような如来のお心にかなう生き方であり、また、世の安穏、仏法弘通を願われた親鸞聖人のお心に沿う生活です。み教えに生かされ、いよいよお念仏を喜び、すべてのいのちあるものが、お互いに心を通い合わせて生きていけるような社会の実現に向け、宗門総合振興計画の取り組みを進めながら、来るべき親鸞聖人ご誕生850年ならびに立教開宗800年の慶讃法要をともにお迎えいたしましょう。 

平成31年(2019年)1月9日
                                               龍谷門主 釋 専 如

(図は、当日配布された『本願寺新報』の号外です。)

 住職は当日お参りすることができませんでしたので、図は本願寺のHPからお借りしました。

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504.ご紹介します(18):「動的平衡」


 書籍を「ご紹介します」は、昨年1月の「石炭都市宇部の起源」が最後でしたから1年ぶりということになります。

 今回は、「新版 動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」小学館新書で刊行された本で、著者は、福岡伸一さんです。
 福岡さんは分子生物学という分野で「生命とは何か」ということについて研究されている人で、『週間文春』に「パンタレイ・パングロス」という面白い連載コラムを持っておられ、また、画家のフェルメールの熱心なファンということでも知られています。

 著書の帯に「生命は変わらないために変わり続けている。」という言葉がありますが、生命の本質は「動的な平衡」(変わり続けているがその中で平衡状態を保とうとしている)にあるとされています。
 私たちの体は37兆個(60兆個とする説もあるそうです)もの細胞から成り立っているということです。そのスタートはたった1個の受精卵、それが細胞分裂を繰り返して37兆という膨大な数の細胞になるのですが、しかも、その37兆個の細胞の多くは常に入れ替わっているのだそうです。心臓や神経の細胞のように入れ替わらない細胞もあるのですが、ほとんどの細胞が破壊され新に生まれるという入れ替わりを繰り返していて、毎日1兆個もの細胞が入れ替わっているというびっくりするような情報(他の情報ですが)もありました。

 細胞よりもさらに小さな分子レベルで見ると、「生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新されているのである。」(同書)従って、私たちの姿は「通り過ぎつつある分子が、一時的に形作っているにすぎない」その流れの中で、かろうじて一定の状態を保っているのだといわれます。

 この分解と再生を繰り返すことには大きな意味があるとされています。
 それは、分解と再生を繰り返すことが環境の変化に適応することを可能にし、自身に生じた傷を補修することを可能にするものだという点です。同じ細胞、同じ分子が維持されている個体では、環境に変化が生じた場合これに適応できないものは絶滅する以外に道はないからです。
 さらに、体の構成要素には常に衰え、壊れ、散らばる(福岡氏はこれを「エントロピーの増大の法則」と表現されています)という現象が生じるのですが、生命はそれに「先回りして、自らを壊し、そして再構築する」ことで対応してきた、それが「動的平衡」の内容だとされます。
 「動的平衡(破壊と再構築)」は、限りなく変化し続ける自身と環境に適応するために、生命が38憶年をかけて組み上げた「時間との共存方法」なのだとされます。

 しかし、このように「エントロピーの増大」と追いかけっこしていても、分子レベルの損傷が蓄積されてきて、ついには先回りした再構築が追いつかなくなります。これが個体の死だということになります。あるいは「老化」もその初期段階の姿かもしれません。

 このように見てきますと、以前に学びました「三法印」(お釈迦さまが説かれた教えの3つの大切な要素)の一つの、「諸行無常印」のことを思い浮かべます。
 お釈迦さまは「あらゆるものは原因(因)と条件(縁)によりその結果(果)として生じたものであり、それゆえに一切のものは生滅変化、流転してとどまることがない」とされます。私たちは時々刻々消滅変化してとどまることができないと、まさに「動的平衡」の姿を述べておられます。
 「諸行無常」というと、私たちは、私たちの外のものが時々刻々消滅変化する姿と思い込んでしまうところがあります。しかし、お釈迦さまが言われたことは私たち自身も含めてあらゆるものが消滅変化を繰り返してとどまることがない、ということでした。福岡氏も「動的平衡」という言葉で、私たち自身も含めたあらゆる生命がそれから逃れることができない、と言っておられます。

 このような消滅変化、流転の中にあっても、現在の姿、健康、若さ、命がいつまでもあって欲しいと望み、執着し苦しむのが私たちの姿だということになります。あるいは、福岡氏の言われる「エントロピーの増大」を遅らせる、避けることはできないか、と望むのが私たちの姿です。
 「私たちは時として、(中略)時計の針を逆回転させたい欲求にかられる。額や頬に刻まれたシワを伸ばしたいと願い、抜けてしまった頭髪を植え込みたいと願うのである」(同書)しかし、その対処方法は、一つの現象に対してそれを遅らせる程度の効果しか持ちえません。たとえばある合成薬物が若さを保つ効果を表したとしても、身体はそれを「揺れ」ととらえて、その揺れを戻して作用を無効にするように働くのだそうです。動的平衡とは、そのような対応も含むものなのだということです。

 このように、生命現象からみても私たちは「動的平衡」(消滅変化)という大きな流れの中にいること、そしてそのことによってくる「エントロピーの増大」(老病死)を避けることができない存在であるということを認識することが大切なのだと改めて実感しました。

 もう一つ印象に残ったことを記しておきます。福岡氏は人間はチクワのようなものだと言われます。
 私たちの口から、胃、腸、肛門に至る部分はいわば「体外」とみなす方が正しいのだそうです。その部分は「チクワの穴」であって、口で食べた食物を胃に取り込んでも、それはまだ体外。食物が消化管の壁を通過できるまでに分子レベルで細かく分解され吸収されて初めて「体内」に取り込まれた、となるのだそうです。
 その結果、「コラーゲンが豊富」をうたい文句にしている食品があったとしても、そのコラーゲンは消化管の中で消化酵素によってバラバラのアミノ酸に分解されてから吸収されることになります。その吸収されたアミノ酸が体内でコラーゲンに再合成される保証は全くないのだそうです。
 ついでに、コラーゲン配合の化粧品というも耳にしますが、コラーゲンが皮膚から吸収されることはあり得ないのだそうです。

 福岡氏は、「コラーゲン豊富食品」のような「健康食品」がブームになるのは、「身体の調子が悪いのは何か重要な栄養素が不足しているせいだ」という不足・欠乏に対する脅迫観念があるようだ、とされています。
 あるいは、「動的平衡」が「エントロピーの増大」により少しずつ変化している現状に直面し、時間の流れをストップをかけたいという私たちの願望が「コラーゲン豊富」食品に込められているとも言えるのではないかと思います。

(写真は、本のコピーです)

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503.最近の話題(24):黒猫

 
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 4回続けて「最近の話題」の記事になりますが、今回は  黒猫の話しです。

 昨年、いつの間にか、という感じなのですが、寺の境内で黒猫を見かけるようになりました。黒一色で個体の見分けがつきませんから、何匹いるのかも分からない、という状態でしたが、2匹同時に見かけましたので少なくとも2匹はいます。3匹同時に見たという情報もあるのですがこれは未確認情報です。
 多分親子だろう、とされていますが、これも不明です。

 昨年ゆっくりと目の前に現れたのは、私が境内の草引きをやっているときです。地面に座って作業をしていると、遠巻きに様子を見ていました。こちらが気づいて視線を向けると、後に引くように距離を保ちますが、そこにとどまってまた様子を見ている、といった具合で、こちらとの距離のとりかたを「測っている」という様子が見られました。

 年が明けて、1月7日に境内の陥没個所の補修作業を行った後、本堂の向拝(階段の部分です)で作業を行っていただいた方に雑煮を食べていただいていると、2匹が一緒に近くまでやってきました。これまで慎重に距離を測っていたのとは違い、親しげに近くまでやって来たという感じでした。作業をやっていただいた一人の人が立ち上がると、そのうちの1匹は足元にすり寄るようなそぶりも見せるのです。

 そういえば以前、関西にいた頃に同じような経験をしたことがあります。
 当時、通勤でJRの甲子園口駅まで約10分ほど歩いていたのですが、その途中のお宅に三毛猫がいて、その猫は朝私が通りかかると胸くらいの高さの塀の上を私と同じスピードで歩き、塀の切れ目にくると地面に飛び降りて足の周りをまとわりつくようにしていたことがありました。

 猫が足元にすり寄る行動について、ネットで調べてみましたら、自分の臭いをつけるマーキング行動や食べ物が欲しいとき、構って欲しいときの表現、さらには挨拶程度(?)の接触なのだそうです。

 7日の日、「初対面」の人にそういう行動をとるのも面白いなあ、と思っていましたら、その人は以前工事現場に猫が来たことがあって、毎日餌を与えていたということがあったという話をしておられました。その餌も時にはコンビニで買ってきたこともあったとかで、その結果、最初は痩せていた猫が工事が終わるころには「肥満猫」になっていたのだそうです。
 猫には初対面の人でも、猫好きの人かどうかが分かるのかもしれません。

 ということで、寺にこられたら、特に猫好きの方の前に、黒猫が姿を現すかもしれません。

(写真は、1月7日のその2匹の猫です)

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502.最近の話題(23):百人一首

20190114掲示  20190114百人一首

 先日、テレビのニュースで滋賀県の近江神宮で行われた競技かるた大会の様子が放映されていました。

 このニュースを見ていて、昨年、百人一首が話題に上ったことを思い出しました。
 昔は正月などに百人一首で遊んだものですが、最近はほとんどやりませんし、従って話題にも上らなくなっています。そんなことから、昨年のことが印象に残っていました。

 以前にこのブログでもご紹介しましたが、私が勤務していました会社に「ワンゲル班」という山歩きの同好会があって、そのメンバー5人が関西からこちらに来てくれました。二日間一緒に行動したのですが、その二日目の朝に寺を訪ねていただきました。
 その際に、メンバーの一人の方が寺の掲示板に書いてあった言葉を読んで、「この言葉は百人一首の『ながらへば またこの頃やしのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき』という歌を思い出すなあ」と言われたのです。

 その時の掲示板の言葉は、「やり直しのきかぬ人生ではあるが、見直しはできる」という言葉でした。
 寺では、屋外の2個所の掲示板と本堂に、次回の法座の案内と「ことば」をそれぞれA3用紙に印刷して掲示しています。その時はこの言葉(金子大栄師の「やり直しのきかぬ人生であるが、見直すことができる  」という言葉を一部修正したものです)を掲示していました。

 掲示板の言葉について感想やコメントをいただくことはほとんどありませんので、そのことをとても嬉しく思いました。さらに、金子大栄師の言葉から百人一首の歌を思い浮かべられたことも、なるほどそのような見方もあるんだなあ、と印象に残ることでした。
 じつは、この歌は私の「得意の札」でした。子供の頃、取り札の「うしとみしよそいまはこひしき」の「うし」が妙に気になり、なんで「牛」がでてくるんだろう、と不思議に思っていた札で、その後得意の札になっていました。
 そんなこともあって、金子大栄師の言葉とこの歌を結び付けて思い出していただき、二重に嬉しく印象に残ることでした。

 ただ、その時少しひかかるところもあって、今そのことを思い返しています。

 今回久し振りに百人一首について書かれた本を読み返しているのですが、この歌は、藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけあそん)(1104~1177年)という人のが詠んだ歌です。「これから先、生きながらえたのならば、今のつらさが懐かしく思い出されるのだろうか。この世をつらいと思った昔が今は恋しく感じられるのだから」といった心を記した歌です。
 この清輔氏は祖父、父と続く歌道の家柄に生まれた人でしたが、なぜか父に嫌われてその才能をなかなか認めてもらえなかったのだそうで、父の在世中は光の当たらない境遇にあったと伝えられています。
 この歌は、清輔氏27~30才の頃の歌で、「今はつらい、だけど過去のつらさも時間が解決してくれたのだから・・・・」となんとか生きていこうという心を詠んだ歌だとされています。(ただ、この歌は、彼が、父の死後に歌壇の中心人物に登った60歳前後に、「過去の苦労も今では恋しい」と詠んだ歌だという説もあるようです)

 一方の金子大栄師は、真宗大谷派(東本願寺)の僧侶(最高の学階に就任されています)で仏教思想家でもあった方です。

 金子師の言葉を読んで私は次のようなことを感じました。
 私たちは、私たちが生きている一瞬一瞬を当たり前のことのように思って生きています。今日があるから当然に明日がある、今年が過ぎてまた来年がくる・・・・というようにです。
 しかし、私たちは、親しかった人が亡くなり、あるいは自身が老いを自覚し病を得たりすると、この一瞬がたまたま恵まれたかけがえのない一瞬であること、また多くの人に支えられ成り立っているものだと気づかされます。そんなときには、時というもののとらえ方が違ってくるように思います。この「現在」というかけがえのない一瞬が多くの人に支えられ、見護られている一瞬だと受け止めた時には、「過去」というものもまた違った姿に見えてきます。
 つらかったこと、嬉しかったこと、様々な過去を私たちは持っています。特につらかった時代、思い通りにならなかった時代のことは、清輔氏と同じくまさに不遇の時代だと思い起されます。
 しかし、今の瞬間を、たまたま恵まれたかけがえのない時であり、多くの人から支えられ、見護られている時だと感じるときには、その過去も違った見方ができるように思います。つらい時でも多くの人に支えられていた、見護られていた、育てられたと「見直す」ことができる、金子師の言葉のように「やり直すことはできないけれど見直すことはできる」時なのだと感じることができます。
 そのような眼でもう一度現在を見ると、今の一瞬がさらに大切な、かけがえのないものに思えてきます。限られた命ですが、力いっぱい生きていこうという思いが強くなってくるように思います。

 過去と現在を時間の経過だけで見るのではなく、限りある時間の中で、恵まれ見護られている瞬間の重なりだと見ることができるように思われます。
 
 以前にご紹介しましたNHKの朝の連続ドラマ『半分、青い。』で、5年後の生存率が50パーセントだと知らされた晴さんは、それを知らされて、これまで当たり前と思っていた一瞬一瞬が幸せだと感じるようになったと言っていました。その言葉も思い出されます。

(図は、11月当時の掲示の言葉と百人一首の札です)

 掲示の文は、スペースに入れるためという申し訳ない理由で短くしてしまいました。
 自宅の百人一首を探したのですが見つからず、札の画像はネットから借りてきました。

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501.最近の話題(22):境内に陥没が

20190111陥没穴s 20190111陥没作業s 20190111陥没完成s

 元日の朝、駐車場から本堂に向かう通路に穴があるのを見つけました。直径が20センチ強、暗くて深さはよく分からなかったのですが相当な深さの陥没でした。
 4日に、ご門徒さんの息子さんで建設会社に勤めておられる岩﨑豊治さんに調べてもらったところ、空洞の深さは2メートル弱、広がりは地上の直径20センチよりははるかに広いものだということで、7日に補修をしていただくことになりました。

 7日の午前中に、岩崎さんともう一人の方で、補修作業を実施していただきました。
 作業は、ダストとよばれる小さな砕石を空洞に入れ同時に水を投入しそれを締め、最後はランマーという機械で土を固めるという作業になりました。昼前までには3トントラックで運ばれたダストの大部分を投入し固めて作業は終了しました。
 
 このように、作業が終わるまでの間に人や車が落ちるといった事故もなく、一安心というところです。

 でも、なぜこのような陥没が発生したのかは結局分からないままです。
 地下水が地中の土壌を流して陥没したような場合には、空洞の底部には水が見られるということですが、そのような水の流れも見られなかったようです。また、船木地区などではかつて炭鉱のあった所で坑道が陥没するということが結構あるのだそうですですが、寺の地下に坑道があったとは思えません。
 今回、投入したダストを締めるためにかなりの量の水を流し込んだのですが、その水が寺より低い場所のどこかから流れ出ているということも確認できませんでした。そういえば、裏の庭に池があるのですが、強い雨の後には池の縁まで溜まった水もしばらくするとなくなるということがあって不思議に思っていました。

 ひょっとすると、寺の下には割合に大きな石とその間に空洞があって、水や土がそこに落ち込んでいるのかもしれない、などと想像を膨らませております。

(写真は、当初の陥没と補修作業および作業終了後の通路です)

 運んでいただいたダストの残りを通路に敷き固めて、通路の凹凸をなおすことができました。

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500.最近の話題(21):歴史講座「浮世絵を読む」(2)

20190104錦絵寺子屋

 以前ご紹介していました、宇部地方史研究会主催の歴史講座「浮世絵を読む」が昨年12月21日の第5回講座で終了しました。

 5回の講座を通じて(私は11月23日だけは出席できずに4回でしたが)、浮世絵の観賞(浮世絵を見る)にとどまらず浮世絵を通じて江戸時代の文化や社会、政治などの姿がイメージできる(浮世絵を読む)講座だったように思います。

 再掲になりますが、5回の講義のタイトルは次のようになっていました。
  第1回「浮世絵の誕生と江戸文化」
  第2回「浮世絵の観賞方法」
  第3回「浮世絵の種類と庶民文化の興隆」
  第4回「浮世絵と江戸時代の旅行ブーム」
  第5回「江戸時代の出版文化と浮世絵」
 
 この講座の中で、新に知ったこと、印象に残ったことを記しておきます。

 ○浮世絵は当初は肉筆画だったのですが、その後版画(単色から錦絵と呼ばれる多色摺へ)と展開され、一般の人びとも楽しむことができる文化に育ちました。また高度で精緻な版画の技法や豪華な印刷法なども開発されていきます。
 ○浮世絵は、歌舞伎や遊里、相撲、美人画、旅行・名所案内、歴史画・武者絵、妖怪・怪談、枕絵など生活、文化に関わるものに題材を広げて人気が拡大しますが、大消費都市としての江戸がそれを可能にしたといえます。
 ○また、本(読み本)の挿絵としても多くの浮世絵が制作されました。
 ○浮世絵の制作に当っては、版元と絵師、彫師、摺師という分業体制も整備されます。
 ○その版元(販売も行います)や貸本屋などの出版、流通システムも作られてそれを支えました。
  出版を行う業(本や浮世絵などを刊行する)の創業は、18世紀後半から江戸時代の終わりまでの間に全国で2300軒以上で、そのうち江戸が917軒だったという数字が挙げられていました。また、19世紀初めの江戸にあった貸本屋は800軒に上っていたのだそうです。
 ○その間、幕府からの統制という締め付けもありました。贅沢品を禁止する、幕府への批判を禁止するなどの目的でなされたようですが、それへの対応にも知恵を絞っています。
  浮世絵の観賞方法についての説明の中に、浮世絵に記された情報についての説明がありました。それによりますと、一般の浮世絵には、タイトルを始め、版元を示すものと併せて検閲印を表示するように定められていたのだそうです。絵の下描きの段階で検閲を受けて彫りのステップに入ったようです。

 このように、江戸時代に浮世絵は庶民の「娯楽」の一部となりました。それを可能にしたのは、一般の人びとも浮世絵を購入することができる経済的な力を持つようになったこと、浮世絵の画材となる生活文化を楽しむ余裕ができたこと、読み本などを読みこなす力(識字)を備えていたことなどがあるようです。

 講座の中で、浮世絵が1枚いくらで売られていたのかというお話しもありました。普通の浮世絵で、蕎麦1杯の値段と同じくらいだったようです。時代によって違いがあるのでしょうが、蕎麦の値段が16文(落語「時そば」による?)、1文が30円程度(1文の価値は時代や何を基準にするのかということによって大きく違っているようで、10~100円の幅があるようです)とすると480円となります。いずれにしてもそんなに高価なものではなかったのでしょう。
 そんなこともあって、江戸時代の末期に海外に輸出する陶磁器を送る際に浮世絵が摺られた古紙で包装していて、その包装紙の浮世絵が海外で注目され、当時のヨーロッパの画家に影響を与えたということもありました。
 最近は、国内外を通じて浮世絵が人気を博しており急激に高騰しているというということです。1枚が何百万円もするものもあるということで、とても蕎麦1杯などというようなものではないようです。

 数字の統計はないようですが、江戸時代の江戸などの都市部の識字率は世界でも上位にあったとされています。地方も含めて、寺子屋(上方ではお寺で行われていたことからこのように呼ばれていたのだそうです。このような場面でもお寺が地域の中心の役割を果たしていたことが知られます)が設けられてそこで基礎的な教育がなされていたことがその要因とされているようです。

 今回の講座を通じて、浮世絵を通じて見える江戸時代は、幕府の統制や身分制度などがあったものの、経済的な豊かさとは別に人々が心豊かな生活を送っていた時代だったのではないかと改めて思いました。

(図は、寺子屋の様子を描いた錦絵です。東京都立図書館のサイトからお借りしています)

 1840年代の「文学万代の宝」という2枚続きの錦絵ですが、右には男性の先生、左には女性の先生と子どもたちが描かれています。子どもたちはいたずらをしたり、けんかをしたりと、思い思いに過ごしている様子が生き生きと描かれています。女性の先生の後ろにある本から、読み書き以外に花道や茶道なども教えていたことが伺えます。
 
 画面に「一寸子花里(いっすんしはなさと)」とあるのが浮世絵師の名前です。上方に黒い印鑑が押されていますが、講座の中で教えていただいた情報によれば、この印鑑は天保14年(1843年)から弘化4年(1847年)の期間に使われた「改印(あらためいん:許可印)」だそうです。このように改印によって制作時代の推定ができるということでした。
 瓢箪形の囲いの部分に版元名が記されていますが、「和爲」でしょうか?

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499.ご門主の「年頭の辞」

20190104ご門主一家 

 新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
 本願寺新報』にご門主の「年頭の辞」が掲載されていますので、以下その内容をお伝えいたします。

「新しい年のはじめにあたり、ご挨拶申し上げます。
 昨年は4月の島根県西部地震に始まり、大阪府北部地震、平成30年7月豪雨、台風20号・21号、北海道胆振東部地震など大規模な災害が立て続けに発生し、日本各地で多くの方が被害に遭われました。犠牲となられた方に衷心より哀悼の意を表示しますとともに、被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。また、世界ではインドネシアにおける地震と津波、北米における大型ハリケーンなど多くの自然災害が起こり、加えて昨年11月にはカリフォルニア州で州史上最悪の大規模な山火事が発生し、多数の犠牲者、行方不明者がおられるほか、大勢の方々が避難生活を余儀なくされています。そして、これら以外にも紛争やテロ・飢餓などによって、日々多くの方が犠牲となり、困難な生活を送っておられることも忘れてはいけません。
 さて、宗門では「<貧困の克服に向けて~Dana for World Peace~>ー子どもたちを育むためにー」という取り組みを始めています。阿弥陀さまのおはたらきの中で、自己中心的な身であるということを知らされている私たちであるからこそ、私を悲しんでくださっている阿弥陀さまのお心を思えば、その生き方は、他者の喜び悲しみを自らの喜び悲しみとするような生き方へ転ぜられるのではないでしょうか。そして、そこから社会の諸課題に積極的に取り組むという姿勢も生まれてくると思います。
 本年も浄土真宗のみ教えを聞き、南無阿弥陀仏とお念仏申す日々をともに過ごさせていただく中で、課題に向き合う1年にいたしましょう。」


(写真は、ご門主ご一家です。『本願寺新報』に掲載されていたものです。)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください) 
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