FC2ブログ

498.歴史を訪ねる(14):壽福寺の歴史(4)

20181231初雪  20181231初雪2

 「壽福寺の歴史」は、壽福寺の開基に関する3つ目の情報です。
 これまでの情報は、その1番目は信田之丸城が落城した際に、城主の杉重輔の弟が出家して寺を開いたという説、2番目はその重輔の長男の杉重良が毛利氏に反旗を翻して敗北し出家したという説でした。

 今回の第3番目の説は、『防長寺社由来』という書に記されている内容です。その記事を見てみますと、
「厚狭郡万倉村融光山寿福寺由来書覚
 一、当寺儀は往古福寿院と申真言宗の古跡ニ(に)て杉重義祈願所の由申伝候、拙僧先祖岩﨑相模守と申大内家随身の者ニて御座候処ニ、山口落城の以後発心仕、京都本願寺十二代順如上人御寺務の節上京仕、法名浄願と申請、弥陀尊影壱幅頂戴仕、帰国の上右の古跡真宗寿福寺と相改、当寺初代ニ罷成候事
 但、開基浄願事永禄十年霜月五日死去仕、墓所当寺境内ニ御座候事
 一、二代浄意 三代浄祐 四代浄専 五代浄玄 六代正伝 七代天竜 拙僧迄八代ニ罷成候事
 (中略)
 右当寺由来如斯御座候、以上
 寛保元酉九月廿二日
  厚狭郡万倉村真宗寿福寺(印) 玄貞(花押)
 井上武兵衛殿」

 この書によりますと、寺の由来を提出した玄貞師(第8代)は、「先祖は岩崎相模守という大内家の随身だったが、大内氏の滅亡にともない出家し、本願寺第12世准如(順如は誤りと思われます)上人の時に上京し、浄願という法名その他を頂戴し、帰国後古跡福寿院を真宗寿福寺に改めた」と記しています。

 ここでは、岩崎相模守という名前が初めて登場しました。
 この書によれば、当初岩崎という姓だったのがいつの時か杉に改められたということになります。確かに壽福寺には岩﨑あるいは岩崎という姓のご門徒さんが多くおられます。寺の近くではほとんどのお宅が岩﨑さんで、かつては門名(屋号)で呼び合っておられたことを覚えています。
 大内氏の家臣に岩崎相模守を名乗った人物がいたのか調べてみたのですが、これまでのところそのような情報を得るには至っておりません。
 ということで、岩崎相模守も今後の調査項目とします。

 この書でも浄願師の逝去は永禄十年(1567年)とされていて、前回見ました准如上人のご門主就任(1593年)より前であることは変わらず、この疑問点も残っています。

 さらに、玄貞師が記した8代までの住職の名前も、寺の過去帳と相違している部分があります。これについても今後調べてみたいと思っています。

 今回は今年最後の記事となりますので、壽福寺の開基に関する3つ目の説について取り上げました。2つ取り上げて1つ残っているというのもなんとなく据わりが悪い(?)感じがありましたので記事にしたのですが、上にあげたような疑問点は来年に持ち越しとします。

(写真は12月29日の本格的な初雪の風景です)

 当日朝の外気温はマイナス2度、本格的な寒さでした。写真に轍が見えますが、当日新聞を配達いただいた方が残されたものです。この寒さの中、有り難いことです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください) 
 
スポンサーサイト



497.最近の話題(20):「半分、青い。」(2)

20181228半分、青い  20181228半分、青い2

 以前にNHKのテレビドラマの「半分、青い。」について記したことがありましたが、『本願寺新報』の12月20日号にこのドラマを取り上げたコラムがありました。 
 「ニュースを読む」という連載のコラムなのですが、東京の延立寺ご住職の松本智量さんという方が「日常という豊かさ」というタイトルで記事を書かれていました。
 松本氏はこのドラマで印象に残ったことを2つあげておられました。

 その一つは、ヒロインの鈴愛(すずめ)ちゃんの幼なじみの両親夫妻です。
 奥さんの和子(わこ)さん(原田知世さんが演じていました)は病気で亡くなるのですが、そのご主人の弥一さん(谷原章介さん)は奥さんが亡くなった後も一見穏やかに暮らしているように見えました。弥一さんの友人は、そんな弥一さんをみて、奥さんを亡くした悲しみを乗り越えたのだと思い「弥一さんは強いな」と声をかけます。それに対して弥一さんは、「そんなことはない。毎日泣き通しだよ。でも僕は、悲しみを乗り越えるのはやめたんだ。悲しみと共に生きていくんだ。」と言います。
 松本さんはこれについて「悲しみは克服する対象ではない。悲しみは大切な人との生活の証(あかし)であり、それ自体が今の自分の支えにさえなりうる、ということを教えています。」と書いておられます。
 私たちは、永遠に続く命というものはないのだということはわかっていながら、死にたくない、死というものを考えたくないと思い、大切な人を失いたくないと思いながら生きています。そのような私たちですから、前回の「半分、青い。」にありましたように、5年後の生存率が50パーセントだと告げられると、晴さんと違って苦しみ、絶望してしまいます。大切な人を亡くすと悲しみにとらわれてしまいます。
 しかし、松本さんが言われているのは、大切な人と別れるという悲しみを乗り越えようとするのではなく、弥一さんのようにその悲しみと共に生きていくことの強さだと思います。同じように死を免れることができないものだと受け止め、しかしそれに絶望することなく、目をそらして逃げるのでもなく、そのことと共に生きていく強さというものがあるのだということだと思います。

 その二つ目は、鈴愛ちゃんが幼い時に病気で片方の耳の聴力を失ったことに関してです。
 その後のドラマの展開の中で、彼女が聴力を失ったことは時々出てくるのですが、大きなエピソードになることはありませんでした。これについて、ネットでは「聴力障害の設定って必要だったの?」とか「伏線が回収されていない」といった反応(批判)があったのだそうです。実は私も、鈴愛ちゃんが耳が不自由なことはどうなったのかな、と思ったことがありました。
 松本さんは「これらの反応は、日本社会において障害が未だに「特別」であることを示しています。ドラマに障害者が登場すると、そこに何か「意味」があるのだろうと視聴者は身構えます。」しかし、「本作で聴力障害は、日常の一要素でした。」と記されています。
 「日常の一要素」という言葉は重い言葉だと思います。私たち一人ひとりはそれぞれ個性を持っています。一人ひとりの能力はそれぞれ違っていて、得意なこと、不得手なことがあります。
 障害に対してその態様に応じて必要な制度的なあるいは設備的な対応が必要だということは当然のことですが、そのうえで、私たちはその「日常」の中で障害というものを受け止めて、必要な行動が自然にとれるということが大切だと思います。ドラマの中でも、左耳が不自由だった鈴愛ちゃんに話をするときに、右側から話しかける場面がありましたが、そのような行動が自然にとれるというようなことが障害を「日常の一要素」とすることではないかと思いました。

 こうしてみますと、「半分、青い。」は色々なことを考えるヒントを持ったドラマでした。

(写真右は和子さん夫妻、左は、和子さん夫妻が子供の頃の鈴愛ちゃんと幼なじみと話をしているところです。)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

496.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (18):上巻第五段(3)

 
20181224法然聖人s    20181224法然聖人2s

 本日は、上巻第五段の最後の部分になります。

『選択本願念仏集』は、禅定(ぜんじょう)博陸(はくりく) 月輪殿(つきのわどの)兼実(かねざね)、法名円照 の教命(こうめい)によりて選集(せんじゅう)せしめたまふところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在(しょうざい)せり。見るもの諭(さと)りやすし、まことにこれ希有最勝の華文(かもん)、無上甚深(じんじん)の宝典なり。年を渉(わた)り日を渉り、その教誨(きょうけ)を蒙(こうぶ)るの人、千万なりといへども、親(しん)といひ疎(そ)といひ、この見写を獲(う)るの徒(ともがら)、はなはだもつてかたし。しかるにすでに製作を書写し、真影を図画す。これ専念正業(しょうごう)の徳なり、これ決定(けつじょう)往生の徴(ちょう)なり。よつて悲喜の涙を抑へて、由来の縁を註(しる)す」と云々。」

『選択本願念仏集』は、そのころ出家しておられた関白九条兼実公(月輪殿と呼ばれ、法名は円照)のご命令によって、撰述せられたのものです。真宗の要点、念仏の奥義がこの中にすべておさめられています。これを見るものは、念仏の教えをさとりやすく、本当に世に稀な、もっとも勝れた文章であり、これ以上のものはない意味の深い貴重な聖典です。長い年月にわたって、その教えをこうむった人は、千万人にものぼるけれども、法然聖人に親しかった人の中でも、それを拝見し書写させていただいた人は、本当にわずかしかありませんでした。それなのに、私、親鸞はそれを書写し、さらに肖像画まで描かせていただきました。これはひとえに、ひたすら念仏を称えさせていただく身となった徳によるものであると共に、かならず浄土へ往生するという、そのしるしでもあります。ですから、ここに喜びの涙をおさえながら、これまでの経緯を註記しておくのです。
と書かれています。」


  覚如上人は引き続き『教行信証』の親鸞聖人の言葉を記されます。
 親鸞聖人はここで、法然聖人が記された『選択本願念仏集』が世に稀な、これ以上ない大切な書であるとされ、法然聖人がこの書をごく限られた人にしか書写を許されなかったこと、ご自身がそれを許され、さらには法然聖人の肖像画まで書写することを許されたことを感激をもって記されます。

 法然聖人はここにありますようにその主著の『選択本願念仏集』を九条兼実公の求めによって著述され、それが完成したのは建久9年(1198年)のこととされています。(元久元年(1204年)完成とする説などもあるようです)
 この九条兼実公は、平安時代の終わりから鎌倉時代の始めにかけて、摂政、関白を努め政治に中心におられた人物で、親鸞聖人が出家された際に戒師をつとめた慈円師の兄に当たる人でもあります。そのような人なのですが、法然聖人の念仏の教えに帰依され、法然聖人にその教えを著述するようにと要請されました。

 法然聖人は、兼実公の求めに応じて『選択本願念仏集』を著されたのですが、この書の末尾に「一たび高覧を経て後に、壁の底に埋みて、窓の前に遺すことなかれ(読み終わったら後は壁の底に埋めて、窓の前に遺してはならない)」と記し、一般に公開することを禁じられました。
 それは、前にも記しましたように、法然聖人が『選択本願念仏集』に説かれた念仏の教えが当時の仏教界では全く新しい教えであったことによります。これに対する拒絶反応から弾圧につながる恐れがあり、中途半端な知識で読むことによって誤解されるという懸念を持たれたことによります。

(図は、岡崎市の妙源寺に「選択集相伝御影」として伝わる法然聖人像です。『真宗重宝聚英』第6巻(1988年同朋舎出版)よりお借りしています)

 前回、親鸞聖人が法然聖人から「南無阿弥陀仏」の名号と『往生礼讃』の文をいただかれた法然聖人の肖像画はまだ見つかっていないと書きましたが、その肖像画ではないかと有力視されているのがこの妙源寺の「選択集相伝御影」だということです。
 右の図は、画面右上の部分なのですが、この字は法然聖人の自筆に間違いないだろうとされているものです。

 『御絵伝』や『伝絵』では、法然聖人は肖像画の上下に白い枠があってそこに讃文を書かれているように描かれていましたが、実際はこの絵のように白枠はなかったということになりそうです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

495.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (17):上巻第五段(2)

20181221伝絵五段西本願寺本s    

 前回に続いて、『御絵伝』上巻第五段です。『御伝鈔』の文と訳文を載せます。
 
「おなじき二年閏(うるう)七月下旬第九日、真影(しんねい)の銘は、真筆をもつて、〈南無阿弥陀仏〉と〈若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生〉の真文(しんもん)とを書かしめたまひ、また夢の告げによりて、綽空の字を改めて、おなじき日、御筆(ごひつ)をもつて名の字を書かしめたまひをはりぬ。本師聖人(源空)今年七旬三の御歳なり。」

「その年の閏七月二十九日に、この画像の讃銘には、法然聖人の真筆をもって、「南無阿弥陀仏」の名号と、
  もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名を称せん。下十声にいたるまで、もし生れずは正覚を取らじ。かの仏いま現にまし 
 まして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すれば、かならず往生を得(う)。
という善導大師の『往生礼讃』に記された真実の言葉とをお書きつけになられました。しかもまた、夢のお告げによって、綽空という私の名を改めて、その日に、ご自筆をもって別の名前の字をお書きくださいました。法然聖人は、この年には七十三歳でした。」

 前回学びました部分では、親鸞聖人が1205年に、法然聖人から『選択本願念仏集』の書写を特別に許されたことが記されていました。法然聖人の念仏の教えに帰依されてから4年後のことで、さらにその写本に「選択本願念仏集」という内題の字と、書の肝要の言葉および「綽空」という名前を法然聖人ご自身の筆で記されたこと、さらに法然聖人の肖像画を書き写すことを許されたことが伝えられていました。

 今回の部分では、その出来上がった法然聖人の肖像画の写しに、法然聖人が「南無阿弥陀仏」の名号と、法然聖人が尊崇されていた善導大師のお言葉および「綽空」にかわる親鸞聖人のお名前(夢告によったもの)を自ら記されたことが伝えられています。

 平松令三氏はこの親鸞聖人が写され、法然聖人が讃を記された法然聖人の肖像について、様々な議論があるということを記されています。
 その一つが、法然聖人が「綽空」に変えて親鸞聖人に与えられたお名前は何だったのか、その要因となった夢告というのはいつのことだったのか、という点です。この新しい名前については、親鸞聖人もこの出来事を記された『顕浄土真実教行証文類』に記されておらず、従って覚如上人も『御伝鈔』に記されていません。
 この法然聖人の肖像画を親鸞聖人は大切に肌身離さずに持っておられたものと想像されますが、その肖像画は現在のところ見つかっていないそうで、そこに記された親鸞聖人の新しい名前を確認することはできません。

 一つの説は、この夢告は先にありました「六角堂」の夢告のことで、従って新しい名前は「善信」だとするものだそうです。
 この説に対して、平松氏は、親鸞聖人はこの出来事に先立って書写された『選択本願念仏集』に「釈綽空」の名前をいただかれたわけですから、夢告はその後、肖像画の写しに真筆をいただかれるまでの4カ月余りの間のことだとされます。
 そして、その新しい名前は「親鸞」だったと考えるべきだとされています。

 氏はその理由として、当時、名前というのは実名のことで、「善信」はいわゆる房号(ぼうごう)であって、実名ではないことを挙げておられます。『浄土真宗辞典』によりますと、房号とは、「僧侶を諱(いみな:実名)で呼ぶことを憚って居住する房室の名を称号としたもの。」であり、親鸞聖人の房号は「善信房」だとされています。
 親鸞聖人が出家されたときは「範宴(はんねん)」というお名前でしたが、その後「綽空」と名乗られました。そして、今回「親鸞」に改められたというのが平松氏の説で、その説が有力になっているということです。(ただ、同じ『浄土真宗辞典』の「親鸞」の項では、「法然の真影を図画し、夢告により綽空の名を善信とあらためたという。」とされています)

 新しい名前が何だったのかということは別にして、この第五段に記されている出来事を通じて、私たちは、法然聖人の教えに帰依された親鸞聖人が、短い期間に師である法然聖人の絶大な信頼を受けられるようになられたこと、また親鸞聖人がそのことを生涯を通じて感激をもって受け止めておられたことを知ることができます。

(図は、『親鸞聖人伝絵』(西本願寺本)の「選択付属」の段の絵です。)

 「伝絵」では、画面の左に親鸞聖人に『選択本願念仏集』を与えられる法然聖人、右に肖像画に筆を入れられる法然聖人が描かれています。この並びは前回載せました『御絵伝』と逆になっています。
 右の図で法然聖人は、ご自身の肖像の下の白い部分に筆を入れられていますが、このような様式で描かれた法然聖人の肖像画はまだ発見されていないのだそうです。
 また前回の図と比較しますと、前回の建物は今回のものに比べて非常に立派な建物として描かれています。「伝絵」の方が当時法然聖人が住んでおられた建物に近いのかもしれません。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

494.新聞版「壽福寺だより」をお届けします

  20181217新聞  20181217新聞2

 新聞版「壽福寺だより」の12月号、新年号を作りましたのでお届けしています。
 今月号の内容は次の通りです。

○1面(12月号)

 「報恩講をお勤めしました」
  11月25日にお勤めしました報恩講についてのご報告です

 「壽福寺を会場に『連続研修会』」
  10月13日に開催されました連続研修会についてのご報告です

 「来年のご法事のご連絡など」
  来年4月以降にご年忌を迎えられるお宅へのご案内に関するものです

○2面(平成31年新年号)

 「明けましておめでとうございます」
  今年の写真は穂高岳の日の出です

 「即如ご門主のご親教『私たちのちかい』」
  ご門主のご親教についてご紹介しています

 「宇部北組念仏奉仕団計画」
  計画の速報です

 「今年の壽福寺の行事計画です」
  年間の法座の計画をご連絡しています

 「本願寺からの出版物等のご案内」
  『本願寺新報』およびCD版『日常勤行聖典』についてご紹介しました

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
 

493.来年の法座の計画です

20181214ソバの花s  20181214ソバの花2s

 来年の法座の計画ができましたので、ご案内いたします。ご予定いただきお誘いあわせてお参りください。
 また、総代会、仏教婦人会の皆様にはお世話になりますが、よろしくお願いいたします。

○春季永代経法要
 日時 3月10日(日) 10:00~(午前中)
 ご講師 蘭 哲昭 師(大津東組 願生寺ご住職)
 (おときを準備いたします。)

○降誕会
 日時 5月3日(祝日) 10:00~(午前中)
 ご講師 林 正文 師(大津東組 清福寺ご住職)
 (おときを準備いたします。餅まきを予定しています。)

○夏法座
 日時 7月7日(日) 10:00~(午前中)
 ご講師 中山 和泉 師(白滝組 西楽寺ご住職)
 
○秋法座
 日時 9月1日(日) 10:00~(午前中)
 ご講師 二木 文生 師(豊浦組 光善寺ご住職)
 (おときを準備いたします。)

○報恩講
 日時 11月10日(日) 10:00~(午前、午後)
 ご講師 尾寺 俊水 師(豊田組 清徳寺ご住職)
 (おときを準備いたします。)

 報恩講を除き、終了後に勉強会を予定しますので引き続いてご参加ください。

(写真は、ソバの花です。)

 この写真は昨年徳坂地区で撮影したものですが、今年は植えられなかったようです。白鷺がゆったりと過ごしていました。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

492.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (16):上巻第五段

20181210御絵伝第五段自坊


 『御絵伝』は第2幅に入ります。右から2番目の幅で、今回も下から上に向かって見ていくことになります。
 今回の段は「選択付属(せんじゃくふぞく)」の段と呼ばれていて、親鸞聖人が法然聖人に帰依されて以降の出来事が記されています。

 『御伝鈔』の前半の部分について、原文とその訳を見てみます。

 「黒谷の先徳 源空 在世のむかし、矜哀(こうあい)のあまり、あるときは恩許を蒙(こうぶ)りて製作を見写し、あるときは真筆を下して名字を書きたまはす。すなはち「顕浄土方便化身土文類」の六にのたまはく、親鸞上人撰述「しかるに愚禿(ぐとく)釈鸞(しゃくのらん)、建仁辛酉(かのとのとり)の暦、雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願に帰し、元久乙丑(きのとのうし)の歳、恩恕(おんじょ)を蒙りて『選択』(選択集)を書く。おなじき年初夏中旬第四日、<選択本願念仏集>の内題の字、ならびに<南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本>と、<釈綽空>と、空(源空)の真筆をもつてこれを書かしめたまひ、おなじき日、空の真影申し預かり、図画したてまつる。」

 「むかし比叡山黒谷で修行せられた先師法然聖人がご在世だったころ、親鸞聖人はたいへんお慈しみをいただいて、あるときはめぐみ深いお許しを得て、ご著作の『選択集』を書写させていただきましたし、あるときはご自筆で聖人の名前を書いていただきました。そのことは、親鸞聖人ご撰述の『顕浄土真実教行証文類』の第6巻「化身土文類」に、次のように書かれています。
  わたくし、愚禿釈親鸞は、建仁元年辛酉の年(1201年)、自力修行の雑行を棄てて、阿弥陀如来の本願に帰依し、元久2年乙丑の年(1205年)、法然聖人の特別のお許しをいただいて、『選択集』を書き写しました。そしてその年の4月14日、その本に「選択本願念仏集」という内題の字と、「南無阿弥陀仏、往生の業には念仏を本とす」という言葉、それに「釈綽空」という私の名とを、法然聖人の真筆でお書きいただきました。またその日、法然聖人の肖像画をお貸しいただき、それをもとにして画像を描かせていただきました。」


 この部分では、親鸞聖人が法然人よりそのご著作である『選択本願念仏集』の書写を許され、その本に法然聖人ご自筆の言葉および「釈綽空」という名前を記していただいたこと、また法然聖人の肖像画をお借りして画像を書写させていただいたことが述べられています。
 訳文にありますように、親鸞聖人が自力修行の道を棄てられて法然聖人の許に加わられたのが、1201年29歳のときでした。そして、この『選択本願念仏集』を書写し、法然聖人の肖像画を書き写すことを許されたのが、その4年後、聖人33歳の時でした。

 法然聖人は主著『選択本願念仏集』を一般に公開することを禁じられました。法然聖人はこのご本の中で、念仏のみが今の時代にふさわしい法門であると主張されたのですが、これは当時の在来の仏教を否定する主張であり、これに対する反発が予想され、弾圧を受ける可能性が大きかったことによります。
 従って、法然聖人は限られたお弟子さんにのみ『選択本願念仏集』の書写をお許しになり、平松令三氏によれば書写を許されたお弟子さんは親鸞聖人を含めて10人前後だとされています。

 法然聖人の門下に加わられてからわずか4年の親鸞聖人がその書写を許されたということは、親鸞聖人に対する法然聖人の信頼が極めて厚かったのだといえます。さらに法然聖人は、親鸞聖人にご自身の肖像画を写すことも許されました。
 『御伝鈔』にありますように、親鸞聖人はこのことを『顕浄土真実教行証文類』に記されています。平松氏によりますと、親鸞聖人がご自身の体験について記されることは極めて稀なことだということですが、その聖人が『選択本願念仏集』の書写と法然聖人の肖像画の書写について十年以上経過した後にも記されているということは、これらのことが親鸞聖人にとってなにものにも代えがたい大きな喜びであったことだと思われます。

(図は、自坊の『御絵伝』第五段です。)

 右には親鸞聖人が法然聖人より『選択本願念仏集』を受けられる場面、左には法然聖人の肖像画に讃文をいただかれている場面が描かれています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

491.ご親教「私たちのちかい」

20181207ご門主

 去る11月22、23日に本山の阿弥陀堂で「秋の法要(全国門徒総追悼法要)」が営まれました。住職はお参りすることができませんでしたが、以下『本願寺新報』および本願寺のHPの情報をご紹介します。

 その法要の後に、ご門主はご親教を述べられ、その中で「私たちのちかい」を示されました。
 この「私たちのちかい」は、平成28年10月1日の伝灯奉告法要の初日に示された「念仏者の生き方」の要点を四か条にまとめられたもので、中学生や高校生、大学生を始めこれまで仏教や浄土真宗のみ教えに親しみのなかった方々にも唱和していただきたいと示されたものです。
 (以下の内容は、12月1日付けの『本願寺新報』より引用させていただきました。)

 私は伝灯奉告法要の初日に「念仏者の生き方」と題して、大智大悲からなる阿弥陀如来のお心をいただいた私たちが、この現実社会でどのように生きていくのかということについて、詳しく述べさせていただきました。このたび「念仏者の生き方」を皆様により親しみ、理解していただきたいという思いから、その肝要を「私たちのちかい」として次の四ヵ条にまとめました。

私たちのちかい

一、自分の殻(から)に閉じこもることなく
  穏(おだ)やかな顔と優しい言葉を大切にします
  微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように

一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
  しなやかな心と振る舞いを心がけます
  心安らかな仏さまのように

一、自分だけを大事にすることなく
  人と喜びや悲しみを分かち合います
  慈悲(じひ)に満ちみちた仏さまのように

一、生かされていることに気づき
  日々に精一杯(せいいっぱい)つとめます
  人びとの救いに尽くす仏さまのように

 この「私たちのちかい」は、特に若い人の宗教離れが盛んに言われております今日、中学生や高校生、大学生をはじめとして、これまで仏教や浄土真宗のみ教えにあまり親しみのなかった方々にも、さまざまな機会で唱和していただきたいと思っております。そして、先人の方々が大切に受け継いでこられた浄土真宗のみ教えを、これからも広く伝えていくことが後に続く私たちの使命であることを心に刻み、お念仏申す道を歩んでまいりましょう。

2018(平成30)年11月23日

                           浄土真宗本願寺派門主 大谷 光淳


(写真は、ご親教を述べられる専如ご門主です。本願寺のHPからお借りしました。)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

490.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (15):上巻第四段

20181203伝絵蓮位自坊

 『御絵伝』は、上巻第四段になります。4幅の『御絵伝』では右端の第1幅の一番上に描かれている場面で、「蓮位夢想(れんいむそう)」の段と呼ばれています。

 『御伝鈔』の該当部分とその訳文を記します。

 「建長八年 丙辰(ひのえたつ) 二月九日の夜寅時(とらのとき)、釈蓮位(れんい)夢想の告げにいはく、聖徳太子、親鸞上人を礼(らい)したてまつりてのたまはく、「敬礼大慈阿弥陀仏 為妙教流通来生者 五濁悪事悪世界中 決定即得無上覚也」。しかれば、祖師上人は、弥陀如来の化身にてましますといふことあきらかなり。」
 
 「建長8年(1256年)二月九日の夜、午前4時ごろ、聖人側近の弟子であった蓮位房にお告げがありました。それは夢の中で、聖徳太子が親鸞聖人を礼拝せられて「大慈阿弥陀仏を敬礼したてまつる。妙教を流通せんがために来生するは、五濁悪事・悪世界のなかにして、決定してすなわち無上覚を得しめんとなり(あなたは阿弥陀仏です。おうやまいし、おがみたてまつります。あなたが尊い仏教のみ教えを伝えるためにこの世へやってこられたのは、汚れ濁りに満ちているこの世界の人びとに、尊いみ教えによって必ず最高のさとりを得させよう、とのためです)」と仰せられたのです。ですから、親鸞聖人は阿弥陀さまの化身であることは明らかで間違いありません。」

 この上巻第四段は第三段に比較して極めて短い段で、『御伝鈔』の15の段の中でも最も短い段です。

 内容は、親鸞聖人の直弟の一人の蓮位という方が、建長8年(1256年)見られた夢の内容が記されています。そこでは、、聖徳太子が親鸞聖人に対して、「あなたは阿弥陀さまです。この末法の世の人びとにさとりをひらかせてくれた」と礼拝されたと記されます。

 建長8年といいますと、親鸞聖人は84歳になっておられます。これまで『御絵伝』は聖人のご出家から始まりそれ以降、時代の流れに従って記されてきましたが、ここで一気に聖人の晩年に生じた夢告の話が入ってきます。しかしこれに続く第五段は再び時代の流れに応じた記事に戻ることになります。

 なぜこのような時間の経過を断つような配置になったのかということについて様々な見解が示されたようです。
 現存する「親鸞聖人伝絵」では、この「蓮位夢想」の段が入っているものと入っていないものがあるのだそうです。「伝絵」は覚如上人が最初に制作されてから何度も推敲し内容を改定されたのですが、その途中で蓮位房がこの夢想のことを記された「夢想の記」を読まれ、当初入っていなかったこの段を追加されたのでだとされているようです。

 さらに、時代の流れを断つようにこの場所に「蓮位夢想」の段を入れられたことについては、この場所が第1幅目の最後の部分に当り挿入しやすかったからだ、とする見解もあるようです。
 しかし、平松令三氏は、第三段の「六角夢想」の段とのつながりからこの場所に置かれたのではないかとされています。
 「六角夢想」の段では親鸞聖人は聖徳太子から「念仏を東方にひろめよ」と告げられ、それに従われ念仏がひろまりました。そのことについて、今度は聖徳太子が親鸞聖人を讃えられたとする「蓮位夢想」の段が「六角夢想」の次に置かれたのだとされています。

 「六角夢想」の段でも記しましたように、当時の人びとは現代の私たちには想像もつかないくらいに「夢」というものに大きな意味、力を感じていたようです。今回の「蓮位夢想」も、その夢告について覚如上人が喜ばれ「伝絵」に追加されたものだということができるようです。

(図は、自坊の「蓮位夢想」の段です。以前に掲載しました第三段の図は一部を切り取っていましたが、その切り取った部分がこの第四段の図に当たります)

 墨衣、墨袈裟の姿の親鸞聖人の前にひざまづいておられるのが聖徳太子で、板間の別の畳で眠っているのが蓮位房です。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

続きを読む

カウンター
カテゴリ
検索フォーム
リンク
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR