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489.山口別院報恩講にお参りしました

20181130別院報恩講

 11月28日、山口別院の報恩講に岩﨑明さん、江木都美恵さんとご親戚、住職、坊守がお参りしました。
 別院の報恩講は毎年、11月26日から28日の3日間お勤めになりますが、28日が宇部北組の参拝日になっています。

 当日住職は、日中勤行(午前のお勤め)の『十二礼作法』と逮夜勤行(午後のお勤め)の『宗祖讃仰作法(音楽法要)』に列衆として出勤しました。
 振り返ってみますと、別院の法要で出勤するのは2013年6月の永代経法要以来のことですから、5年ぶりということになります。普通は外陣でお勤めする『宗祖讃仰作法』も、内陣で荘重な雅楽とともにお勤めすることができて、参拝された方々との一体感を強く感じることができました。

 当日のご講師は安芸教区からおいでいただいた瀧渕良孝氏でした。
 住職は、出勤の出入りなどでゆっくりとご法話をお聞きすることができなかったのですが、阿弥陀さまがいつも私たちを見護っていただいており、私たちの命が終わるときには間違いなく救うと願っておられること、そのことを親鸞聖人がご生涯を通じて私たちにお伝えいただいたことをお取次いただきました。そして、今度は私たちがそのことを受け継いで伝えていかなければならないとお示しいただきました。
 また、お仏壇のお荘厳に関する逸話やお話しなども印象に残るものだったとお聞きしました。

 当日のお昼の昼食時には、山口雅楽会による雅楽の演奏を楽しむことができました。
 この山口雅楽会は、山口教区内の若手僧侶で編成された雅楽を演奏するグループで、結成以来30年を超え、構成員も60名を超える組織となっているということです。寺院での法要などでの演奏や、寺院外でのイベントでの演奏など幅広い活動をされています。
 当日は、笙(しょう)、龍笛(りゅうてき)、篳篥(ひちりき)という「管楽器」を使った演奏を聞くことができました。なお、午前、午後の勤行ではこの3種類の楽器の他に羯鼓(かっこ)、鉦鼓(しょうこ)、太鼓(たいこ)が加わりました。

(写真は、ご講師の瀧渕良孝氏です)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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488.報恩講をお勤めしました

20181126報恩講4 
 昨日11月25日、報恩講をお勤めすることができました。
 前日とは違って暖かい陽気になり、40名を超える方にお参りいただきました。

 ご講師には、美東町の正岸寺の桑羽隆慈師をお迎えしました。師は1992年の壽福寺の本堂屋根改修落慶法要にご出講いただいた方ですが、2002年の夏法座以来久し振りのご講師となりました。

 ご講師は、「眠くなるかもしれませんが・・・」と言いながらお話しをされていましたが、テンポのよい、時事の話題も盛り込んだお話しで、一同「眠くなる」暇もなくお聞きすることができました。

 住職は当日葬儀が入っており、残念ながら午前中の途中で中座させていただきましたが、後でお聞きしてもお参りいただいた方には印象に残るご法話だったと伺いました。
 いつもは、午後の座に残られる方が少なくて残念に思っていましたが、昨日は20名を超える方がお斎の後も残っておられたということで、これも嬉しく思いました。

 今回も多くの方のご協力をいただきました。
 すでにご報告しましたように、11月18日には総代の皆さんに、駐車場や境内、石段周辺、参道の草刈りと清掃をお願いしました。なお、石段周辺と山門から本堂に至る通路にはその後も落葉がありましたので、追加して前日、当日にも清掃を行いました。秋法座のご講師のお話しから、石段の周辺にも気を配りたいと思った次第です。

 お斎には、「伝統料理のけんちょう」と味噌汁を準備していただきました。
 前日に3名の方においでいただいてけんちょうの煮込みを行い、当日はこれも恒例の味噌汁の調理をお願いしました。

 このように、多くの方のご尽力で滞りなくお勤めすることができました。お参りいただいた方、準備いただいた方に心よりお礼申し上げます。

 当日の写真です。

   20181126報恩講    20181126報恩講2    20181126報恩講3
 左は、前日にけんちょうを準備いただいた、左から志賀信子さん、井上幹子さん、井上愛子さんです。
 中は、当日のお斎を準備いただいた、左から石川ハルミさん、江木都美恵さん、志賀信子さん、山本信子さん、井上愛子さんです。井上さん(仏教婦人会会長)、志賀さん(婦人会監事)には2日続けてご協力いただきました。
 右はご講師と参拝者の皆さんです。

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487.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (14):お取越し

20181123弁円掛軸 (2)        20181123御絵伝 (2)


 11月の始めからお取越しのお勤めに伺っています。その中で、出会いました『御絵伝』と親鸞聖人を描いた掛軸をご紹介します。

 掛軸の方は、昨年このブログでご紹介した山根裕さんのお宅のものです。軸には、親鸞聖人を亡き者にしようとした修験者の弁円が聖人に帰依することになる「弁円済度」の場面が描かれています。
 昨年のお取越しに伺った際に、報恩講のご講師のご法話を聞かれてお母様が大切にされていたこの絵が「弁円済度」を描いたものだと気づかれたというお話しをお聞きしていました。
 山根さんはその後表装を補修され、きれいな掛軸となっていて、「この絵に出会えたご縁をこれからも大切にしていきます」と仰っておられました。

 11月19日にお勤めしました宇内の志賀慎次さんのお宅では、毎年『御絵伝』の軸が床の間にかけられています。
 こちらの軸では、1幅の中に『御絵伝』の20の場面が左右2列に分けて描かれています。この『御絵伝』でも、下から上に、右から左に見ていきます。右の部分には、最初の10場面(「青蓮院門前」から下巻「念仏禁止」までの10場面)が描かれ、左の部分には「九卿の僉議」と呼ばれる部分から最後の「廟堂創立」までの10場面が収められています。
 お話しを伺いますと、慎次さんのお母様が嫁いで来られたころにはこの掛軸はもうあったのだそうですから、随分と古いものだと思われます。15年ほど前に表装を補修されたということで、鮮やかな色彩を保っていました。

 実は、2、3年前お取越しにお参りした際に、他のお宅でも『御絵伝』を描いた掛軸を見た記憶があるのですが、今年のお取越しでは出会っておりません。ひょっとしたら、ご当主が亡くなられご子息が遠くにおられるためにお取越しをお勤めしなくなったお宅でお見受けしたものかもしれません。
 残念なのですが、心当たりのあるそのお宅について問い合わせをしてみたいと思っています。

(写真左は補修が終わった山根さんのお宅の掛軸、右は志賀さん宅の『御絵伝』の掛軸です。)

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486.報恩講に向けて草刈りを行いました

IMG_4306.jpg   IMG_4296.jpg

 昨日11月18日、報恩講に向けて境内及び周辺の草刈り、落ち葉掃除を行っていただきました。

 9:00より12名の総代さんとご一緒に、参道、駐車場、石段周辺の草刈りと落ち葉掃除を行いました。
 境内と石段周辺には3本のイチョウの木があるのですが、ちょうど落葉の時期に当たっています。あたり一面黄色い葉が覆っていましたが、この葉をブロワーや竹ぼうき、熊手などを使って清掃していただきました。
 黄色い落葉は見た目には美しいのですが、これを掃くとなると大変で、ひと汗かく作業となります。
 それでも、皆さんにご協力いただいて作業ははかどり、約1時間で予定した作業を終えることができました。

 作業が終わった後、コーヒーと、山本千代子さんから差し入れのあった吉部の伝統のお菓子「竿餅」などをいただきながら、一息つくことができました。
 その中で、山門の屋根の塗装が腐食していることについて今後対策について検討したいむねご説明しました。

 なお、報恩講は次の要領でお勤めします。多くの方のお参りをお待ちしています。

1.日時
 11月25日(日)10:00~15:00

2.ご講師
 桑羽隆慈師

3.その他
 お斎を準備します

(写真は、作業していただいた総代さんと石段周辺の作業の様子です。)

 左の写真のように、境内のモミジが見頃になっていてその下での写真となりました。
 左から埴生充さん、埴生和彦さん、今橋庄二さん、岩﨑昌彦さん、山本千代子さん、吉屋博志さん、三上敏秀さん、山根惣一さん、田中光明さん、金子富士夫さん、志賀慎次さんの奥さん、井上啓志さんです。ありがとうございました。

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485.山口別院報恩講のご案内

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 報恩講は、親鸞聖人のご命日に当たって聖人のご苦労をしのび、ご恩にお礼申し上げる法要です。本山では聖人のご命日の1月16日までの1週間にわたって御正忌報恩講として勤められ、寺でも11月25日に報恩講をお勤めし、またお取越し(ご家庭でお勤めする報恩講)として現在お宅に伺っている所です。
 山口別院では、「本願寺山口別院報恩講」として下記の要領により勤められます。
 
1.日時 
 11月26日(月)~28日(水)(いずれも、10:00~と13:30~)
 宇部北組の参拝日は10月28日となっていますが、他の日でも可能ですので、ぜひご参拝ください。
 お参りいただく方は寺までご連絡ください。

2.場所
 山口別院

3.ご講師
 10月26日 舟川宏顕氏(北豊教区 両徳寺前住職)
 10月27日 寺西龍象氏(安芸教区 真光寺住職)
 10月28日 瀧渕良孝氏(安芸教区 正覺寺住職)

4.お持ちいただくもの
 ○お経本、念珠、門徒式章

5.その他
 ○おときをご準備します。
 ○山口みのり会の方々が暖かい「ぜんざい」を準備していただきます。

*********
 11月26日のお勤めには、住職も出勤(内陣あるいは余間でお勤めすることです)する予定になっています。
 その習礼(しゅらい:練習のことです)が11月14日に行われ、当日お勤めする『十二礼作法』および『宗祖讃仰作法 音楽法要』の手順を確認することができました。
 いずれも厳かに奏される雅楽とともにお勤めされます。

(写真はお勤め(一昨年)とご奉仕いただいたぜんざい(昨年)の様子です)

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484.歴史を訪ねる(13):壽福寺の歴史(3)

20181112蓑島2  20181112蓑島   

 「壽福寺の歴史」の3回目となります。前回は壽福寺の開基が、1551年の大寧寺の変に続く争いの結果、信田之丸城主の杉重輔の弟と思われる人物が寺に入ったことによるという説でした。
 今回の説は、豊前松山城主で、その後毛利氏に謀反をおこし討死した杉重良(重輔の長男です)が関わるという説です。

 以前にも触れました『防長風土注進案』(1840年代に藩の求めにより、防長の各村について情報をまとめたものです)に、壽福寺の開基に関する情報が記載されています。以下、それを抜粋してみます。(旧字は新しい字に置き換えました)

 「真宗融光山 壽福寺   黒五郎村ニ(に)有
 (以下、本堂、本門などに関する記述があります)
  開基浄願ヨリ現住顕実迄拾世
  寺伝二云、当寺開基俗性(姓)ハ(は)大内之家臣杉伯耆守重良当地信田之城ニ居住之處、大内没落之後遁世して本願寺准如上人之弟子ニ成、帰国已後福寿院と申真言宗之古跡小草庵を再興之志願有りといへとも不得其時、然るに一子浄専事蒙御國許寛永九年申年一宇建立寺号壽福寺と改、其後真宗無怠転寺続罷在候
 (以下、宝物などに関する記述があります)」

 この記述によりますと、「壽福寺の開基浄願は杉重良が大内氏が没落した後に遁世して本願寺の准如上人の弟子となったもので、帰国後に福寿院という真言宗の草庵を再興しようとしたが果たせず、その子浄専が寛永九年(1632年)に国許を得て一宇を建立、寺号を壽福寺と改めた」とされています。
 
 ここでは、開基の浄願は、杉重良が遁世して准如上人の弟子となった、ということになります。ここで関連する人物と出来事についてその記録を確認しておくと次のようになります。

 天文20年(1551年)大寧寺の変。大内義隆、陶晴賢に滅ぼされる
 天文21年(1552年)杉重矩、厚狭において自刃。信田之丸城落城、城主杉重輔、山口に敗走
 弘治 2年(1556年)杉重輔、山口において自刃
 永禄10年(1567年)開祖浄願示寂(寺の過去帳、『防長寺社由来』などより)
 天正 7年(1579年)杉重良、豊前蓑島で討死(その後落ち延びたという説もあり)
 寛永 9年(1632年)良如上人より壽福寺の寺号を賜る

 これで見ますと、開基の浄願師は杉重良が蓑島で討死する12年前に示寂していることが分かります。これからしても、重良本人が遁世して京に上ったとは考えられないように思います。また、准如上人がご門主に就任されるのは1593年のことですから、このことからも重良=浄願師とは言えないようです。

 ここで思い出しますのは、以前にご紹介した「歴史と文化・史跡 万倉」という観光マップです。その中で、壽福寺の開基について次のように紹介されています。
 「浄土真宗、融光山壽福寺は開祖浄願(杉重長の一族)が永禄元年(1558年)開山。」
 これまで、壽福寺の開基を永禄元年とする資料を見たことがないのですが、これならば1567年の浄願師の示寂とも矛盾せず、また、前回ご紹介した信田之丸城の落城と壽福寺開基を関連づける説にも合致しそうです。

 杉重長という名前の人物(重長は重良と同一人物だという説もあるようです)とともに、この説についても調べてみたいと思います。
 
(図と写真は、杉重良が討死したとされる蓑島です。図は「行橋市歴史資料館」でいただいたもの、写真は10月22日に撮影したものです)

 蓑島は元々は独立した島だったのですが、昭和に入って埋め立てにより地続きになったということです。かつては、北九州から国東半島にいたる間で唯一、人が住み飲料用の水に恵まれていた島(港)で、そのようなことから、戦時は攻防の要だったようです。
 島には南北に3つの小高い山が連なっていて、一番北の蓑島山(写真に見える山です)に城が築かれていたと考えられるということですから、松山城から移った杉重良はこの城に拠って毛利勢と戦ったと思われます。

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483.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (13):上巻第三段 (5)

20181109法隆寺阿弥陀三尊2         20181109法隆寺阿弥陀三尊s

 上巻第三段の最後の部分に入ります。
 少し長くなりますが、『御伝鈔』の第三段、最後の部分の御文と訳文を記します。

 「そもそも、また大師聖人源空もし流刑に処せられたまはずは、われまた配所におもむかんや。もしわれ配所におもむかずんば、なにによりてか辺鄙(へんぴ)の群類を化(け)せん。これなほ師教の恩致なり。大師聖人すなはち勢至の化身、太子また観音の垂迹(すいしゃく)なり。このゆゑにわれ二菩薩の引導に順じて、如来の本願をひろむるにあり。真宗これによりて興じ、念仏これによりてさかんなり。これしかしながら、聖者の教誨(きょうけ)によりて、さらに愚昧(ぐまい)の今案(こんあん)をかまへず、かの二大士(にだいじ)の重願、ただ一仏名を専念するにたれり。今の行者、錯(あやま)りて脇士(きょうじ)に事(つか)ふることなかれ、ただちに本仏(阿弥陀仏)を仰ぐべし」と云々。かかるがゆゑに上人親鸞、傍(かたわ)らに皇太子を崇(あが)めたまふ。けだしこれ仏法弘通(ぐずう)のおほいなる恩を謝せんがためなり。

 「そもそも法然聖人がもし流罪という刑罰を受けられなかったら、私もまた流罪にされて配所に赴くこともなかったであろう。もし私が配所に行かなかったら、田舎の人びとをどうして教化することができただろう。これは全く師法然聖人の御恩のいたすところである。
 法然聖人はまさに勢至菩薩の化身であり、聖徳太子は観音がこの世に現れたもうたお姿である。だから私はこの二人の菩薩のお導きにしたがって、阿弥陀如来のご本願を弘めるしかないのだ。真宗はこれによって興隆し、念仏はこれによって盛んになるのだ。これはすべて悟りを開いた人びとの教えによるだけであって、決して愚かであいまいな自分の考えをふりかざそうとせず、観音・勢至二菩薩の大きな願いである南無阿弥陀仏の御名をただただ念ずるだけなのだ。修行者たちよ、誤って脇士の二菩薩に仕えるようなことは決してせず、直接に阿弥陀如来を仰ぎ信じなさい。」
 と。ですから親鸞聖人は、阿弥陀如来のかたわらに聖徳太子を安置してうやまわれたのです。これは仏法を弘められた太子の恩徳に感謝を捧げるためだったのです。


 前回に引き続き、覚如上人は、後に親鸞聖人が仰った言葉を記されます。
 前回、親鸞聖人は聖徳太子が仏法を日本に広められたとご恩を讃えられました。今回、親鸞聖人は、師の法然聖人とともに被られた法難により流罪になられたことを、東国の人々にみ教えを弘め、真宗が興隆する機縁となったのだとされ、これは法然聖人からいただいたご恩だと讃嘆されます。
 親鸞聖人は、聖徳太子と法然聖人をそれぞれ観音菩薩、勢至菩薩がこの世に示現された姿だと讃えられ、この両菩薩が仕えられている阿弥陀如来だけを仰ぎ、御名を念ずるようにと説かれた、と覚如上人は記されています。

 前回触れました『伝絵』の制作順にも関わってくるのですが、『御伝鈔』では、「親鸞聖人が法然聖人の許を訪ねられたのは建仁元年聖人29歳のとき、六角堂の夢告を受けられたのは建仁3年癸亥(みずのとのい)のとき」(西本願寺本『伝絵』も)と記されています。この部分は、『伝絵』によっては、「建仁3年、聖人29歳のとき法然聖人を訪ねられ、夢告は建仁3年辛酉(かのとのとり)に受けられた」とするもの(専修寺本など)もあり、西本願寺本の記述の方が少数派なのだそうです。
 聖人が法然聖人を訪ねられたのは、「建仁元年、29歳のとき」であり、また「建仁3年は癸亥」が正しいので、当初の『伝絵』で誤って記されたものがその後修正されたのではないか、と考えられているようです。平松令三氏は、前回の救世菩薩の姿(立像、坐像)も併せて、専修寺本の方が西本願寺本よりも古い形を伝えている、という説の根拠となっているとされます。
 
(写真は、法隆寺に伝えられている阿弥陀三尊像です。ネットからお借りしています。)

 橘夫人の念持仏と伝えられている、左右に観音菩薩、勢至菩薩の立像を伴った阿弥陀如来の坐像です。
 橘夫人は、藤原不比等の妻で、後に聖武天皇の妃となる光明子の生母です。
 
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482.最近の話題 (19):ワンゲル班

20181105ワンゲル

 11月1日、懐かしいメンバーに寺を訪ねていただきました。住職が以前勤めていた会社に「ワンゲル班」という山歩きの同好会があり、そのメンバー5人(うち一人は宇部市在住です)が訪ねてくれたのです。

 このワンゲル班は会社のOBも含めて結成されていて、住職は56歳になってから参加することになりました。
 それまでは、山を歩くなどといったことには興味もなくて、「夏の暑い中、なんで汗をかいてまで山歩きなどするのだろうか」などと思っていたのですが、メンバーと一緒にあちらこちらと歩くようになってから、その楽しさを知りました。
 その後、富士山を始め槍ヶ岳や立山、白山、穂高岳などにも登ることができました。山歩きとその後の風呂とビールの楽しみに惹かれて、一人でも歩くようになりました。

 メンバーは10月31日に関西各地から新山口駅に到着し、一緒に萩市内を見学、秋吉台の家族旅行村に宿泊し、翌日朝一番に寺に到着しました。寺では、ご一緒に「讃佛偈」をお勤めし、短い法話、御文章の拝読を体験していただきました。
 その後、下関に移動して、市内の明治維新関連の史跡や資料などを見学し、新下関駅から関西に帰るメンバーを見送ることができました。

 かつての仲間が久し振りにワイワイと語り、歩き、飲んだ2日間になりました。
 振り返ってみますと、山歩きは、体力の維持はもちろん体調の管理にも有効だったように思います。住職は一時期血圧が高いと注意されていたことがあるのですが、山歩きを始めてからそれも正常に戻ったように思います。

 そのようなことで、新しい楽しみを教えてもらったことも含めて、ワンゲル班に「引っ張り込んで」いただいたメンバーの皆さんに心よりお礼を申し上げます。

(写真は、寺でのメンバーです)

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481.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (12):上巻第三段 (4)

20181102伝絵六角堂専修寺  IMG_3965 (2)

 前回に引き続き『御絵伝』の第三段(六角夢想)について学びます。

 『御伝鈔』の御文と訳文を記します。
 「しかあれば聖人、後の時仰せられてのたまはく、『仏教むかし西天よりおこりて、経論いま東土に伝はる。これひとへに上宮太子(じょうぐうだいし:聖徳太子のことです)の広徳、山よりもたかく海よりもふかし。わが朝欽明天皇の御宇(ぎょう)に、これをわたされしによりて、すなはち浄土の正依経論等この時に来至す。儲君(ちょくん:皇太子のことで聖徳太子を指します)もし厚恩を施したまはずは、凡愚いかでか弘誓にあふことを得ん。救世菩薩はすなはち儲君の本地(ほんぢ:本来の姿)なれば、垂迹(すいじゃく:仮の姿を現すこと)興法の願をあらはさんがために本地の尊容をしめすところなり。」

(だから親鸞聖人はのちになって次のようにいわれました。
 「仏教はむかし西方のインドから興って、経典や論書はいま東方の日本に伝わってきている。これはひとえに聖徳太子の広大な御徳によるものであって、それは山よりも高く海よりも深い。仏教は日本の欽明天皇の御代に伝来したので浄土門が正しい依りどころとする経論などもこのときに渡来した。聖徳太子がもし仏教に対する恩を施されなかったら、われわれ凡夫はどうして如来の広大な誓願にあうことができただろうか。救世観音というのは、聖徳太子の本来のお姿なのだから、仮に人間の姿を現して仏法を興隆させようとする願いを明らかにするために、本身である観音の姿を示されたのだ。)


 親鸞聖人は、聖徳太子を大変に尊崇しておられました。それは、今回の御文にありますように、仏教が日本に受け入れられ、浄土の教えが伝えられたのは聖徳太子がおいでになったおかげであり、もし太子がおられなかったら、阿弥陀如来の誓願にあうことができなかったと、考えておられたことによります。
 比叡山で20年の修行と勉学に励まれそれでも脱することのできない悩みを抱かれた親鸞聖人が六角堂に参籠されることになったのも、六角堂が聖徳太子建立のお寺として知られていたからだと思われます。

 そして、六角堂に籠られて95日目に、聖徳太子は夢の中で本来の姿である救世観音となって親鸞聖人の前に姿を現されて、前回学びました偈文をお告げになられました。深い敬慕の念を持っておられた聖徳太子が、夢の中で救世観音の姿をとってこの偈文を説かれただと受け止められて、親鸞聖人は直ちに法然聖人の許を訪ねられたのです。
 
(図は、『親鸞聖人伝絵』(高田専修寺本)の「六角夢想の段」です)

 真宗高田派の本山専修寺に伝えられているものです。

 今回も1枚の図に3つの場面が描かれていますが、以前見ました西本願寺本の『伝絵』や寺の『御絵伝』と違うところは、右の図のように救世観音が立っておられるところです。『御伝鈔』の御文には「広大の白蓮華に端座して」と記されていますが、ここでは立像に描かれています。
 西本願寺本と専修寺本の『御絵伝』のどちらが古い形を伝えているのか、ということで議論があって、この六角堂の図の違いにも着目して、専修寺本が西本願寺本より先行する、という論拠の一つになっているようです。 

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