FC2ブログ

471.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (9):上巻第三段

20180928第三段

 『御絵伝』の第三段に入ります。
 『御伝鈔』のこの段は少し長い文章になっていますので、分けて読みたいと思います。その最初の文の現代語訳です。

 「建仁3年癸亥4月5日の夜、午前4時ごろ、親鸞聖人に夢のお告げがありました。『親鸞夢記』によりますと、京都六角堂の本尊救世観音菩薩が、端正な顔立ちの気高い僧侶のお姿で、白色のお袈裟を着け、広く大きな白蓮華の上にキチンと正座して、善信すなわち親鸞聖人に次のような意味の偈文をお告げになりました。」

 『御伝鈔』のこの文によれば、親鸞聖人は建仁3年(1203年)に、六角堂で夢告を受けられました。建仁3年といいますと、聖人が六角堂での参籠の後、法然聖人の許を訪ねられてから2年後ということになります。
 先に学びました『恵信尼消息』によりますと、親鸞聖人は建仁元年に比叡の山を下り、六角堂に百日の間籠られました。その様子を次のようにお伝えいただいています。
 「山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて後世をいのらせたまひけるに、九十五日のあか月、聖徳太子の文を結びて、示現にあづからせたまひて候ひければ、やがてそのあか月出でさせたまひて、後世のたすからんずる縁にあひまゐらせんとたづねまゐらせて、法然上人にあひまいらせて、」
 親鸞聖人は六角堂にこもられた95日目に聖徳太子の夢告を得られて、その朝ただちに法然聖人を訪ねられたと記されています。

 恵信尼公が記されている六角堂の夢告と、今回の第三段の夢告とは、同じものなのかあるいは違う時期のものなのか、ということが議論されていたようですが、これは同じことを記しているのだというのが結論となっているようです。つまり、恵信尼公がお伝えいただいているように、親鸞聖人は建仁元年に六角堂で夢告を得られて吉水の法然聖人の許を訪ねられたのですが、覚如上人は『御伝鈔』でそのことを建仁3年のこととして「吉水入室」の後に記されたということになります。

 このようになった原因として、平松令三氏は赤松俊秀氏の解釈を受けられて、覚如上人が『恵信尼消息』の記述を知られたのは、最初に『御伝鈔』を記された後だったことによるとされています。覚如上人は、親鸞聖人が六角堂で夢告を受けられたということはご存知だったのですが、それが法然聖人を訪ねられるきっかけだったということはご存知なかったということのようです。
 覚如上人が、親鸞聖人が法然聖人の許を訪ね帰依されるようになった背景について、「隠遁のこころざしにひかれて」といった漠然とした表現で述べておられたのもそのようなことが背景にあるのだと平松氏は説明されています。

 このように、親鸞聖人は六角堂で得られた夢告に従って法然聖人を訪ねられましたが、当時の人は「夢」というものに大きな意味を見出していたようです。
 現代の私たちは夢を見ることについて余り重要視しませんが、当時の人は、夢というものは神や仏と接触できる道だと考えていたと平松氏は言われます。従って、夢はそれを見た人に対して大いなる説得力を持つものだったようです。
 今回の段に出てきます『親鸞夢記』は、親鸞聖人が記された夢の記録だとされています。当時、多くの人が自分が見た夢の記録を残しておられるということで、当時の人が夢というものに対して特別な重要性を見ていたということを表しているようです。

(図は、御絵伝の第三段の絵です)

 左上の白く抜けている部分には第四段の絵が入っていますので、今回は切り取りしました。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください) 
スポンサーサイト



470.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (8):上巻第二段 (2)

20180924第二段  20180924第二段2

 『御絵伝』の上巻第二段の後半部分です。

 『御伝鈔』の御文を読みます。
 「真宗紹隆(しょうりゅう)の大租聖人(源空)、ことに宗の淵源を尽し、教の理致をきはめて、これをのべたまふに、たちどころに他力摂生の旨趣(しいしゅ)を受得(じゅとく)し、あくまで凡夫直入(じきにゅう)の真心(しんしん)を決定(けつじょう)しましましけり。」

 (真実の教えを盛んにされた法然聖人は、親鸞聖人にその宗旨の根源のすべて、聖教のすじみちを究極まで述べ伝えられ、親鸞聖人は、阿弥陀如来の本願他力によって救われるという趣旨をたちどころに会得され、凡夫がそのまま真実報土に往生せしめられる、との信心をしっかりと確立されました。)

 前回学びましたように、親鸞聖人は29歳のときに、ご自信の抱えておられた問題を解決したいと、20年間修行と学問を続けられた比叡山を下りられ、百日の間都の六角堂に籠られた後に、法然聖人の許を訪ねられました。

 その後の親鸞聖人のご様子についても、前回学びました『恵信尼消息』が伝えていただいています。
 「法然聖人にあひまゐらせて、また六角堂に百日籠らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにも、まゐりてありしに、ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに、生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば、」
 (親鸞聖人は、法然聖人に会われたのち、六角堂に百日間籠られたように、また百日の間、晴れようと雨が降ろうと、法然聖人の許に通われて、後世のことは善人、悪人の相違がなく一様に生死を離れることができる、その道を一筋に説かれた法然聖人の教えを聞き分けられ得心され、)

 このように、親鸞聖人は、六角堂に百日籠られた後に法然聖人の許を訪ねられますが、その後に百日の間、ひたすら法然聖人の許に通い聖人の説かれる教えを聞かれて、法然聖人こそご自身が抱えておられる問題に答えていただける方だと確信を持たれたのだと、恵信尼公はお伝えいただいています。
 この親鸞聖人のお心は、親鸞聖人から直接教えを受けた唯円房が書き残されたとされている『歎異抄』に次のような言葉で残されています。
 「たとえ法然上人にだまされて、念仏したために地獄へ堕ちたとしても、決して後悔はいたしません。なぜなら、他の行に励むことで仏になれたはずのわたしが、それをしないで念仏したために地獄へ堕ちたというのなら、だまされたという後悔もあるでしょうが、どのような行も満足に修めることのできないわたしには、どうしても地獄以外に住み家はないからです。」(現代語訳) 
 このように、親鸞聖人が比叡を下りられて、法然聖人の教えに帰依されるようになられたのには、聖人が大きな苦悩を持って六角堂に百日籠られ、また必死の思いで法然聖人の許に百日の間通い聖人の教えをたずね聞かれたという積み重ねの結果ということになります。

 親鸞聖人が比叡の山を下りて法然聖人にお会いになり、法然聖人のみ教えに帰依されることになった経緯は、親鸞聖人にとっては勿論のこと、私たちの浄土真宗にとっても極めて大きな意味を持つものです。
 しかし、覚如上人が著された『御伝鈔』の記述では、親鸞聖人は「隠遁のこころざしにひかれて」法然聖人の許を訪ねられその教えをきかれると「たちどころに他力摂生の旨趣を受得し」とされており、非常に簡潔なものになっています。そこでは、百日の六角堂参籠も百日間法然聖人の許に通われたことも記されていません。

 親鸞聖人が法然聖人を訪ねられる契機となった六角堂での参籠について、またその六角堂参籠がなぜここで触れられていないのかということについては、次回の第三段以降で見ていきたいと思います。

(左の図は親鸞聖人が法然聖人にお会いになられているところ、右の図は庭の池の二羽の鴛鴦(オシドリ)です)
 白色の衣、袈裟に僧綱(そうごう)襟という天台の僧侶姿の親鸞聖人に対しておられる法然聖人は墨衣(すみえ)墨袈裟(すみげさ)という、隠遁(寺を棄てた)した聖(ひじり)の姿に描かれています。
 右の二羽の鴛鴦について、平松令三氏は、親鸞聖人が法然門下に入ってから結婚されるという伝説を踏まえたものかもしれない、とされています。また、池の中の鴛鴦を法然聖人と見て、これから池に入ろうとする鴛鴦を親鸞聖人とする見方もあるようです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

469.最近の話題(17):「半分、青い。」

20180921.jpg  201809212

 NHKの朝の連続ドラマをご覧になっていますか。現在放送されている「半分、青い。」の視聴率は20%を超えているといいますから、5世帯に1世帯の方が観ておられるということになるようです。
 先日放送された場面で印象に残るものがありましたので、ご紹介したいと思います。

 最初にドラマのあらすじを記しておきます。
 ヒロインは楡野鈴愛(にれのすずめ)といい、永野芽郁(ながのめい)さんが演じています。彼女は、最初は漫画家を目指していたのですが、漫画家への道は途中で諦めます。その後様々な経験をするのですが、その過程で、同じ町で同じ日に生まれた男の子萩尾律君(佐藤健さんが演じています)を始め多くの人と関わりながら成長していく姿が描かれます。

 先日放送された回で、鈴愛の母親、晴さん(松雪泰子さん)が癌になって緊急に手術を受ける様子が描かれていました。手術は成功したのですが、その後に医師が晴さんに5年後の生存率が50%だと告げる場面がありました。
 これに対して晴さんの主人宇太郎氏(滝藤賢一さん)は、医師に向かって、家族に言うのならまだしも直接本人に生存率が50%だなどと告げるのはけしからん、本人が悩み苦しむではないか、と怒ります。

 しかし、それを聞いた晴さんの受け止め方は違っていました。
 晴さんは宇太郎氏に、「5年後の生存率が50%だということを聞いてから、私はいろんなことに幸せを感じるようになりました。朝元気に起きることができ、人に会って話ができることがこんなにも幸せなことなんだと感じるようになりました」(セリフとは違っているかもしれませんが)と言います。
 5年後に生存できる確率が50%だということを、宇太郎氏は苦悩や絶望につながる、ととらえていたのに対して、晴さんはそれを知ることによって、これまで当たり前だと思っていたことが、本当は幸せを恵まれていたことなのだと、気づいたということになります。決して絶望や苦しみの原因ではなかったのです。

 考えてみますと、私たちも間違いなく命終わる生を生きています。
 しかし晴さんとは違って、私たちは5年後の生存率が何%と聞かされてはいません。平均余命というのがありますが、これも余り我がこととは受け止めていないように思います。余命や生存率がはっきりしていないことを幸いに、私たちは、必ず命が終わる存在であるということは忘れようとしてしまいます。生きることが大切で、それが終わりになる死については考えたくない、逃れたいもの、と考えてしまいます。
 そうすることによって、私たちは口では「生きることが大切だ」と言いながら、実際はその限りのある生を晴さんのようには大切なものだと受け止めることなく生活をしているのではないか、そのようなことを改めて考えさせられる場面でした。

(写真左は主人公の鈴愛と晴さん、右は宗太郎氏と晴さんです。ネットから借用したものです)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
 

468.山口教区公聴会が開催されました

IMG_3891.jpg

 9月14日、山口別院で山口教区公聴会が開催され、住職が参加してきました。

 宗派からは次の4名の方が出席されました。
  山下義円総務、弘中貴之副総務、宇野哲哉重点プロジェクト推進室部長、工藤小枝子ども・若者ご縁づくり推進室賛事

 開会の総局挨拶の中で、山下総務より先の宗門総合振興計画懇志について、全国で154億6千万円、山口教区で9億6千6百万円のご懇志をいただいた旨の報告とお礼の言葉がありました。
 以下、報告された事項を中心に当日の内容をご紹介します。

1.報告
 (1)昨年度公聴会の経過報告
  昨年の公聴会で協議された次の事項について、その後の推進状況の報告がありました。
  ○災害対策金庫の新たな原資の確保
   全寺院を対象とした災害見舞金制度に対応するために、災害に特化した賦課金が新たに制定されました

  ○「御同朋の社会をめざす運動」(実践運動)総合基本計画・重点プロジェクト改定
   重点プロジェクトにおける宗門全体の実践目標を次の通り決定したという報告がありました
    <貧困の克服に向けて~Dana for World Peace~>ー子どもたちを育むためにー
   この目標を推進するにあたり、「子供たちの笑顔のために募金」に取り組むことにしたいという提案がありました。
   ⇒今後、募金箱が作成され設置することになりますので、ご協力をお願いします。

  ○10年、20年後の日本社会で求められる僧侶像・寺院像
   今後の社会変化などに対応できる僧侶、寺院を育成するための制度の改定内容について説明がありました

 (2)宗門総合振興計画第1期終了および第2期始動について
  宗門総合振興計画の第2期以降(2018年度~)の事業内容について説明がありました。主な内容は次のようなものです。
  ○親鸞聖人御誕生850年、立教開宗800年慶讃法要の修行
  ○首都圏での新しい開教・伝道計画への支援
  ○本願寺境内建物の整備
   阿弥陀堂内陣天井・飛雲閣・唐門の改修、大谷本廟の整備などが進められます
  
2.協議
 以上の報告について質疑が行われました。

(写真は、左から赤松組長会長(司会)、山下総務、弘中副総務、宇野部長です)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

467.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯(7):上巻第二段

20180914第二段自坊

 『御絵伝』は上巻の第二段に入ります。親鸞聖人が法然聖人を訪ねられる、「吉水入室」と呼ばれている段です。

 『註釈版聖典』により『御伝鈔』の文の前半を見てみます。

「建仁(けんにん)第一の暦(れき)春のころ 上人二十九歳 隠遁(いんとん)のこころざしにひかれて、源空聖人の吉水の禅坊にたづねまゐりたまひき。これすなはち世くだり、人つたなくして、難行の小路(しょうろ)迷ひやすきによりて、易行の大道におもむかんとなり。」
 (建仁元年(1201年)の春、29歳の親鸞聖人は隠遁の志にひかれて法然聖人の吉水のご住坊(草庵)を訪ねられました。これはお釈迦さまが入滅されてから2000年以上がたち末法の世の中になった今、人々の資質も劣弱になって、難行である自力の修行ではまどうことが多く、易行である他力の道を進もうとされたからです。)

 この段では、親鸞聖人が29歳のときに法然聖人の弟子になられたことが記されています。
 この事実は、聖人ご自身も『教行信証』(「化身土巻」の後序)で「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑業を棄てて本願に帰す」と述べておられますので間違いのないことです。
 では、なぜ20年間の比叡山での学問、修行を棄てて法然聖人の元に向かわれたのでしょうか。『御伝鈔』では、このことについては、「隠遁のこころざしにひかれて、」とだけ記されています。

 この「隠遁」という語は、「世の中をのがれること」(大修館「新漢和辞典」)とか「俗世間をのがれた生活をすること」(岩波「国語辞典」)とされています。しかし、親鸞聖人は9歳のときに出家されていますので、すでに「俗世間をのがれ」ておられるのですが、ここでさらに「隠遁」されたと『御伝鈔』では述べられているということになります。

 これについて、親鸞聖人は、当時の比叡山が俗世間と同じように俗化していたことに不満を持たれて、吉水の法然聖人を訪ねられた(再度の「隠遁」)のだとする理解がされていたこともあったということです。

 これに対して、前回にご紹介しました『恵信尼消息』の文章がそれとは違う解釈をもたらしたと、赤松敏秀氏や平松令三氏は示されています。
 恵信尼公は次のように記されています。
 「殿の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが、山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世のこといのりまうさせたまひける・・・」このように、比叡山で堂僧として学問、修行に励んでおられた親鸞聖人は、山を下りられて六角堂に百日の間籠られた、と恵信尼公は伝えられます。

 平松氏はこのことを、聖人が比叡山に不満を持たれて、新たな修行の場として六角堂を選ばれたということではなく、聖人ご自身が抱えておられた問題を解決したいと百日の間籠られたと理解するべきだと、されます。氏は、「いくら修行しても消え去ることのない煩悩、それが強い挫折感となって、聖人に比叡山を捨てる決意をさせたのではないでしょうか。」と記されています。

 六角堂は当時も都の中心部にあって、聖徳太子の創建と伝えられお寺なのですが、都の喧騒の中で修行をするような場所ではなかったようです。ただ、当時も様々な願いをもって参籠する人が多くあったお寺だったようです。それでも参籠の期間はせいぜい3日とか10日が普通で、聖人のように百日にも及ぶのは極めて珍しいことで、聖人がこの参籠にかけられた強い意思、すがるような思い、が伺われると平松氏は言われます。

(図は、上巻第二段です。『御絵伝』の第一幅の下から3番目の絵に当たります。)

 今回も左右に二つの場面が描かれていますが、今回は右から左に見ていきます。右の図は、親鸞聖人が法然聖人の住坊に入られるところ、左では、法然聖人と対面されています。
 白い衣に白い袈裟を着けておられるのが親鸞聖人です。右の図にありますように、聖人に従って来た供のものが5人見られますが、これも少しオーバーな表現になっているようです。また、法然聖人の「草庵」も立派な邸宅として描かれています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

466.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯(6):上巻第一段(4)

第一段(2)   P1090300.jpg

 『御絵伝』の第一段の4回目となります。
 『御伝鈔』の言葉は、第一段の3番目の段落、得度されてからの親鸞聖人の比叡山での勉学、修行の様子が伝えられています。今回は、『御伝鈔』の文を見てみます。

「それよりこのかた、しばしば南岳・天台の玄風を訪(とぶら)ひて、ひろく三観仏乗(さんがんぶつじょう)の理を達し、とこしなへに楞巌(りょうごん)横川(よかわ)の余流を湛(たた)へて、ふかく四教円融(しきょうえんにゅう)の義にあきらかなり。」

 難しい言葉が出てきますが、その意味、内容を記しておきます。
  「南岳・天台の玄風」=中国天台宗の南岳大師慧思・天台大師智顗によって説き示された奥深い教え
  「三観仏乗の理」=天台宗の根本的な教え。空(くう)・仮(け)・中(ちゅう)の三種の観法によって生きとし生けるものがさとりをひらくとする教え
  「楞巌横川の余流」=比叡山横川(首楞巌員:しゅりょうごんいん、はその中堂)に伝えられている源信和尚の流れ
  「四教円融の義」=天台宗の根本的な教え、蔵・通・別・円の四教を立てて釈尊一代の教説内容を判別し、その究極である円教の内容を三諦円融の理で説明する。
 (以上は、いずれも『浄土真宗聖典(註釈版)』の脚注を引用させていただきましたが、その細部について私もよく分からないところがあります。)

 この段落では、親鸞聖人が9才でのご出家以降、天台宗の奥義を極められ、源信和尚の教えに精通されたということが述べられています。

 実は、親鸞聖人が出家されてからの比叡山での学問、修行の様子を伝える資料は長い間見つかっていなかったのだそうです。そんなこともあって、聖人が実在されたことに疑いを持つ学説まで出されたということです。

 そのような中、大正10年に本願寺の宝庫から発見された恵信尼公(親鸞聖人の奥様)の自筆のお手紙(『恵信尼消息』)が発見されました。その中には、親鸞聖人の比叡山でのご修行の様子や、その後山を下りられて法然聖人の許を訪ねられる経緯などが記されていて、親鸞聖人の実在を証明し、比叡山当時のご修行の様子を知ることができる、大変に貴重な資料となりました。

 その『恵信尼消息』の中に、「殿の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが、」という一文があり、親鸞聖人(殿)が比叡山で「堂僧」を勤めておられたということが記されていました。
 『浄土真宗辞典』で調べますと、この「堂僧」は、比叡山の常行堂で「7日間、昼夜不断に西方願生を求めて修する」不断念仏を修する僧を指すということです。7日間昼夜を問わず、阿弥陀仏の名を念じ称えて道場内を巡るという厳しい修行だとお聞きしました。
 不断念仏を行ずるものは、三昧の境地(心を一つの対象に集中して散り乱さない状態)に入ることができるとされ、天台の修行の一つです。まさに自分の修行でもって煩悩を滅することを目指す自力の行ということになります。

(図左は、聖人が慈円僧正の許を訪ねられた最初の場面を拡大したもの、右は現在の青蓮院です)

 左の図は慈円僧正の住坊の門の外を描いたものです。上部には牛車(ぎっしゃ)が描かれていますが、親鸞聖人が乗って来られたもの、下部にはその牛と牛飼童(うしかいわらわ)と呼ばれる牛の世話をする人が描かれています。また右下部には馬が描かれていますが、これは聖人の伯父の日野範綱公が乗って来られた馬だとされています。
 こうして見ますと、聖人と日野範綱公に従って慈円僧正の坊に向かった従者は門の外に6人、門の中にも5人の合計11人となります。これは、『御伝鈔』の「朝廷に仕官して天皇の御側(おそば)近くに仕えたり、仙洞御所(せんとうごしょ)の中を忙しく走りまわったりして、高い地位に昇り、栄華をきわめるべき人であったのでしたが、」という言葉を絵に表現したものと思われますが、当時の日野家が置かれていた苦境を考えると、平松令三氏が言われるようにオーバーな絵になっているということのようです。
 画面の上部には桜、下部には松が描かれていますが、これは聖人の幼名「松若丸」と、聖人が得度された春を表すものだとお聞きしたことがあります。

 右の写真のように、現在の青蓮院にはクスノキの巨木があります。13世紀に青蓮院がこの地に移された以降に植えられたと考えられているそうですので、聖人のお得度の当時にはなかったようです。
 
(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

(お詫びと訂正です)

 前回の記事で、来年の「花まつり」の開催費を4月14日と記していましたが、削除しました。今後検討されますので、追ってご連絡いたします。

465.ご報告:「御同朋の社会をめざす運動」関連の会議

IMG_3884 (2)  IMG_3885.jpg


 「御同朋の社会をめざす運動」に関わる打ち合わせを行いましたので、概要をご報告します。
 
1.「花まつり班」会議(8月30日 於 光安寺)
 ○会議の趣旨
  今年度の実施状況を振り返り、来年度の概要について検討しました

 ○来年度の花まつり
  実施時期:来年4月を予定
  実施場所:アクトビレッジおの
  今後の検討、情報収集の課題
   門信徒さん以外、宇部北組地域以外などより幅広い対象に呼びかけて地域の行事として定着を図る
   宗教行事とイベントの両方を併せた花まつり行事とする(宗教色を前面に出し過ぎないようにするが、勤行などは開会式として入れるなどの工夫を行う)
   子どもも大人も楽しめる行事にするための情報収集を行う
  (例)
   ・フリーマーケット、農産物販売、子どもむけ出店
   ・カレーライス
   ・ライブコンサート
   ・写経コーナー など

2.「広報班」会議(9月4日 於 萬福寺)
 ○会議の趣旨
  宇部北組組報『ご縁だより』、ホームページについて検討しました

 ○今年度の組報
  10月1日発行予定で進める。(『壽福寺だより』の10月号と一緒にお届けする予定です)
  内容:昨年の内容(行事奉告、各寺院の報恩講予定など)に加えて、組内のお寺を順番に紹介する記事が始まります

 ○ホームページ
  若い人にも興味を持ってもらえるものを加えるよう検討することになりました。
  例:寺院の掲示板にある短い言葉などやひとことコメントなど

 ○その他
  現在進行中の連続研修会の運用について検討をおこないました
  
(写真は、サルスベリの花です)
 美祢市の国道435号線の山露交差点の両側にあります。普通サルスベリというと、背が高いイメージがあるのですが、ここのサルスベリは高さ1メートル程度で、垣根のように何本も植えられています。花も大きくて鮮やかなように思われ、通るたびに今年も咲いたなあ、と楽しみにしている花です。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

464.秋法座をお勤めしました

20180901秋法座2

 9月1日、ご講師に白滝組西楽寺の中山和泉師をお迎えして、秋の法座をお勤めしました。

 当日の午前中は前夜からの荒天が続く悪天候でしたが、そのような雨の中をお参りいただきました。有り難くお礼申し上げます。

 ご講師は最初に、山門に関するエピソードのお話しをされました。
 ご講師のお寺西楽寺さんに団体でお参りがあったそうです。バスが到着した気配があったのですが、参拝者の姿が見えなくて不思議に思っておられたら、参拝の方々は駐車場から直接本堂に来られず、遠回りをして山門から入って来られたのだそうです。本堂にお参りするのですから、山門から一礼して境内に入るのが本来の姿ですが、私たちはつい便利なやり方を選び、そちらの方が普通となってしまうという実例でもあります。
 ご講師は、今回到着されて最初に寺の石段と山門のところに行かれたのだそうです。このブログでもご報告しましたように、前週に石段とその周辺の草刈りを行っていましたが、それは見た目で草がなければいいだろう、といった作業になっていたのではないかと、思い至らせていただきました。
 寺の石段は急なもので、特に昨日のような雨の後だと滑りやすくなっていますので、石段から山門を通って境内に入られる方はほとんどおられません。そんなこともあって、とりあえずきれいにしておけばいい、という気持ちで、草刈の当日は刈った草をまとめましたが、その後はそのままという状態でした。
 当日久し振りにお参りいただいた女性の方で、いつも石段の近くに車を止めて石段から山門を通って来られる方があります。この方は石段の様子をどのように見られただろうか、と申し訳ない思いをいたしました。

 ご講師のお話しのなかに、自分を中心にして「自分が」という見方でものを見ることと、「自分に向けられて」という見方との違いについてお話しがありました。
 「自分が聞く」という姿勢で聞くと、同じことを聞いたら「前にも聞いた、また聞いた」ということになりますが、「私に語りかけられる言葉を聞く」と受け止めると、それは「前にも聞いた」ではなく、「改めて私に語りかけていただいた」と聞かせていただくということになる、と仰っておられました。
 私も日常の生活の中で、よく「それは前にも聞いたよ、何回も言うなよ」などと言うことがありますが、これはいかんな、と反省をさせられるところです。
 ご講師も仰っておられた言葉「お聴聞はこの生まれて初めて聞くつもりで、人生の最後に聞くつもりで、また私一人に語りかけていただいているものとして」お聞きしなければならない、という言葉とともに改めて心にとどめたいと思います。

 今回のお斎は、吉部地区の仏教婦人会の吉部地区の会員を中心にお手伝いいただきました。手作りの素麺が人気でした。

   20180901秋法座 
 左から、井上愛子会長、江木都美恵さん、井上幹子さん、山本信子さんです。「恒例の写真を撮りましょう」が「高齢の写真」だと皆で笑っている所です。ありがとうございました。

 午後には、勉強会を開催することができました。今回は、お正信偈の「源空讃」の部分をご一緒に学ぶことができました。

(写真は、「恒例」の集合写真です。今回も本堂での撮影となりました)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
カウンター
カテゴリ
検索フォーム
リンク
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR