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463.最近の話題(16):歴史講座「浮世絵を読む」

20180831浮世絵 

 去る8月24日に宇部市立図書館で「歴史講座「浮世絵を読む」」の第1回が開催されましたので、出席してきました。
 この講座は、宇部地方史研究会の主催で開催されたもので、12月までの毎月1回開催されることになっています。

 講師は、内田鉄平氏(宇部フロンティア大学特命准教授)です。氏は学びの森くすのきで開催されている「古文書の読み解き会」で指導いただき、先にご紹介した『石炭都市宇部市の起源』の著者でもあります。

 当日はその第一回、「浮世絵の誕生と江戸文化」という内容をお聞きすることができました。印象に残っている内容を少しご紹介しましょう。

 浮世絵というのは最初は肉筆画だったのですが、その後、墨一色摺りの版画から多色摺りの版画へと発展したものです。多色刷りの豪華な浮世絵にしても当時の蕎麦1杯程度の価格だったそうです。
 浮世絵は当時の海外の芸術家が注目をし、自分の画風や構図に取り入れたように、世界的な美術品でもありました。このような美術品を一般の人が自由にしかも安く手にすることができたわけですから、当時の日本は世界でも珍しい美術観賞の環境を持っていたということになります。

 浮世絵はその時々に耳目を集めたテーマをタイムリーに取り上げるという点も特徴のようで、歌舞伎の役者絵、美人画など現在でいうとスターのブロマイド的な作品も人気の的だったということです。
 当時の女性にとっては、歌舞伎の人気役者の絵は勿論のこと、美人画や遊女を描いた絵も、流行の最先端を見ることができるいわばファッション情報としても人気があったそうです。
 また、地方からの旅行者にとっては、江戸の最新の情報を描いたお土産品として人気を博したものでもあったそうです。

 浮世絵の制作は原画の作者、彫師、摺師と分業制になっていたのですが、それを企画し販売する版元という機能も必要だったという説明があって、なるほどと理解したところです。版元は現在でいうと出版社と書店を合わせたような機能でしょうか。

 そして、そのような文化が可能だったのは、江戸という一大都市があったからだという説明も納得のいくものでした。18世紀始めの江戸の人口は100万人にもなろうとするほどで、その大都市江戸は、何も生産せずに消費するだけという特殊な消費都市(江戸の唯一の生産物は、周辺の農耕地域に供給する糞尿だけだったとのこと)だったということになります。
 その中での人々の楽しみの一つが浮世絵だったということになります。

 今後次のテーマが予定されています。興味をお持ちの方、参加されませんか。
 第2回( 9月28日)「浮世絵の観賞方法」
 第3回(10月26日)「浮世絵の種類と庶民文化の隆盛」
 第4回(11月23日)「浮世絵と江戸時代の旅行ブーム」
 第5回(12月21日)「江戸時代の出版文化と浮世絵」

(図は今回の講座の「受講者募集のお知らせ」です)

 会費は資料代を含め5回分で1000円です。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください) 
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462.法座に向けて草刈りを行いました

20180827草刈  20180827草刈2

 昨日、8月26日に境内周辺の草刈りをお願いしました。

 通常の法座の前の草刈りには総代さんみなさんにお声をかけてお願いをしていたのですが、今回は一部の総代さんにお願いをしました。この暑さで草も例年よりも少ないように思われましたので、わけをお話しして総代さんの中でもお若い方(相対的に?)にお願いすることにしました。

 9時前に集まられた代表総代の井上啓志さんと、山根惣一さん、金子富士夫さん、古屋博志さん、志賀学さん、田中光明さんのメンバーで駐車場、石段周辺、大岩郷からの道の周辺の草刈りを行いました。
 下の入り口からの参道は、当日参加できなかった岩﨑昌彦さんが予め草刈りしておいていただきました。

 当日は効率よく作業を進めることができて、作業開始から1時間余りで予定の作業を終わることができました。
 作業が終わった後、いつもは向拝(ごうはい:本堂の前の階段です)で一服していたのですが、今回は山門の下の石段に腰を下ろして麦茶で喉を潤し、歓談することができました。 
 実は、この時期、寺で一番涼しい場所がこの山門下なのです。石段を登って涼しい風が吹いてくる場所なのです。ただ、竹藪が近くにあり、蚊が多いのが難点ですが。

 おかげさまで、きれいな境内で法座を迎えることができます。有難うございました。

 なお、法座は次の要領でお勤めします。中山和泉師は初めてのご出講ですので、是非お誘いあわせてお参りください。

1.日時  9月1日(土) 10:00~(午前のみです)
2.ご講師 中山和泉 師(白滝組 西楽寺ご住職)
3.その他
 ○おときをご準備します
 ○午後に「勉強会」を予定しています。

(写真は、作業前のみなさんとと草刈の終わった駐車場です)

 少し見えにくいですが、右の写真には以前ご紹介しましたサルスベリが写っています。この駐車場の端っこに咲いています。

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461.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯(5):上巻第一段(3)

20180824第一段(2)自坊

 
御絵伝の第一段の続き(『御伝鈔』の上巻第一段の2番目の段落の後半に当たります)です。
 現代語訳で見てみます。

「範綱卿はこのころは従四位上という位で、若狭守の役職は降りていましたが、後白河上皇に側近として仕えていました。慈円は歿後は慈鎮和尚(じちんかしょう)とも呼ばれた人で、父は関白藤原忠通(ただみち)、兄には九条兼実(かねざね)がいます。聖人はその慈円の住房で髪を剃り落し、僧となられたのでした。法名は範宴(はんねん)、号を少納言公と申しました。


 聖人は、伯父であり養父でもあった日野範綱卿に伴われ慈円僧正と対面され、得度の式を受けられました。
 慈円僧正(慈鎮は歿後に贈られる諱(いみな)です)は関白の藤原忠通を父に持ち、後に朝廷で権力を持つ九条兼実卿を実兄に持つ人です。僧正は聖人が得度を受けられたときは27才だったと伝えられますが、すでに千日回峰行をなしとげ、後には4回も天台座主という最高位につかれた人でもあります。

 聖人が得度の式を受けられた場所は京都の粟田口の「青蓮院(しょうれんいん)」であったと伝えられています。
 この点について平松令三氏は、当時の青蓮院は比叡山の山上にあったことから、得度の式は当時慈円僧正が住んでおられた「白川坊」で行われたされます。この白川坊は、現在「青蓮院」がある辺りにあったということですから、場所としては現在の「青蓮院」だったと言っても間違いではないということになりそうです。

 このとき聖人が慈円僧正とお会いになられたのが夕刻だったことから、慈円僧正は得度の式を翌日にするようにと言われたと伝えられています。これに対して、聖人は「明日ありと思う心の仇桜(あだざくら) 夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」という古歌をひかれてすぐに式を受けたいと訴えられ、その結果、当日の夜に式が執り行われたという逸話が伝えられています。
 ただ、この逸話は後代に加えられたものだという見方もあるようです。

(図は、御絵伝の第一幅の2番目の絵です。)

 左の絵には、聖人が慈円僧正と対面されている様子が描かれています。白い装束の少年が9歳の聖人、朱色の僧衣が慈円僧正です。
 右の絵には受式の様子が描かれていますが、式が夜に行われたことを示すように蝋燭が描かれています。現在も、本山での得度式は蝋燭の光の下で行われます。厳粛な雰囲気の中で聖人のご得度の様子を偲ぶことができます。

 このように、今回は2つの場面が一枚の絵に描かれていますが、このような描き方は絵巻などでよく使われる手法なのだそうです。
 そのような場合でも、絵巻物ですから普通は右から左に見ていくことが多いのだそうです。今回の絵では流れは左から右に移りますが、岡村喜史氏によれば、これは「青蓮院」の部屋の配置が図のようになっていたことから、それに合わせて左から右に場面が移るようになっているようだ、とされています。

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460.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯(4):上巻第一段(2)

20180820第一段(1)自坊

 御絵伝の本文に入って2回目です。

 本日の部分を『御伝鈔』の現代語訳で見てみます。

 「ですから聖人は、朝廷に仕官して天皇の御側(おそば)近くに仕えたり、仙洞御所(せんとうごしょ)の中を忙しく走りまわったりして、高い地位に昇り、栄華をきわめるべき人であったのでしたが、仏法を興し、衆生に利益を与える因縁が内外に芽ばえたのでしょう、数え年九歳の春に、伯父で養父になっていた従三位日野範綱(のりつな)卿につれられて、前大僧正慈円(じえん)のご住房へうかがいました。」

 前回の部分で、聖人の父有範卿は藤原氏の流れをくむ貴族で、皇太后宮で大進という役職を勤められていた、ということが記されていました。今回そのことを受けて、聖人は貴族としても高い地位に就かれる境遇にあったということが述べられます。
 しかし、聖人は数え年九歳にして「仏法を興し、衆生に利益を与える因縁が内外に芽ばえ」伯父で養父の日野範綱卿に伴われて、慈円師のもとを訪ねられ、剃髪、出家されました。治承5年(1181年)のことです。

 ここでまず、「仏法を興し、衆生に利益を与える因縁が内外に芽ばえ」(『御伝鈔』には「興法の因うちにきざし、利生の縁ほかに催ししによりて、」と記されています)というのはどのような背景があったのでしょうか。
 聖人が出家された当時の状況を見てみますと、治承4年(1180年)、以仁王(もちひとおう)が源氏と組んで平氏に対抗した以仁王の乱が起きます。乱は以仁王の敗北に終わりますが、これを皮切りに約6年続く「治承・寿永の乱」の結果、源氏が平氏を倒し覇権を握ることになります。また、養和元年(1181年)から翌年にかけて大飢饉が発生します。これも天災と併せて源氏の反乱による社会的な混乱も飢饉の原因とされています
 このように当時は、社会全体が平安時代の貴族社会から、平氏の覇権、源氏の勃興、源氏による武家統治の確立という動乱の只中でした。それに天災も加わり、騒然とした社会状況にあったと想像されます。
 そのような中で、聖人のご出身の日野家は、以仁王とかかわりがあったこともあり、王の乱が失敗したことによりその地位はいよいよ弱くなったようです。
 さらには、日本では永承7年(1052年)に末法の時代が到来したと考えられており、その後のこのような世情の動乱、困難はいよいよ不安の影を濃くしていったものと思われます。

 このような騒然とした社会環境と日野家の状況の中、聖人は伯父である日野範綱卿の養子となり、範綱卿に付き添われて出家されることになりました。聖人には3人のご兄弟があったと伝えられていますが、聖人を含めて4名全員が出家されたと伝えられています。このようなことは極めて異例なことのようで、当時の日野家が置かれた困難な境遇を表しているのかもしれません。

(図は、寺の御絵伝の第一段の最初の場面です。)

 4幅の御絵伝をお掛けしたときに、一番右の幅の一番下の絵が今回の場面になります。以前お話ししましたように、一般の御絵伝は一番右の幅の下から上に向かって見ていき、ついで右から2番目の幅を再び下から見るという見方をします。
 それぞれの場面を表している絵の間に、雲形の霞のようなものが描かれていますが、これは「すやり霞」と呼ばれるそうです。このすやり霞も御絵伝が制作された時代によって様式が違っていて、それで御絵伝の制作時期を判定できるのだそうです。

 前回記しましたように、寺の御絵伝は宝永5年(1708年)に本願寺第14世寂如ご門主より授与されたものと伝えられています。1708年といいますと、徳川綱吉将軍の時代ですが、この御絵伝の「すやり霞」は、形が複雑で白い輪郭が描かれているなど江戸時代の御絵伝の特徴を備えているということです。

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459.歴史を訪ねる(12):豊前松山城

20180817豊前松山城   20180817豊前松山城2

 8月15日に豊前松山城の城跡を訪ねました。ちょうど近くの行橋市でお盆のお勤めをする機会がありその帰りに訪ねることができました。
 豊前松山城は、万倉の杉氏が守護代として統治居城していた城で、城主だった杉重良が毛利氏に謀反を企てたことにより、杉氏とのつながりが終わりとなった城です。

 城跡は、福岡県京都郡(みやこぐん)苅田町、東九州自動車道から北九州空港に向かう道路の右側にある小高い丘にありました。
 当日は台風15号が九州を通過した日で、午後3時頃、城跡に登ろうと駐車場で布袍の姿から山歩きの服装に着替えたところで雨が降り始めました。台風が通過してから初めて雨が降り始めるという妙な空模様で、登っている間ずっと強い雨という誠に残念な天候でしたが、登り口から頂上への往復の道を歩くことができました。

 登り口に城跡を説明する案内板があり、その説明によりますと、松山城は古く天平12年(740年)に藤原広嗣の乱に当たって築城された豊前国第一級の要害の山城だったということです。山頂に主郭を持ち、ニの郭、三の郭、石垣、土塁、横堀なども備えた「まるで、松山の半島全体を難攻不落の要塞としてつくりあげた」ような山城であったと記されていました。
 標高は128メートルとそんなに高くはないのですが、登り道は急な傾斜をそのまま登る「直登」で、雨の中を息を切らせながら登りました。往時の登り道もそうであったのか分かりませんが、これだけでも「難攻不落」だっただろうと想像されるものでした。

 当日は雨で見通しは良くなかったのですが、頂上から眺めると足元には日産自動車やトヨタ自動車、三菱マテリアルなどの工場群があり、周防灘を隔てて向こうには小野田、宇部の海岸を見ることができました。現代の私たちは九州へ行くというと、関門橋を渡って、と考えてしまいますが、当時では直接海路で行き来するのが当然のことだったのだ、と改めて気づかされました。

 豊前松山城は天平の築城以降、九州を攻略する拠点として多くの戦の場になったと伝えられています。大内氏、毛利氏ともに九州への政略拡張を目指して松山城に拠って当地の大友氏などと抗争を続けました。その守護代として任じられたのが杉氏だったのですが、その時の戦況により攻め落とされたり、また入城したり、と目まぐるしく城主が変わり、まさに度重なる戦略と謀略の場となっていたということが分かります。

 現在は周辺は埋め立てられていますが、説明にも「松山の半島」とあるように、城は海に突きだしたような山城だったのではないかと思います。謀反を企てて城を出た杉重良が入ったとされる蓑嶋城跡や防長との行き来に使われた港(現在の苅田港は九州でも重要な拠点港となっているようです)など周辺も含めて、天候のよい時期にもう一度見てみたいと思っています。
 
(写真は当日の城跡の様子です)

 左は城山の全景です。山の反対側では土砂を採取しているようで、大きく削り取られていました。右は山頂に至る石段です。往時の姿を残しているようです。いずれにしても当日の悪天候でよい写真ではありません。こちらも再訪に期待しましょう。

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458..御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯(3):上巻第一段

本 本2

 「御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯」は、今回からその内容に入りたいと思います。

 今回は、『御伝鈔』の最初の部分「上巻第一段」です。
 前回学びましたように、蓮如上人以降広く伝えられている御絵伝は、全体が15段(上巻8段、下巻7段)で構成されています。今回の第一段は「出家学道の段」とも呼ばれるもので、『御伝鈔』では親鸞聖人の家系から始まり出家得度され勉学に励まれる姿が記されている部分です。

 以下、『御伝鈔』の現代語訳でこの段の最初の部分を見てみます。

 「そもそも、親鸞聖人の在俗当時の姓は藤原氏でした。藤原氏は先祖が天児屋根尊(あまつこやねのみこと)で、それから二十一代目の子孫が、大織冠C(たいしょっかん)位を与えられた藤原鎌足(ふじわらのかまたり)大臣で、その「やしや孫」、つまり四代目の子が近衛大将右大臣従一位藤原内麿(ふじわのうちまろ)公でした。この人は後長岡大臣(ごながおかのだいじん)とも、閑院大臣(かんいんのだいじん)とも号して、贈正一位太政大臣房前(ふさざき)公の孫に当り、大納言式部卿真楯(またて)の息子です。その内麿公から数えて六代のちの孫が弾正大弼(だんじょうだいひつ)と参議を兼ねた有国(ありくに)卿で、更にその有国卿から五代のちの孫が、聖人の父君有範(ありのり)様です。この方は皇太后宮(こうたいごうぐう)で大進(だいしん)という役職を勤められました。」

 『御伝鈔』は、親鸞聖人の家系に関する長い記述で始まります。
 これによりますと、親鸞聖人の家系は藤原氏という貴族だということが述べられています。日本史で学んだことを思い出しますが、藤原氏は長くにわたって朝廷の重要ポストを独占してきた一族でした。聖人のご出身である日野家はその藤原氏のいくつかの系統のうちの一つとされています。

 『御伝鈔』には、聖人はその日野家の日野有範卿の子息としてお生まれになられた、と記され、父の有範卿が皇太后宮大進の位にあったとする関する簡単な紹介だけが記されています。

 明治から大正にかけて、聖人のご出身を日野家とすることのみならず聖人ご自身が実際においでになられたのか、ということについてまで疑問が呈されたことがありました。
 しかし、その後、聖人の奥様の恵信尼公のお手紙が発見され、その記述と伝えられた聖人の行実が一致することが確認されました。併せて多方面の研究により、聖人が実在され、承安三年(1173年)に日野有範卿の子息4人兄弟の長男としてお生まれになったことが明確になりました。
 お生まれになった場所については、現在の京都市伏見区の日野の地とされ、西本願寺ではその地を飛び地境内として日野誕生院が昭和6年に建立されています。
 聖人の母君に当たられる方については諸説があるようですが、まだ最終的な結論には至っていないようです。
 
(図は、参考にさせていただいている赤松俊秀氏著の『人物叢書 親鸞』のカバーと同書の14、15ページの部分です。本は、父の蔵書にあったものです。)

 この本に父が引いた傍線があることに気づきました。今回の記事に関わる部分では、次の部分に青色の傍線が付してあります。
 「宗昭の『親鸞伝絵』や『口伝鈔』の中で親鸞の行実といわれているものが、全部とはいえないまでも、一部はこの恵信尼書状のように信頼できる史料に基づいていることが明白になったのである。恵信尼書状が発見されたのち、親鸞の行実の研究は面目を一新した。」
 (文中の「宗昭(しゅうしょう)」は覚如上人の諱(いみな:没後に贈られる名前)です)

 同じページの他の個所には赤い傍線もありますから、父は聖人の家系の解明の経緯について興味を持っていたように思われます。
 記憶をたどってみますと、口数の少なかった父とは言葉を交わさすことが多くはなかったように思います。この傍線を見て、父から時間を超えて語りかけられているような思いです。
 
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457.最近の話題です(15):胃カメラ

20180810サルスベリ   20180810サルスベリ2

 極めて個人的な「最近の話題」ですが、先日胃カメラの検診を受けたときに感じたことを記します。
 宇部市の定期検診で毎年胃カメラの検診を受けることにしていて、今年は8月6日に受診しました。

 一通りの検査の最後に医師と補助をしていた看護師さんの会話が聞こえてきたのですが、それはこれまで聞いたことのない内容で、次のようなものでした。
 医師「水をあと2つ入れようか」
 看護師「分かりました。とってきます」

 最初はそのやりとりの意味がよく分からなかったのですが、後の医師との話などから、当日は例の猛暑で、水分の補給をさせようということだったようです。
 胃カメラの検診では喉に麻酔を行いますので、検診が終わっても1時間程度は誤嚥を防ぐために水や固形物の摂取は避てください、ということになっています。そんなことから、検診が終わった後に、検診用に入れてある管を通して胃に水を入れて熱中症対策の給水をしていただいたということになります。

 これはこれで有り難く、また検診の結果も問題なし、ということで一安心だったのですが、少し違和感が残りました。
 それは「水を入れる」という言葉なのですが、私が自分の意思で水を飲むのではなく、私の胃に水を入れるということになります。医療上は必要なものだとしても、そのことによってなんとなく私の胃袋が管理、コントロールされているといった妙な「違和感」だったように思います。

 この経験から、以前ご紹介した『医者が仏教に出遭ったら』という本と、著者の田畑正久氏の「医療現場に携わる仏教」という講演のことを思い出しました。

 田畑氏は、長寿を望む私たちと、病気を治したいとする医師の努力が高度な医療技術を発達させてきたと言われました。しかし、治る見込みのない病を前にした時に、医療はどのような対応が可能なのだろうか、と氏は問われます。その場合、医師は命を長らえることが使命だと考えて延命にに注力することになりますが、その治療が本当に患者さんの意思に沿ったものなのか、患者さんにとって良いことなのか、ということが見過ごされる可能性がある、と氏は述べられています。
 そのような場合、私の意思とは別のところで、私の「胃袋」が管理、コントロールされるということにつながるのかもしれません。

 ここでも、生老病死という根源的な苦に私たちがどのように向きあうのか、という課題につながることだと思い至りました。

(写真は、サルスベリの花です。いま盛んに咲いている花です)

 左は、寺の境内で平成16年8月に撮影したものですが、現在はかつての勢いをなくしているように見えます。
 右のような白花の品種もあります。こちらは大阪の花博記念公園に咲いていたものです。

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456.山口別院フォトコンテスト

20180806フォトコン  20180806フォトコン2

 この度、山口別院主催でフォトコンテスト「浄土真宗のワンショット」が企画されました。
 「浄土真宗のお寺・仏事に関することならテーマは自由、どなたでも応募可能」な写真のコンテストです。詳細は下記の通りですので、是非奮ってご応募いただきますようご案内いたします。

1.参加資格 プロ・アマ、住所を問わずどなたでも応募可能です
2.応募規格 サイズは自由(2L以上を推奨)、モノクロ・カラープリントいずれも可
3.表彰   最優秀賞旅行券3万円、ほか
4.応募作品 本願寺山口別院の広報のために、Webサイト、ポスター、チラシ等に使用
5.募集期間 2019(平成31)年2月28日必着
6.応募先  〒754-0022 山口市小郡花園町3-7 浄土真宗本願寺派山口別院 フォトコン係
7.応募方法 所定の応募用紙を付して、郵送、メールいずれも可

 ネット上では次のサイトをご覧ください。応募用紙もあります⇒「山口別院フォトコン」
 また、資料および応募用紙は寺にもありますので、必要な方はご連絡下さい。

(図は、フォトコンの「案内」と「応募要領」です)

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455.新聞版「壽福寺だより」を発行しました

壽福寺だより(2018年8月1面)s  壽福寺だより(2018年8月2面)s

 新聞版「壽福寺だより」の8月号を発行しました。お手元にお届けしますのでご一読ください。
 今月号の内容は次の通りです。

 [1面]
  「夏法座をお勤めしました」
 
  「寺のブログのご紹介です」
   ブログ「壽福寺だより」については、スタート時にご紹介して以来取り上げずにいましたが、最近の連載記事と新たにスタートした連載についてご紹介しました。

  「お盆のお勤めに伺います」

  「秋法座のご案内です」

 [2面]
  「改修いただいたトイレと、豪雨の状況です」
   
  「宇部北組仏教婦人会大会を開催しました」

  「ご存知ですか(16)「お経」(2)」
   今回から『仏説阿弥陀経』についてお話しています。

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