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454.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯(2)

20180730御絵伝4s 20180730御絵伝3s 20180730御絵伝2s 20180730御絵伝1s

 「御絵伝」の2回目になりますが、今回も「御絵伝」と『御伝鈔』の成立についてもう少し見てみたいと思います。

 前回見ましたように本願寺第三世の覚如上人(1270~1351年)は、永仁3年(1295年)に親鸞聖人の33回忌に当たって、聖人のご生涯を描いた絵巻「親鸞聖人伝絵」を制作されました。
 門弟たちは、親鸞聖人のご生涯を描いた絵巻を大変に喜んで、覚如上人にお願いして伝絵を作っていただき、また覚如上人も、それ以降伝絵の内容を手直ししていかれたと伝えられています。

 そのような結果、伝絵の内容は初め上巻6段、下巻7段の合計13段だったのが、最終的に聖人のご事績2段を追加して上巻8段、下巻7段の合計15段となりました。また全体の題名も、最初は「善信聖人絵」とされていたものが、その後「善信聖人親鸞伝絵」と改められ、覚如上人の晩年には「本願寺聖人親鸞伝絵」となるなどの変遷があったとされています。
 覚如上人が74才の時に制作された伝絵が東本願寺に残されていて、これが覚如上人制作の伝絵の最終版とされ、それ以降に寺院などに授与されることになる「御絵伝」や『御伝鈔』はこの時の伝絵に基づいて制作されたものだということです。

 伝絵の絵の部分を取り出して掛軸(掛幅)にしたものが「御絵伝」ですが、この御絵伝を始められたのは、覚如上人のご長男の存覚上人(1290~1373年)だったとされています。存覚上人は浄土真宗のみ教えを広く一般に広めようとされた方で、この掛幅の絵伝もその工夫、アイディアの一つだったようです。
 前回にも記しましたが、ご絵伝は時代によって1幅から6幅と様々な形で残されていますが、現在多くの寺院で見られるのは4幅に収められたものです。この4幅の御絵伝を広く地方の寺院に授与されたのは、本願寺第八世の蓮如上人(1415~1499年)とそれ以降の宗主方です。

 寺にあります御絵伝をみてみますと、箱書には寳永五年戊子五月十九日の日付けがあり「興正寺殿御門徒端坊下専想寺下長久寺下長門國厚狭郡万倉村寿福寺玄泰」と記されています。この御絵伝は寳永五年(1708年)に授与されたもので玄泰師がこれを受けたということになるのでしょうか。興正寺、端坊、専想寺、長久寺と記されていますが、これは本山から壽福寺に至る本末寺関係を表したものだと思われます。

 防長2州の寺院や神社の由来を記した「防長寺社由来」という書があります。その中にそれぞれの寺院が持っている寺宝の由来が記されていますが、壽福寺の御絵伝については次のように記されています。
 「一 親鸞聖人縁起四幅
  但、七世天竜代宝永五年戊子五月廿日寂如上人より免許」

 日付けが一日違っていますが、上記の箱書とともにこの時期に御絵伝を受けたことを示しているようです。
 ただ、玄泰師と天竜師が同一人物なのかという点についてははっきりしません。と言いますのは、寺の過去帳には六代住職として玄泰師の名前があるのですが、天竜師の名前は過去帳に見当たらないのです。この辺りは、「歴史を訪ねる」の方でもう少し調べてみたいと思います。

(図は、山口教区白滝組の専修寺様の御絵伝です。)
 
 山口別院から発行された「御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯」につけられていたCDからお借りしています
 
(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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453.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯

20180727伝絵 

 本日から新しく「御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯」を始めます。
 以前から「御絵伝」に描かれた内容についてよく知りたいと思っていましたところに、4月1日より、「本願寺新報」紙上で「ここに注目!読み解き親鸞聖人ご絵伝」という連載記事が始まりました。
 これをご縁として、ご一緒に聖人のご生涯について学びたいと思った次第です。

 親鸞聖人のご生涯を記した伝記として、「親鸞聖人伝絵(でんね)」と「親鸞聖人絵伝(えでん)」および『御伝鈔(ごでんしょう)』があります。
 その元となるものは、親鸞聖人の曽孫に当たる本願寺の三世宗主覚如上人が、聖人の没後33年(1295年)に当たり聖人のご生涯を描いて制作された絵巻「親鸞聖人伝絵」です。
 「絵巻」というのは、通常は絵と詞書(ことばがき:文章)を交互に組み合わせたもので、横長の紙(または絹薄布)を長くつないだものに記されます。絵巻といいますと、『源氏物語絵巻』や『鳥獣人物戯画』などを思い出しますが、たくさんの絵巻が平安の中期以降に制作されたとされています。

 覚如上人は、親鸞聖人のご生涯を記すのに先立ち、自ら東国に足を運ばれて聖人の足跡を訪ね、聖人から直接教えを受けた門弟にも話をお聞きになられたと伝えられています。そのうえで詞書をご自身が書かれ、描かれた絵とともに「伝絵」ができました。

 このように「伝絵」は、絵と詞書を巻子(かんす:巻物)に描いたものですが、この中から絵だけを取り出して掛軸にしたものが「絵伝」です。巻物ではなく掛軸にすることにより、同時に多くの人々が見ることができるようになり、み教えが広がるに当たって大きな力となったのではないかと想像されます。
 現在、寺には4幅からなる「御絵伝」があり、報恩講の時期にはこれを向かって左の余間にお掛けします。多くの浄土真宗の寺院ではこの4幅の「御絵伝」を使っていますが、このほかに、1幅や2幅、3幅さらには5幅、6幅に分けて描かれた「御絵伝」もあるようです。
 一方の『御伝鈔』は、この「伝絵」の中の詞書の部分だけを取り出して記した書籍ということになります。

 これからの記事「御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯」では、この「御絵伝」と詞書である『御伝鈔』をもとにして親鸞聖人のご生涯について学び、聖人のご苦労を偲ぶこととしたいと思います。
 なお、記事の作成に当たっては、次の書籍や資料などを参照させていただいています。

 ○『聖典セミナー 親鸞聖人絵伝』平松令三氏著(本願寺出版社刊)
 ○『御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯』(山口教区発行)
  (同じタイトルを使わせていただきました。附属のCDの写真も使わせていただきたいと思います)
 ○「ここに注目!読み解き親鸞聖人ご絵伝」岡村喜史氏著(本願寺新報)
  (岡村喜史氏は本願寺資料研究所の研究員であり、中央仏教学院の講師でもあります。私も学院で「真宗史」について教えていただきましたので、当時のことを懐かしく思い出しながら記事を読ませていただいています。)
 ○『人物叢書 親鸞』赤松敏秀氏著(吉川弘文堂刊)
 ○『親鸞ノート』服部之総氏著(福村書店刊)
  (唯物史観からの聖人像を見ることができますが、服部氏は真宗のお寺の出身だったのです。これは今回初めて知りました)

(図は「伝絵」の部分です。)
 
 伝絵の最初(第一段)「夫(それ)聖人の俗姓は藤原氏・・・」の部分です。
 この伝絵は、長野市の康楽寺という浄土真宗の寺院に伝わったものです。このお寺の開基西仏房は、平安末期の混乱の中波乱万丈の遍歴の後、親鸞聖人とともに法然聖人に帰依し、親鸞聖人が越後に配流された時もともに越後に赴かれその後も聖人に付き添われた人だったと伝えられています。
 康楽寺の二世、浄賀師は絵の才能に恵まれた人で、その浄賀師が宗主覚如上人の依頼を受けて伝絵の絵の部分を担当したのだそうです。
 この康楽寺に伝えられている伝絵は最初に制作された原本をもとに室町時代に作られた書写本だということです。しかし、伝絵の最初の姿を伝える貴重なもので、長野市の指定有形文化財に指定されています。伝絵の絵の部分も見ることができますので、こちらもご覧になってください。→長野市文化財データベース

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452.歴史を訪ねる(11):壽福寺の歴史(2)

20180723日高氏著書   20180723日高氏著書2

 3回続けて「歴史を訪ねる」となりますが、今回は「寿福寺の歴史」の2回目として寿福寺が創建された経緯について調べてみたいと思います。
 前回記しましたように寺の開基につきましては様々なの説があるようですが、今回はその第一の説です。

 手元に『寿福寺とその里』という18ページからなる冊子があります。著者は日高実夫さんといわれる方で、奥書には昭和58年(1983年)12月と記してあります。

 その中に壽福寺の創建に関する経緯が記されています。概要を要約しますと、次のようになります。
 陶晴賢が主君の大内義隆を討った変の後に、後継について晴賢と意見を異にした杉重矩は陶軍に追われて、所領の万倉の地に逃れますが、長男重輔が守る信田ノ丸城に入ることを得ず、厚狭の地で自刃に至ります。

 日高氏の記述によりますと、その時に「本城の重輔と、その弟(名不詳)は、この事変を知ったが、時既に遅く忽ち晴賢の大軍によって城山は包囲されたのである。主従一丸となって能く城を守り、又反撃を繰り返したので、容易に落城しなかった。」
 しかし、「伝説によると、陶軍は峻険な山の要害と旺盛な城方の反撃に手古摺り、一計を案じて万倉、船木方面より大量の松明を徴発して、暗夜に灯の間隔を点々と開いて、長蛇の列をなす如く装い山麓に進めた。到着した先頭の順から灯りを消さして最後尾の山陰に引返させ、又点灯して山麓に進めた。これを繰り返して如何にも新手の大軍が続々集結する如く装ったのである。城方はこれを見て全く勘違いし最早落城の他はないと、遂に防戦を諦め、その夜のうちに重輔兄弟以下闇に紛れて落ち延びたと伝えられる。」

 このようにして、兄の重輔は山口に落ち延びるのですが、その弟は「現寿福寺山門のやや左下(現道路の下)に在った寺院に這入り出家して追討を遁れたのである。」そして、「真宗融光山寿福寺を創建した開基が杉重輔の実弟であるか、又はその子孫であるかは、前述のように古文書などの資料がなくて判然りしないが、後で兄重輔の再起について触れるので、それによって想像すると、多分この弟であったろう。」

 私が知る限り、壽福寺の開基が、信田ノ丸城主であった杉重輔の弟とするのはこの日高氏の著書以外には思い浮かびません。
 この日高氏の説は、前回の長谷川卒助氏の大内氏滅亡に伴う真宗寺院の創建の類型でみますと、
  起源の類型では、「本人が戦後自ら剃髪して僧となる者」
  思想の類型では、「わが生命を全うするための手段」
 ということになるのでしょうか。

 寺の開基についての他の説には、その典拠が残されていますが、今回の「重輔の弟」説の根拠は示されておらず、確認はできていません。それでも、落城の城主の弟が追っ手を逃れて寺に入った、敵が松明を灯して欺こうとしたのに騙された、といったところに親しみを感じてこの説を最初に取り上げました。

 この冊子の著者である日高実夫氏とは直接お会いしたことはないと思いますが、電話番号が分かり先日電話をしました。娘さんが出られてお話をお聞きすることができました。
 娘さんのお話しでは、実夫さんは約25年前に亡くなられたのだそうです。もともとは刑事をされていて、退職後個人で資料を調べてこの冊子も作成されたと仰っておられました。冊子の内容について知っておられることや、内容についてお聞きできる方をご存知ないかお聞きしたのですが、娘さんご自身もこの冊子については余り聞かされていなかったようです。
 実夫さんは、昔気質の方だったのでしょうか、娘さんとも冊子について会話されることも少なかったのかもしれません。

 実夫さんは冊子の中で、ご自身が寺のある現宇部市奥万倉黒五郎のご出身だと記されています。この冊子は、実夫さんが育たれた黒五郎の地に対する哀惜の思いが随所に感じられるものです。
 私の父顕雄がこの冊子に一文を寄せていまして、その中で父は、「私は、このご労作に接して、日高さんの黒五郎の地と寿福寺とに対する深い愛着のお気持ちをくみとらせていただきますとともに、急激なスピードで進展して行く現代社会のなかで、過去の遺産を大切にすることの重要さを説かれるその情熱に深くうたれるのであります。」と記しています。

 失われていく史実、事績を次の世代に伝えていくことの大切さを、実夫さんや父と共有したいと思います。

(図は、『寿福寺とその里』の表紙と「あとがき」です。)

 日高氏はこの「あとがき」の中で、
 「石原の地に在った若宮社、今ある大日の大日社、通り道の首切り地蔵やけんだん屋敷などについても、黒五郎のみならず、この地方の歴史的な事柄もあるようであるが、子供の頃薄々聞いた話で確かな記憶も手掛かりにする資料もないので、触れる事が出来なかったことを深くお詫びする。」
 と記されています。私も、首切り地蔵の話は子どもの頃に聞いた記憶があり、懐かしく思い出しておりました。そのような言い伝えが失われていくことは惜しむべきことだと思い、このようなことも「歴史を訪ねる」こととして記録したいと思っています。

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451.歴史を訪ねる(10):壽福寺の歴史

20180720円応寺 20180720円応寺3 20180720円応寺2

 今回から、「歴史を訪ねる」では壽福寺の創建時代を訪ね、いつ頃どのような経緯で創建されたのか、ということについて調べてみたいと思います。(ここしばらく「歴史を訪ねる」が続いていますが、歴史を調べてみるとどんどん面白くなってきます。登場人物がその置かれた環境で、なにを考え、どのように判断したのだろうか、などと推測することが面白いのです)

 寺の創建時代のことを調べていて『船木郷土史話』という本に出遭いました。長谷川卒助氏が著された本で、昭和42年に楠町教育委員会から発行されたものです。

 その中に、「附・長門における真宗寺の起源について」という一項があります。その書き出しは次のようになっています。
 「寺院の縁起をしらべて見て意外な事実を発見したのは、真宗寺の起源が大内義隆の滅亡の際、大内氏の家臣および関係のある者に創立されたのものが、周防の国には一ケ寺もないのに長門国には六十数ケ寺の多きを数えることである。」

 次いで、次の類型が示されています。
 起源からみて3つの類型
  ○大内家没落本人戦死あるいは自刃に際し、子に大内家および父の菩提を弔うよう遺言したことによるもの
  ○本人が戦後自ら剃髪して僧となる者
  ○戦死者の妻が得度した者(大友家臣)
 思想の面からの3つの類型
  ○菩提を弔うという思想
  ○無常を感じたという思想
  ○わが生命を全うするための手段
 そのうえで、上記に該当する長門の国の68の真宗寺院についてその創建の経緯が記されていますが、その所在地別の内訳は次のように記されています。
 下関(1)、宇部市(1)、萩市(1)、豊浦郡(26)、大津郡(14)、厚狭郡(11)、美祢郡(14)
 このデータによりますと、大内氏の滅亡に関わって創建された真宗の寺院が豊浦、大津、厚狭、美祢といった地域に多いことになりそうです。壽福寺は厚狭郡に入りますが、上記の11ケ寺には入っていませんでした。

 次回以降で壽福寺の創建の経緯を見てみたいと思いますが、その経緯については諸説があるようで、上の類型も参考にしながら進めたいと考えています。

(写真中と右は杉重矩の墓所です。左の写真の厚狭「円応寺」にあります)

 重矩は現在の洞玄寺で陶氏の軍に討たれここ円応寺に葬られました。円応寺は曹洞宗のお寺で、裏山の墓地に杉重矩の墓がありました。最初右の写真のようにお墓の上部が地上に落ちていて、それをもとに戻したのが中の写真です。
 「子爵杉氏墳墓」「明治43年6月建」と記された杉孫七郎氏建立になる碑と灯篭がありました。これまで見てきましたように、孫七郎氏は万倉(信田ノ丸城と天竜寺)、厚狭(円応寺)の杉氏ゆかりの地3か所に碑を建てられています。

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450.歴史を訪ねる(9):信田ノ丸城(3)

20180716杉氏墓  20180716杉氏墓2

 歴史を訪ねる(信田ノ丸城)の3回目になります。

 これまで見てきましたように、万倉杉氏の第5代杉重矩(しげのり)は厚狭の地で陶晴賢の軍に討たれ、その子重輔(しげすけ)は山口で内藤隆世に討たれいずれも非業の死を遂げました。

 重輔の子重良(しげよし)は、父の死(1556年)の後、4才(2才とするものもあります)で家督を継ぎました。毛利氏に仕え、地元の万倉との関係では、元亀年中(1570~1573年)に宮尾八幡宮を再興し、山口宮野より定林寺を正楽寺の地に移して杉氏の菩提寺とし(現在の天竜寺に当たります)、若一王子社(現在の広矛神社)宝殿を再興するなどといった記録が残されています。

 毛利氏の家臣として重良は、かつて杉氏が守護代として統治していた豊前の松山城に入りましたが、毛利氏と、対立していた大友氏との抗争、交渉の中で、城を明け渡したり再度入城したりという経緯がありました。
 永禄12年(1569年)大友氏の庇護のもとにあった大内輝弘が毛利氏を攻撃するという事態が起こりましたが、重良は大友宗麟からの誘いを拒否し毛利元就につき、大友氏の毛利氏攻略を阻止します。この戦功により所領を与えられることになりましたが、毛利氏の重臣の反対によりこれが反故になり、代わりに与えられた徴税権も重良が実質的に支配していない領地からのもので空文(くうぶん:空手形?)となるということもあったようです。
 その後も重良は毛利氏の家臣として各地に転戦し戦功をあげ、また、天正元年(1573年)には毛利氏の声がかりで、重臣福原貞俊の妹を妻とします。

 天正7年(1579年)九州の秋月氏との人質交換が難航し、その使命を果たすことができなった使者がかえって重良が謀反を起こしたと毛利氏に報告するという事件がありました。この時、重良は豊前松山城を退去し豊前蓑嶋城に拠って毛利氏に反旗を翻したとされます。その結果、重良は毛利勢に攻められて蓑嶋の地で討死します。26才だったと伝えられます。
 この重良の謀反についても、毛利氏内での讒言にその原因があったとも、重良が当時中国征討を進めていた豊臣秀吉に通じていたとも、様々な見方があるようです。いずれにしても、断続的に続いた杉氏による豊前国の統治はこれで終焉を迎えることとなりました。

 重良の死後、毛利輝元は、重良の子である松千代丸(のちの元良・もとよし)に対して、父重良の行為は謀反と認めながらも一家断絶の処分は許し、重良の所領の相続を認めたと伝えられています。重良の妻であった福原貞俊の妹が謀反に同意していなかったことや貞俊が丁寧にわびをいれたことがその背景にあるといわれています。 

 前々回の記事でも触れましたが、杉重良はこの時に戦場を落ち延びて、各地を経て対馬に渡り宗氏に、後に松浦氏、大村氏にも仕え、秀吉の朝鮮出兵にも従軍し、関ヶ原の戦いの後に鍋島氏の客分になってそこで生涯を閉じたという言い伝えも残っているそうです。それとは別に、重良は壽福寺の開基に関してかかわりがあるという説もあって、その晩年についてはよく分からない部分も多いようです。

 防長二藩の家臣やゆかりの者についてその来歴をまとめた『萩藩閥閲録』という書がありますが、この中で杉氏については次のように記載されています。

 従是以前不分明
  杉彦八郎重祐
 此間之世代不分明
  杉伯耆守重輔 始七郎(彦右衛門尉)
   弘治二年三月(二日)ニ果候由申傳候事
  杉七郎重良 始松千代
  (天正七年三月四日死、二十五才)
  杉七右衛門元良 始松千代 少輔九郎
  (寛永二年五月廿五日死) 
 (以下略)

 つまり、杉重祐(重矩の父・養父?に当たります)まではよく分からないとし、その後も重輔(重矩の子です)までの間もよく分からないとされています。陶晴賢の謀反との関連で重矩の存在をはっきりさせたくないという一族の思いがあったのかもしれません。

(写真は、万倉天竜寺にある杉氏の墓所です)

 右は、墓所に至る石段と杉孫七郎が明治22年5月に建てた碑と灯篭です。
 天竜寺は杉氏の後に万倉の地を領地とした国司氏の菩提寺でもあり、国司家の墓地もあります。

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449.最近の話題(14):講師用トイレの補修、豪雨の状況

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 今回は、最近の話題2件です。

1.講師用トイレの補修
 既報のように夏法座の準備として7月1日に草刈りをお願いしましたが、併せて講師用トイレ(庫裏の座敷の横にあります)の床の補修を今橋庄二さんにお願いしました。床の一部が窪むという状態になっていたものです。

 今橋さんには7月1日と2日の午前中にかけて作業を行っていただきました。住職も(余り役にたたない)助手のような形でお手伝いをしたのですが、以前のトイレ改修と同じく、既設の設備の補修というのは非常に手間がかかるものだと改めて実感しました。
 おかげさまで、7月8日の夏法座の当日、ご講師には快適に使用していただくことができました。

2.豪雨と改修した法面 
 先日はこれまでにない豪雨となりましたが、皆さまのお宅では被害はありませんでしたでしょうか?
 寺の周辺でも激しい雨となりました。寺は宇部市の緊急避難場所に指定されていて、今回市から避難場所開設の依頼がありましたが、幸いに避難の必要な方はなかったようです。

 昨年多くの方にご協力いただいて「じゃかご」を設置した杉林の法面の崩落個所が、この豪雨でどうなるのだろうかと気になっておりました。7月8日の夏法座の後で、工事の時に重機を使っていただいた岩﨑明さんとご一緒に現地を確認することができました。
 その結果、大きな問題はなく、じゃかごもしっかりと保持されており、U字溝も機能しているということで、一安心です。
 この工事を行っていなければ、今回のような豪雨では、以前あった崩落個所がさらに広がって庫裏に近づいていたことも考えられます。良いタイミングで工事を行っていただいたと、改めてお礼申し上げます。

(写真左は補修が終わったトイレ、中は法面のじゃかごです。右はU字溝のそばに育っていたモントブレチアの花です)

 モントブレチアは繁殖力の旺盛な植物だといいますから、これから増えて法面を飾ってくれるといいですね。

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448.夏法座をお勤めしました

20180708夏法座 

 昨日、7月8日、ご講師に美祢西組の長楽寺の河野宗致師をお迎えして夏法座をお勤めしました。

 ご講師は、私たちの生きている娑婆の世界とお浄土の世界について時にユーモアを交えてお話しいただきました。私たちがつい陥ってしまう、お浄土を理解するということについて、お聞かせいただきました。

 娑婆世界に生きている私たちは、阿弥陀さまのお浄土のことを理解し、分かった上でそこに救い摂られることを考えますが、ご講師はそうではないと言われます。明治時代の妙好人の「(お浄土のことは)分からないということが分かったらそれでいいのだ」という言葉のように、お浄土は私たちには理解できるというような世界ではないのだ、理解できるから信じお頼りするということではないのだといわれます。

 ご講師は、浄土三部経は「如是我聞」あるいは「我聞如是」という言葉で始まる、と紹介されました。この言葉は、お釈迦さまの説法を聞かれたお弟子さんたちがその内容を確認しあうときに、「私はこのようにお聞きしました」と語り始める言葉なのですが、私たちがお経をお読みするときには、お釈迦さまのみ教えを「そのまま疑うことなく、素直にお聞きする」ということでなければならない、とご講師は示されました。
 お釈迦さまが説かれる、煩悩に苦しむ私たちを見護り救いたいと願われる阿弥陀さまの光、阿弥陀さまのご本願は、この娑婆世界に住む私たちの理解を超えたものであって、理解できるから信じる、分かったから従うというものではないということです。

 科学技術が高度化した現在に生きている私たちは、ややもすると、あらゆるものを分析し、理解しようとします。そのようにして、理解できたものは、正しいもの、存在するものとし、理解できないものは、「存在しない」ものだと線引きをしようとします。しかしその科学技術の歴史を見ても、かつては存在するとは考えられていなかったものが、その後その存在が確認されたという事例はたくさんあります。
 私たちが、娑婆世界のやり方で「科学的に」理解しようとするものとは別に、理解できないけれども私たちに働きかけていただいている力というものを、「そのまま疑うことなく、素直にお聞きする」ことが必要なのだと、ご講師はお示しいただいたのだと思います。

 ご法話の後、昨年9月の秋法座以来になりますが、10名の方に参加いただいて「勉強会」を開きました。その前に、準備していただいたお握りを一同でいただき、腹ごしらえをしました。今回は、お正信偈の「源信讃」の部分について学ぶことができました。

 既報の通り7月1日には総代さんに境内周辺の草刈りをお願いし、法座当日は受付やご講師への接待などで役員の方々にお力添えをいただきました。厚くお礼申し上げます。

(写真は、恒例の集合写真です。住職は今回はカメラマンです。)

 豪雨の直後ということもあってお参りいただいた方が例年より少なかったのですが、秋の法座には多くの方のお参りをお待ちしています。

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447.『阿弥陀経』を読む(70)「弥陀経讃(5)」

20180706フジウツギ  20180706フジウツギ2


 「第5首」 五濁悪時悪世界 濁悪邪見の衆生には 弥陀の名号あたへてぞ 恒沙の諸仏すすめたる

 「訳文」 釈尊は、さまざまな濁りと悪に満ちた時代の中で、よこしまな考えにとらわれているものに、阿弥陀仏の名号をお与えになり、数限りない仏がたは、その教えをお勧めになっている。

 親鸞聖人は、私たちは五濁悪時悪世界に生きている、濁悪邪見の存在だと示されます。
 『浄土真宗辞典』をたずねますと、「五濁」は悪世においてあらわれる避けがたい劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁の5種のけがれ、のことでした。「悪時」はさまざまな濁りに満ちた悪い時代、「悪世界」はさまざまな濁りに満ちた悪い世界、を表します。私たちは、どのようにしても逃れることのできない穢れた時代と世界にいて、なおかつ煩悩に取りつかれて正しい見方などとてもできない、そのような存在なのだといわれます。
 お釈迦さまは、そのような私たちを救おうと南無阿弥陀仏の名号をお与えいただき、諸仏はお釈迦さまのみ教えが間違いないものだと称讃されお勧めになっているのだと、聖人は讃嘆されています。 
 自分のはからいではなく、この阿弥陀さまのお救いの力に気づきお任せするとによって私たちはこの五濁の世界で煩悩に満ちた生き方から救われる、いや、私たちにはその道しか残されていない、のだと聖人は私たちに示されています。 

 瓜生津師は、この第5首は、「禨法二種の真実を示して信をすすめる」もので、『阿弥陀経』の要諦がまとまられた和讃だとされ、「禨は如来の救いの対象である私たち凡夫のこと、法は衆生の救いを誓われた阿弥陀仏の本願のことですから、私たち凡夫が無明・煩悩にみちた存在であることと、その凡夫を如来の本願が絶対に救いとることをさしている」と記されています。

 これまで続けてきました「『阿弥陀経』を読む」も今回が最後となりました。
 昨年1月に始めましてちょうど70回になりましたが、お経を通じて、お釈迦さまは、お浄土のすばらしさを説かれ、阿弥陀さまのお救いのはたらきと私たちが救われる姿を示され、信心をもってお念仏申しあげるようお勧めいただきました。
 「舎利弗よ、舎利弗よ」と(私たちに)何度も何度も呼びかけられるお釈迦さまの声をお聞きしながら生きていくことの大切
さを改めて心にとどめたいと思います。

(写真は、フサフジウツギです。)

 名前に「ウツギ」が入っていますが、フジウツギ科に分類される植物です。園芸品としても人気の植物で、属名のブッドレヤという名前でも呼ばれています。良い香りと蜜を持っていて蝶などの昆虫が集まっているのをよく見かけますが、植物そのものは有毒だそうです。

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446.夏法座に向けて準備を行いました

 20180701草刈 20180701草刈2  

 昨日1日、夏法座に向けて境内周辺の草刈りをおこないました。

 当日は、9時に16名の総代さんにお集りいただき、駐車場や石段の周辺および参道の草刈りをお願いしました。梅雨の時期でしたが、貴重な晴れ間となり涼しい風にも恵まれて、作業を行うことができました。お忙しい中をご協力いただきありがとうございました。

 また、今橋庄二さんには、並行してご講師用のトイレの床が傷んでいた場所を補修していただきました。作業は今日2日にも一部残りの作業をお願いすることになりました。ご苦労をおかけします。

 このように準備をさせていただいた夏法座は次によりお勤めいたしますので、お誘いあわせてお参りください。

1.日時
 7月8日(日)10:00~(午前座のみ)

2.ご講師
 美祢市 長楽寺 河野宗致 師

3.その他
 引き続き午後に勉強会を予定しています。
 (当日は夏季につきお斎はありませんが、お握りを準備させていたく予定です。)

(写真左は作業前の集合写真、右は作業が終わってホット一息というところです)
 ご協力いただいた方は次の方です。
 井上啓志さん、今橋庄二さん、徳田順久さん、岩﨑昌彦さん、三上敏秀さん、清水孝義さん、山根惣一さん、山本千代子さん、金子富士夫さん、伊勢野新次さん、古屋博志さん、志賀学さん、埴生充さん、田中光明さん、木村房雄さん・志賀慎次さんの奥さんです。

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