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445.歴史を訪ねる(8):信田ノ丸城(2)

20180629信田ノ丸城跡  20180629信田ノ丸城跡2

 前回に続いて「信田ノ丸城」に関する記事です。
 今回は、三叉路のところにある説明板に名前が出ていた杉重良およびその一族に関する情報です。戦国の時代、凄絶な争いが日常的に行われていたのだ、と感じさせられます。資料によって内容が違う部分もありますが、ほぼ共通した内容を記してみます。

 説明板には次のように記されていました。
 「『防長風土注進案』には信田ノ丸城は杉伯耆守重良の居城跡の由と書かれていますが、本拠地は、豊前国蓑嶋の松山城でした。」

 杉氏は古くは土佐の出身だったとされているようです。その後、大内氏に仕えるようになり、大内氏の版図拡大に従って九州、中国、堺、京都などの戦いに名前が登場するようになります。特に豊前国とは縁が深く、豊前松山城(現在の福岡県京都郡苅田町にあります)を築き、歴代守護代としてその地を統治してきたということです。
 万倉の地と関連ができた時期というのもはっきりしないようですが、杉重綱という人が、1441年に大内教弘より厚狭鴨庄、万倉の地を賜り、万倉杉氏の初代とされています。

 そのようなことから、信田ノ丸城が築かれたのは、説明板にある重良の時代よりはもう少し遡るのではないかと思いますが、記録が残っておらずよく分からないというのが実情のようです。当時の城というのはいわゆる山城で、日常は麓の屋敷で生活をしていて、戦になると城に立てこもって戦う、というようなことが行われていたようです。「防長風土注進案」にも、「信田ノ丸城の東北の谷間に御城村と呼ばれているところがある」と記されていて、ここが屋敷のあった所ではないかと、されています。
 従って、屋敷とは別に城が築かれた時期となると、なおさら分からないということになるのでしょうか。

 その万倉杉氏の5代目の重矩(しげのり)の時に、主君の大内義隆が陶晴賢(隆房)の謀反にあい、1551年湯本の大寧寺で自刃するという事変がありました。事変後に晴賢と対立することになった重矩は陶氏の軍勢に攻められ、当時隠居していた佐波郡大崎というところから領地であった万倉に逃れたのですが、追い詰められて厚狭の長光寺(現在の洞玄寺)で自刃します。1553年のことです。晴賢は主君義隆を殺害した責任を重矩に転嫁し、その首級を義隆の墓前で晒し首にしたと伝えられます。
 また、重矩の長子重輔(しげすけ)も信田ノ丸城で陶軍の攻撃を受け、奮戦しますが遂に落城し、山口に逃れます。

 この変とその後の晴賢と重矩の争いについては様々な解釈があるようです。
 もともとライバルながら共に武断派である重矩と晴賢が、文治に傾いた主君義隆に不満を抱いていて、それが謀反につながったといわれています。その後、義隆の後継について両者は対立します。また、重矩が主君の大内義隆に、晴賢に謀反の動きがあると告げたことを晴賢が知るところとなり、晴賢が重矩を攻めることになったという見方もあるようです。晴賢からすると、自分が主君を討ったのは重矩に策を弄されたためだ、ということになります。そのようなことから、重矩を「奸臣(よこしまな家来)」とする説も伝えられています。

 父を殺され自らも居城を追われた重輔は深く晴賢を恨み、1555年晴賢が厳島で毛利元就に討たれたと聞くと、晴賢の子である陶長房兄弟を攻めて滅ぼします。しかし、今度は陶氏の家人(家来)がこれを恨み、内藤隆世(晴賢の義弟にあたります)に復讐してくれるよう訴え出ます。義兄と甥を殺された隆世はその訴えを受けて、山口にいた重輔を襲うのですがその後仲裁が入りいったんは和睦を結びます。しかし、その後隆世は再び重輔を襲い、重輔主従は山口で討死するという結果となります。1556年、重輔は36才だったと伝えられています。

 その重輔の後を4才で継いだのが宇部市の説明板に出ている重良ということになるのですが、信田ノ丸城は、このような権謀術数、殺戮と怨恨が繰り返される戦国時代のただ中にあった城だということになります。
 
(写真は、信田ノ丸城跡です。)

 左は城跡からの眺望、右は1908年に杉孫七郎氏が建てた記念碑(「杉伯耆守城跡」と記されています)と、宇部市が設置した説明板です。いずれも前回5年前に撮影したものです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
 
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444.歴史を訪ねる(7):信田ノ丸城(1)

20180625信田ノ丸城  20180625信田ノ丸城2

 本日の「歴史を訪ねる」は信田ノ丸(しだのまる)城に関するものです。信田ノ丸城は、壽福寺の開基にもゆかりのある旧跡でもあります。

 信田ノ丸城(城跡)は、宇部市大字奥万倉字城南にある戦国時代の城跡です。寺から南方、今富ダムに向かって約2キロメートル下った所に三叉路があり「信田ノ丸城」への入り口を示す表示があります。ここを右(西)に折れて、約700メートル進むと城跡への登り口になり、ここからは山頂まで1キロメートルです。

 この三叉路に信田ノ丸城跡に関する説明版(2010年2月に宇部市教育委員会が作成とあります)があり、その内容を要約しますと次のようになります。
 ・この城跡は標高324メートルの山頂にあり、天険を利用した戦国期の山城で、その遺構も残っている
 ・「防長風土注進案」によれば、信田ノ丸城は杉伯耆守重良の居城跡の由書かれているが、本拠地は豊前国蓑嶋の松山城であった
 ・築城に関する資料は不明だが、1570年頃(元亀年中)と推測される
 ・山頂には杉氏の末裔である杉孫七郎が1908年(明治41年)4月に建立した石碑が建てられている

 その「防長風土注進案」の信田ノ丸城に関する記述は、次の通りです。(山口県文書館編集「防長風土注進案」の「15船木宰判」119ページ)
 (「防長風土注進案」は、天保12年に藩が防長二州の各村落について、その実態を詳細に調査しまとめたもので、当時の社会の実情をつぶさに知ることができる資料です)

 「一 古城跡
  城山 信田丸村ニ(に)有り
   但杉伯耆守重良居城跡之由申傳、于今(いまに)城山と唱山内ニ(に)本丸二ノ丸三ノ丸なといへる所有、また山ノ東北ニ(に)當ル浴を御城村と唱候事」

 この杉伯耆守重良は天文23年(1554年)、万倉杉氏の6代杉重輔の子として生まれましたが、父重輔が内藤隆世に攻められ戦死したため4才で家督を継ぎ、毛利元就に仕えた人です。重良は豊前国松山城を居城としていましたが、その後毛利氏に反旗を翻し天正7年(1579年)26才で討死しました。(ただし、重良はこの戦で落ちのびて、豊臣秀吉の朝鮮出兵や関ヶ原の戦いにも参戦したという異説もあるのだそうです)

 ここで気になるのは、宇部市の説明文で城の築城時期を1570年頃(元亀年中)としている所です。
 この頃は重良の存命中なのですが、信田ノ丸城はそれ以前に築かれていた、とする説もあるようです。天文20年(1551年)に大内義隆が陶晴賢の反乱で討たれた後、重良の父重輔は陶軍の攻撃を受け信田ノ丸城に拠って防戦したがかなわず、山口に落ちのびたとされています。そのようなことからも、信田ノ丸城は1570年よりも早く、明応時代(1500年頃)にはあったとする書もあります。

 いずれにしてもこの信田ノ丸城を舞台にした戦が壽福寺の開基につながるとされているのですが、その経緯については次回以降で訪ねたいと思います。

(写真左は三叉路の説明版と案内表示、右は頂上への途中で見かけた石垣です)

 城跡には5年前に2回登ったことがありますが、今回、この記事を書くに当たって、もう一度登りたいと思い城の登り口まで行きました。しかし、その先は背丈を超えるような草で、今回は登るのを諦めました。従って右の写真は5年前のものです。
 また、この石垣が築城当時からのものかどうか、はよく分かりません。
 
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443.宇部北組総代会総会、研修会

20180622タニウツギ  20180622タニウツギ2

 6月20日、浄誓寺さんを会所に宇部北組総代会の総会および研修会が開催され、壽福寺からは住職と、井上啓志さん、徳田順久さん、吉屋博志さんが出席しました。

 『讃佛偈』のお勤めの後、今年度の改選で選任された新役員の紹介がありました。次の方です。
  会長:畑口百合巳さん(教善寺)、副会長:長岡迪宏さん(光安寺)、西村茂さん(明専寺)、
  会計:山田一夫さん(法泉寺)、監事:三藤眞人さん(明山寺)、石川壽一さん(浄誓寺)

 引き続き総会が開催され、次の事項について報告があり承認されました。
 ・平成29年度事業報告、会計報告
 ・平成29年度会計監査報告
 ・平成30年度事業計画案
 ・平成30年度会計予算

 続く研修会では、下松市の専明寺のご住職藤本唯信師から「過疎地域寺院に於けるお寺の護持と法座の活性化」を講題にお話しをお聞きしました。
 ご講師からは、最初に過疎地、都市部を問わずお念仏を継承することが難しくなっているという現状について具体的な数字を示され、それに対して危機感が強まっているというお話がありました。

 2世代、3世代の家族が同じ屋根の下で生活することが普通だった時代から、夫婦だけ、あるいは単身の世帯の比率が急増している現在、祖父母や両親あるいは近所の人の「背中を見て」学ぶという機会がなくなり、それがご法義を受け継ぐことを難しくしているというご指摘がありました。ご講師が言われるように「学ぶ」は「真似ぶ」に通じ、それができなくなっているという現状です。

 そのような中でもお念仏を大切にしておられる例として、ご講師が経験された滋賀県のケースのご紹介がありました。JRの近江今津駅から車で1時間の距離と仰っておられましたから、山深い農村(山村)だと思われますが、そこでは古くから複数のお寺の持ち回りで報恩講をお勤めがされているのだそうです。
 ご講師が紹介された例では、7か寺が順番に報恩講の会所を担当することになっているということで、一つのお寺からみると7年に一度担当が回ってくるということになります。7か寺のご門徒さんがその年の会所のお寺にお参りされることになりますが、報恩講にお参りすることは、地域の人の生活の中にしっかりと組み込まれているようにお聞きしました。過疎(と想像されます)にもかかわらず、朝早くからお勤めになる「子ども報恩講」にも多くの子どもたちがお参りし、その後の「大人の」報恩講も満堂の参拝者となるのだそうです。
 そのように報恩講にお参りするということが当然のこととだとして引き継がれてきたのですが、先達の背中を見ながら、言葉ではなくその姿によって大切なことが受け継がれてきたとのだと感じました。
 このお話を伺っても、言葉で示し指示するのではなく、自分の姿、背中で伝えるということの大切さを感じます。ご講師の「自分の目から見て一番遠いものは自分の背中だ」という言葉も印象に残りました。私たちには、自分の背中、自分の姿がどのように見えているのかということが、一番見えていないということです。

 このように、若い人々が「背中で」示されることを受け止めるというつながりと、報恩講という地域の大切な行事を工夫しながら維持する努力の両方があって初めて可能になるのだと、思いました。同じ過疎地域として、その双方をどのように作っていくのかと改めて課題を確認した思いでした。

 ご講師は、ご門主のご親教についてもご教示いただきました。
 ご門主は、平成28年10月1日の伝灯奉告法要の初日に、「念仏者の生き方」と題されたご親教を示されましたが、ご講師はご門主がこのような形でご親教に表題を付され、念仏者としての生き方に言及されることはこれまでなかったことだとお話しになられました。ご門主がこのような形でご教示されたのは、上記のような社会環境の変化の中で、「自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献する」ことの大切さとその難しさを強く意識されているからだと、言われます。

 私たちは、置かれた環境と私たち自身のありかた次第で、どのような事でもやってしまう危うい存在なのですが、阿弥陀さまは、そのような私たちでも、そのままでいい、間違いなく取り残すことなく救い摂るとお誓いいただきました。このご本願をいただくとき、その私たちの「生き方」について、これまでは正面から問われることはなかったのではないかと思います。
 
 しかし、ご門主はご親教の中で、「もちろん、私たちはこの命を終える瞬間まで、我欲に執われた煩悩具足の愚かな存在であり、仏さまのような執われのない完全に清らかな行いはできません。しかし、それでも仏法を依りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯努力させていただく人間になるのです。」と、ご本願をお聞かせいただいた私たちは、少しずつでも変わっていくのだとお示しになられました。ご門主は私たちに、ご本願に遭わせていたくことにより自分本位の煩悩に満ちた生き方から、自他ともに心豊かに生きていくことを目指す姿に変わり、さらに現実の社会の課題にも取り組もうと呼びかけられています。

 このように、ご門主は「念仏者の生き方」として、ご本願をいただいた私たちの生き方についてご教示いただきました。現実に進展している社会の変化、様々な深刻な課題などを考えますと、その中での私たちの生き方を示されたご門主のお言葉は、大変に重いお言葉だと受け止めなければならないと思います。
 
(写真は、タニウツギの花です)

 前回のハコネウツギと同じ、スイカズラ科の方の「ウツギ」です。
 兵庫県に雨森山という山があるのですが、2012年5月に登山道を降りている途中で出会いました。曲がり角を曲がったところで「突然に」出会ったものですから、鮮やかなピンクがひときわ印象に残りました。

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442.『阿弥陀経』を読む(69)「弥陀経讃(4)」

20180618ハコネウツギ2  20180618ハコネウツギ3

 「第4首」 諸仏の護念(ごねん)証誠(しょうじょう)は 悲願成就(じょうじゅ)のゆゑなれば 金剛心をえん人は 弥陀の大恩報ずべし

 「訳文」 あらゆる仏がたが念仏するものをお護りになり、その教えが真実であると証明されるのは、大悲の願が成就したことによるのであるから、決して壊れることのない信心を得ている人は阿弥陀仏の大いなるご恩に報いるがよい。

 前回の第3首で、親鸞聖人は、十方の数限りない仏がたがお釈迦さまのみ教えは間違いないものだとされ、それを信じるようににとお勧めになるとお伝えいただきました。聖人は、その念仏を信じる心は、私たちの力で起こるものではなくて、阿弥陀さまが誓われた「大悲の願」が成就したことによるのだと説かれます。

 この「大悲の願」は48願のうちの第17願にあたります。第17願では次のように誓われています。
 「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ)して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」
 (わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みなわたしの名をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開きません)
 (「咨嗟」という言葉も余りなじみがありませんが、『浄土真宗辞典』にたずねますと、「讃嘆の意で、ほめたたえること」とあります。)

 この願が成就されて、私たちの疑う心を取り除いていただき念仏を信じる堅固な心をいただいたのだから、私たちは阿弥陀さまのご恩をこころにいただきそれに報いるようにするべきだ、と示していただいています。
 この「金剛心」という言葉にたいして、親鸞聖人は次の左訓を付しておられます。
 「コムガウハヤブレズタダレズウゲズ(金剛は破れず爛れず穿げず)」
 ダイヤモンドのように堅固で破壊されない信心、阿弥陀さまからいただいた信心のことを指しておられます。

(写真は、ハコネウツギの花です。こちらも今時分に花期にあたる植物です)

 前回ウツギが登場しましたが、今回はハコネウツギという植物です。名前からすると近い仲間のように思われますが、前回のウツギはアジサイ科、今回のハコネウツギはスイカズラ科と科も違う間柄ということになります。
 このハコネウツギの特徴は、最初は白い花がだんだんと赤く変わっていくところです。
 たまたまこの土曜日のNHKの「チコちゃんに叱られる」という番組でこのハコネウツギが取り上げられていました。花の色が変わるのは、受粉を済ませた花は赤くなり、昆虫の注意を白い受粉の済んでいない花の方に向けるという子孫を残す戦略だったようです。初めて知りました。

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441.宇部北組仏教婦人会連盟大会を開催しました

20180615仏婦役員2     20180615仏婦役員  

 去る6月12日、宝林寺さんを会所に宇部北組仏教婦人会連盟の大会を開催しました。
 これまで、仏教婦人会連盟の大会は4月に開催していましたが、今年度は既報の通り3月31日に「花フェスタ2018(花祭り)」を開催しましたので、大きな行事が時期的に重ならないように、また山口教区の年間の行事計画が確認できてから、ということで6月に開催することとなりました。
 当日は次の内容で大会を実施しました。住職は事務局として総会の司会を担当しました。

1.開会式
 ・連盟旗入場
 ・献灯・献花・献香
 ・勤行『讃佛偈』
 ・代表焼香
 ・「仏教婦人会綱領」唱和
  新しく制定された綱領を唱和しました
 ・連盟会長挨拶
  杉山会長から退任の挨拶も含めて挨拶いただきました
 ・組長挨拶
 ・「アソカの園」斉唱
  
2.総会
 ・平成29年度活動報告、会計決算報告、会計監査報告
 ・平成30年度行事計画、会計予算案
  :いずれも承認されました
 ・新役員紹介
  今年度は役員の改選期に当たっていますので、3月27日に開催されました理事会で選任された役員および各寺院の単位仏  
  婦会長をご紹介しました。新役員は次の通りです。
   会長:大田一技さん(西念寺)、副会長・会計担当:目隆子さん(明専寺)、副会長:藤井菊代さん(教善寺)、
   会計監査:杉山博子さん(壽福寺)
  (3年間壽福寺が事務局を担当しましたが、今年度から西念寺さんにバトンタッチします。お世話になりました)
 ・新会長挨拶(大田新会長)

3.研修会
 ・豊田組 光善寺ご住職 二木文生師をご講師にお迎えしました。
  ご講師の表情豊かなユーモアあふれるご法話で、参加者一同時には笑い合い、またしんみりとしながら、阿弥陀さまのお救い 
  のおはたらきについてお聞きかせいただきました。

4.閉会式
 ・引受寺(宝林寺)仏婦会長挨拶(松本会長)
 ・来年度引受寺(万福寺)仏婦会長挨拶(野村会長)

(写真左は今年度の単位仏婦会長さん、右は当日受付を担当していただいた役員、右から杉山博子さん、大田一技さん、目隆子さんです)

 皆さんにはご苦労をおかけしますが、よろしくお願いします。

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440.『阿弥陀経』を読む(68)「弥陀経讃(3)」

20180611ウツギ   20180611ウツギ2

 親鸞聖人が『阿弥陀経』に説かれたみ教えを讃嘆された「弥陀経和讃」の3首目になります。

「第3首」 十方恒沙(ごうじゃ)の諸仏は 極難信(ごくなんしん)ののりをとき 五濁(ごじょく)悪世(あくせ)のためにとて 証誠(しょうじょう)護念せしめたり

「訳文」 すべての世界の数限りない仏がたは、自力では信じることができない他力の教えを説き示し、さまざまな濁りと悪に満ちた世のもののために、その教えが真実であると証明し、信じて念仏するものをお護りになっている。

 親鸞聖人はこの第3首で、ガンジス河の砂にたとえられるほどの多くの仏がたが、お釈迦さまの教えを間違いないものと証明し、念仏するものをお護りになるという、『阿弥陀経』の「諸仏証誠の段」を取り上げられます。

 お釈迦さまは現実の世界を「五濁悪世」と表現されています。五濁とは、社会悪がはびこり、思想が乱れ、煩悩は盛んになり衆生の質が低下する世でした。
 これは私たちが生きている現在の姿そのものだといえます。お釈迦さまは2500年前すでに私たちの姿を見通しておられました。そして、そのような五濁悪世の中で私たちが救われる道は、阿弥陀さまのお救いのお力にお任せするほかない、とお示しいただいたのです。私たち自身のいかなる努力やはからいをもってしても、私たちの根源的な迷い、苦しみから逃れることはできないとお示しいただきました。

 阿弥陀さまに全てお任せするという道は難しいことではないのですが、自分の力で、自分の努力で・・と考えてしまう私たちの思いがあることによって、そのたやすい道が困難な道になってしまう、これがまさに「難信」とされる所以でした。
 たとえが適切ではないかもしれませんが、水泳で水に浮こうと努力している姿を思い浮かべました。水に浮こうと体に力を入れてもがいていると体は沈んでしまうように感じたことがあります。力を抜いて水の浮力に任せることが分かってくると体は自然に浮いてくる(のだそうです。私は水泳が苦手で、とうとうそのことを実感することができなかったのですが)ということに似ているのかもしれません。

 昨日、山口別院でお勤めされた永代経法要でのご講師安方哲爾師のお話しが思い出されます。

 ご講師は、阿弥陀さまのお救いの力を、ビル火災で20階建ての屋上に追い詰められた人にたとえてお話しされました。
 私たちが考えてしまうお救いというのは、地上にマットを敷いて絶対に安全で大丈夫だからここに飛び降りなさい、と呼びかけられるようなものだとご講師は言われます。絶対に大丈夫だと言われても、地上に小さく見えるマットに向かって飛び降りるのは怖いこと、本当に大丈夫かと疑わしいことです。ここでは、ことは私の判断に任せられています、お救いに身をゆだねる決意を行い、実行するのは私たちなのだといわれます。
 一方、阿弥陀さま本当のお救いの姿は、この場合レスキュー車が梯子を伸ばして、レスキュー隊員が私たちを抱きかかえて救っていただく姿なのだといわれます。
 私たちが望むから救われるのではありません。救わずにはおれない私たちの姿があるから、阿弥陀さまは時には逃げようとまでする私たちを抱きかかえてお浄土にお連れいただくのだと、ご講師はお示しいただきました。

 親鸞聖人はこのご和讃によって、十方の仏がたがこの阿弥陀さまのお救いの力を間違いないことだと証明され、それをお護りされている、とお伝えいただいています。

(写真は、ウツギの花です)

 ちょっと花期を過ぎたところですが、初夏に白と緑のコントラストをヤマボウシと競っているという感じでしょうか。漢字では「空木」。茎が中空だというところからこの名前になったのだそうです。別名はウノハナ(卯の花)。童謡の「夏は来ぬ」にはこちらの名前で登場します。

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439.新聞版「壽福寺だより」を発行しました

2018年6月1面s  2018年6月2面s


 新聞版「壽福寺だより」の6月号を発行しました。
 今月号の内容は次の通りです。

[1面]

 「降誕会法要をお勤めしました」

 「宇部北組の初組会が開催されました」
  初組会の内容と、役員異動の情報です

 「夏法座のご案内です」

[2面]

 「井戸の改修などを行いました」
  このブログではすでにご報告しました、井戸の改修と掛図の改修の報告です

 「『仏教婦人会綱領』が改定されました」
  これもブログではご連絡しました、改定された綱領のご紹介と、改定の趣旨です

 「ご存知ですか(15)『お経』(1)」
  5月12日の連続研修でお話しした「お経」について、ご紹介しています

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438.山口教区門徒総代会全体会

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 5月29日山口別院で山口教区の門徒総代会全体会が開催され、総代の井上啓志さんと出席しました。

 この門徒総代会は山口教区の寺院の門徒総代さんを会員として、「自ら聞法にはげみ、相互の親睦提携を密にし、伝道に協力する体制を整えるとともに、寺門の護持発展に寄与することを目的」(会則第2条)として結成された組織です。
 全体会は毎年1回開催されるもので、当日は次の内容で実施されました。

 1.開会式
  『讃佛偈』のお勤めのあと、久保会長および中村教務所長よりご挨拶をいただきました

 2.全体会
  以下の報告がおこなわれました
  ・平成29年度活動報告、会計報告、会計監査報告
  ・新役員
  ・平成30年度活動方針、会計予算

 3.講話、質疑応答
  山陰教区 鹿足組誓立寺の朋澤智弘住職より「~念仏者の生き方~」を講題にお話しをいただきました

 4.閉会式
  
 ご講師のお話しで印象に残っていることを記しておきます。
 (ご講師の朋澤師は、平成26年の壽福寺の降誕会にご出講いただいた方です。懐かしくお話を聞かせていただきました)

 ご講師は、現代の環境の中でどのようにしてみ教えを伝えていくのかという、共通の難しい課題があると話されました。

 ご講師のお寺は山間部のお寺だそうです。寺の近くにおられたご門徒さんが「町に」出られて3代目になっているご家庭が多くなっているというお話がありました。2代目までの方でしたら、お寺で遊んだりお参りをしたり、という体験があるのでしょうが、3代目となるともうそれもない世代になっているという現状だということです。全く同じ状況だなあ、と思いながらおききしていました。

 そのような環境の変化の他に、み教えを伝えることを難しくしている原因の一つとして、「自主性を重視する教育」を指摘しておられました。
 押しつけではなく、自分で考え「AとBのどちらがよいか」自分で判断するようにという指導が行われてきたという指摘です。そうすると、「理屈を考えず言うとおりにやれ・・」といった一方的な指導は避けなければならないということになりますが、その結果、例えば「躾(しつけ)」という、いわば「形から入る」ことの価値や意味が通じなくなるということが起こります。
 お仏壇の前に座って合掌するというようなことも、この流れの中で、「AかBか」の選択の対象となっているということになるのでしょうか。「強要」ではなく、自分の姿で示して大切なことを伝えるという、難しいけれども必要なことを続けなければならないと改めて思いました。

 ご講師がご門主のご親教「念仏者の生き方」に触れて話しておられたことも印象に残っています。
 私たちは、命終わるときまで煩悩具足の存在ですが、「しかし、それでも仏法を依りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯努力させていただく人間になるのです。」と、私たちが変わっていいくのだ、とご門主は教示されています。
 ご講師は、私たちが少しづつでも変わっていかなければならない、というご門主のご教示は「厳しいお言葉」だとされていました。この私たちが変わる姿が、前の「み教えを伝える」姿にもなるのではないかとも思いました。

 当日、配布された資料に「山口教区門徒総代会理事 アンケート」という資料がありました。次の設問について総代会の理事(各組の総代会長)から出された解答が記載されています。当然のことながら共通した問題が多いのですが、他の寺院で行われている工夫についても知ることができる資料でした。
 1.所属されている寺院の状況について
  ・今行われている寺院活動で「これはよいことだから、これからも続けていきたい」と思われること
  ・「これは心配だから、ぜひ改善しなければ」と思うこと
  ・寺院の10年後の状況を考えたとき、「心配になる」こと
 2.あなたの所属されている組の状況について
  ・組の総代会として、これからも重点的に取り上げたい研修テーマは
  ・組の10年後の状況を考えたとき、「心配になる」ことがあれば
 3.山口教区門徒総代会研修で取り上げてほしい内容やテーマ

 ご講師のお話しに戻りますが、隠岐島の海士町(あまちょう)の港にある看板のことを紹介されていました。島に着いた人が最初に目にするもので、そこには「ないものはない」と大書されているのだそうです。
 後で調べてみたのですが、これは同町の宣言でロゴマークにもなっているということで、次の2つのことを宣言したものだということです。
 ・無くてもよい
 ・大切なことはすべてここにある
 他と比較して、あるいは昔を思い出して、あれがない、これがない、と嘆くことをやめよう、ないと思っているけどその中に大切なものが残っていることに気づくこう、と大切なことが言われていると感じさせる「宣言」です。

(写真は、ハナミズキです。いずれも4月中頃に撮影したものです)
 前々回、ヤマボウシを取り上げましたが、ハナミズキも同じミズキ属に分類されます。ヤマボウシが清楚な印象を持っているのに対して少し妖艶(?)な花です。アメリカ原産の植物で、日本からアメリカに桜(ソメイヨシノ)が贈られた返礼として1915年にアメリカから贈られ日本での栽培が始まったということです。
 別名は、アメリカヤマボウシです。

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437.「仏教婦人会綱領」の改定

20180525仏婦綱領2 20180525仏婦綱領


 この度、2月6日付けで「仏教婦人会綱領」が改定され、4月13日に開催された仏教婦人会総連盟の総会で発表されました。
 新しい「仏教婦人会綱領」は次の通りです。

 仏教婦人会綱領

 私たちは 親鸞聖人のみ教えに導かれて
 すべての人びとの幸せを願われる 阿弥陀如来のお心をいただき
 自他ともに
 心豊かに生きることのできる社会をめざし
 ともに歩みを進めます

<唱和>
 一、 お聴聞を大切にいたします
 一、 「南無阿弥陀仏」の輪をひろげます
 一、 み仏の願いにかなう生き方をめざします 

 今回の改定の背景について次のように述べられています。(『本願寺新報』の記事を要約させていただいています)
 これまで私たちが親しんできました旧の綱領は、1966年に制定されたものです。以来、綱領をテーマとした研修会が実施され、単位仏婦会の結成などを通して活動が行われてきました。
 その一方で、社会の姿も大きく変わってきました。核家族化などの家族形態が変化し、女性の価値観や生き方も多様化してきました。
 そのような中で、これまでの綱領にある「み法の母」「念仏にかおる家庭」「仏の子どもを育てます」という文言が、仏教婦人会が既婚女性(家庭婦人)を対象とした団体だと受け止められる傾向を生じている、という実体を踏まえて、2015年より綱領の改定が検討されてきました。
 その結果、「文章を読んで排除される人がないように」「仏教、真宗の専門的な難しい言葉をできるだけ使用しない」ことに留意し、専如ご門主の「念仏者の生き方」のお心を具体化する新しい綱領に改定されました。

 これまでの綱領を掲げておきます。

 仏教婦人会綱領

 私たち仏教婦人は、真実を求めて生きぬかれた親鸞聖人のみあとをしたい、
 人間に生まれた尊さにめざめ、深く如来の本願を聞きひらき、
 み法の母として念仏生活にいそしみます。


<唱和>
 一、 ひたすら聞法につとめ、
   慈光に照らされた日々をおくります。
 一、 念仏にかおる家庭をきずき、
   仏の子どもを育てます。
 一、 「世界はみな同朋」の教えにしたがい、
   み法の友の輪をひろげます。


 「念仏にかおる家庭」を築くことの大切さは大家族であっても、核家族や単身の家庭であっても変わらないことです。「仏の子どもを育てること」を(家庭)婦人だけに負わせるのではなく、男女を問わず社会全体として(み教えの中で)子供を育てることとして、これもまた極めて大切なことだと改めて思いました。
 そのことを踏まえて、「み仏の願いにかなう生き方をめざします」と、ご門主の「念仏者の生き方」を実現できるように努めようと呼びかけられるものです。

 今回の綱領の改定では、多様化した社会でどのようにしてみ教えを広めていくのか、という仏教婦人会だけではなく他の活動にも共通した課題が問われているように思います。その中で「仏教婦人」が果たす役割を考える機会にしなければならないと、思います。
 6月12日の仏教婦人会連盟の大会では、この新しい綱領をご一緒に唱和します。

(図は、仏教婦人会総連盟からいただいた資料「仏教婦人会綱領の願い」です)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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