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375.『阿弥陀経』を読む(42)

20171030ワタ2   20171030ワタ

[御文] 又舍利弗・極楽国土・衆生生者・皆是阿鞞跋致・其中多有一生補処・其数甚多・非是算数・ 所能知之・但可以無量無辺・阿僧祇劫説
     (うしゃりほツ・ごくらっこくど・しゅじょうしょうじゃ・かいぜあびばっち・ごちゅうたう・ひぜさんじゅ・しょのうちし・たんかいむりょうむへん・あそうぎこうせツ)

[訓読] また舎利弗、極楽国土には、衆生生ずるものはみなこれ阿鞞跋致(あびばっち)なり。そのなかに多く一生補処(いっしょうふしょ)(の菩薩)あり。その数はなはだ多し。これ算数(さんじゅ)のよくこれを知るところにあらず。ただ無量無辺阿僧祇劫をもつて説くべし。

[訳文] また舎利弗よ、極楽世界に生まれる人々はみな不退転の位に至る。その中には一生補処という最上の位の菩薩たちもたくさんいる。その数は実に多く、とても数え尽くすことができない。それを説くには限りない時をかけねばならない。

 お釈迦さまは前回、阿弥陀さまの周りにおられる方々(聖衆)について説かれたのに引き続き、今回は新たに浄土に往生した方々についてお話しされます。

 お釈迦さまは、新たに娑婆世界から浄土に生れるものは、みな阿鞞跋致に至るのだと説かれます。
 この阿鞞跋致を『浄土真宗辞典』にたずねますと、「阿鞞跋致」は梵語の音訳で、「無退・不退・不退転などと意訳する。退かないという意」とされており、その「不退転」は「菩薩の修道が進んで仏になることが定まり、再び悪趣や二乗や凡夫の位に退歩したり、さとったところの菩薩の地位や法を失わないこと、また、その位をいう」とされ、すでに得た境地から転落しないこと、になります。

 お釈迦さまは、このように、往生して阿弥陀さまのお浄土に生れたものはみな不退転の位に至って、迷いの世界に戻ることはない、と説かれ、そこには、一生補処という最上の位の数限りない菩薩方がおられると説かれます。
 この「一生補処」は『浄土真宗辞典』では、「一生を過ぎれば仏処を補うべき地位。菩薩の最高位で次の生涯には仏になることができる位。また、浄土へ往生した者は一生補処の菩薩の位に住し、他方の衆生を教化利益するとされる。」とされています。
 お釈迦さまは、お浄土に生まれた方々は、みな仏と等しい位を得ておられると説いておられます。

 このことは、四十八願のうちの第二十二願が成就されたことによると伺いました。第二十二願には、「わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちがわたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至るでしょう。・・・」と説かれていて、この願は「還相回向の願」と呼ばれています。

 親鸞聖人は、信心をいただいてお浄土に生れる身となったものは、すでに現生において不退転の位に至り、往生の後にはこの世に戻り衆生を救済する役を果たす、とされます。お浄土に生れて不退転の位に至るというのではなくて、現生においてお浄土に生れると定まったものはすでに不退転の位に至るのだ、と示されました。第二十二願が「還相回向の願」と称される所以です。

 この不退転という言葉は、現在でも「不退転の決意で」などと使われていますが、これも仏教用語が日常用語になった一例でしょう。ただ、「不退転の決意」の方の「不退転」は、私の決意による「不退転」というニュアンスで使われていますので、もとの意味とは随分変わってきているように思います。

(写真は、ワタの花です。)

 ワタもアオイ科の植物で、可憐な花を咲かせます。その実である綿花は明治時代以降は海外から輸入されるようになりますが、それ以前には、日本の多くの地域でワタが栽培されていたようです。
 インドは現在でもワタの生産量は世界第2位の地位を占めています。お釈迦さまの時代はどうだったのでしょうか?

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
 
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374.「御同朋の社会を目指す運動」僧侶研修会・推進協議会

20171027研修会  20171027協議会

 昨日、10月26日に西念寺さんを会所に午前中は宇部北組「御同朋の社会をめざす運動」(実践運動)の人権啓発推進僧侶研修会、午後には同推進協議会が開催されました。
 この会は、昨年第1回を開催し、今年度が第2回となります。

 午前中の研修会では、15名の僧侶が出席、ご講師に人権社会問題担当部長の長屋善洋氏をお招きして「災害時における人権侵害」について研修を行いました。

 実は、私はこれまで「災害時における人権侵害」ということについては余り意識をしていませんでした。どのようなことが人権侵害になりえるのか、ということも認識せずにいるという状況でこの研修会に参加しました。
 ご講師が配布された資料に、宗門から発行された「災害と人権」というリーフレットがありました。その中に、「不用意な言葉や態度の中で、我慢を強いられている方々がいることを考えてみませんか?」という言葉とともに、私たちが災害に遭われた方にかけそうな次のような「言葉」が記載されていました。
 「思ったより元気そう」「前向きに生きよう」「命があったんだからよかったと思わなきゃ」「つらいのはあなただけじゃない」「早く元気になって」

 これらは、災害に遭われた方に「元気になってもらいたい」「前向きになってもらいたい」と思ってかける言葉だと思っていましたが、しかし、ご講師によれば、これらの言葉は、自分の気持ちを相手に伝えたいという私の方の言葉であって、相手の気持ちを聴く言葉ではなかったのです。
 これらの言葉は「相手の励ましになるはず」、「私の言葉が相手に伝わってそれが相手の力になっているはず」、といういわば私の思い込み、私中心の言葉なのだと気づかされました。このような言葉を受けた相手がどのように感じているのか、そのことに思いを致さずに、「私が・・・」の言葉になっているということです。
 ご講師も言われていましたが、病気で入院している人を見舞ったときにも同じことが生じている可能性があります。病気で辛いこともあるかもしれません、一人で静かにしていたいと思っているかもしれません、そんなときに「頑張れ」「前向きになって」という言葉が、必ずしもその人にとって力にならないことも多いのではないでしょうか。
 このように「相手のため」に、と思ってする私たちの行動が実は一番厄介なのかもしれません。言っている私たちは、この人のため、という思いがありますが、相手の心を聞くということが抜けてしまっていることを考えなければならないのだと改めて思いました。

 「震災から見えてきた人権問題」という資料がありましたが、その中では「人権侵害を被る可能性のある被災者」として、「女性・子ども」「障がいがある人」「性的マイノリティ」「在住外国人」が挙げられていました。災害の現場では、現実にある人権侵害が増幅され、鋭い形で発生するものだというご講師のお話しも印象に残っています。
 極限状態に置かれた私たちは、私たちの中に(ひそかに)持っている差別意識を表面化させる可能性がある、ということを改めて認識した思いです。そのようなことにならないためにも、私たちは日常の中で持つ可能性のある差別意識を常に認識し、それを克服する努力を続けなければならないと思いました。

 午後は、40名を超える僧侶とご門徒さんに参加いただいて実践運動の推進協議会を開催しました。ご講師には宗門の門信徒教化部部長の沙々木学海氏をお迎えしました。
 ご講師から「念仏者の生き方とは?」をテーマにお話しを伺い、それをもとにグループで話し合いを行い、その結果を報告しました。
 5グループに分かれた話し合いの中では、次の世代にみ教えを伝える難しさについて多くの意見が出され、過疎化、核家族化などによってその環境がいよいよ困難になっている現状が報告されました。そのような中で、やはり自分自身がみ教えを大事にしている姿を示すこと、和やかな笑顔で過ごすこと、お寺を若い人が集える場所にできるよう工夫をすること、などに取り組もうという意見が出されました。
 それを受けてご講師から、「核家族化の進行により大切なものを伝える術がなくなっているということが共通の課題になっています。その中でも仏事を伝えることが最も難しい課題になっており、それに対する有効な対策を設定できずにいます。しかし、その中にあっても、お聴聞によって私たちが少しずつ変わっていくということが大事だという基本は変わらないし、そのことを大事にしていただきたい。」というコメントをいただきました。

 また当日、今回創刊された組報「ご縁だより」が配布されました。広報班の若手のメンバーのご尽力で出来上がった組報です、お取越しなどの機会にご門徒さんにお配りします。

(写真は当日のご講師、左は長屋善洋氏、右は沙々木学海氏です)

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373.『阿弥陀経』を読む(41)

20171023工事2   20171023工事

[御文] 又舍利弗・彼仏有無量無辺・声聞弟子・皆阿羅漢・非是算数・之所能知・諸菩薩衆・亦復如是・舍利弗・彼仏国土・成就如是・功徳荘厳
     (うしゃりほツ・ひぶツうむりょうむへん・しょうもんでし・かいあらかん・ひぜさんじゅ・ししょのうちし・しょぼさっしゅ・やくぶにょぜ・しゃりほツ・ひぶっこくど・しょうじゅにょぜ・くどくしょうごん)

[訓読] また舎利弗、かの仏に無量無辺の声聞(しょうもん)の弟子あり、みな阿羅漢なり。これ算数(さんじゅ)のよく知るところにあらず。もろもろの菩薩衆、またかくのごとし。舎利弗、かの仏国土には、かくのごとき功徳荘厳を成就せり。

[訳文] また舎利弗よ、その仏のもとには数限りない声聞の弟子たちがいて、みな阿羅漢のさとりを得ている。その数の多いことは、とても数え尽くすことができない。また菩薩たちの数もそれと同じく数え尽くすことができない。舎利弗よ、阿弥陀仏の国はこのようなうるわしいすがたをそなえているのである。

 しばらく間が空きましたが、『阿弥陀経』に戻りました。
 お釈迦さまは、これまで『阿弥陀経』の中で、まず阿弥陀さまがおられるお浄土の素晴らしさについて説かれ、ついで、阿弥陀さまは限りない光明と限りない寿命を備えておられると、そのお名前の由来を説かれました。

 ここからは、お釈迦さまはその阿弥陀さまの周りにおられる尊い方々について話されます。

 お釈迦さまは、阿弥陀さまのもとには無量無辺の(数限りない)声聞のお弟子さんがおられ、この方々はみな阿羅漢(さとりを開いた人)であると説かれます。これは、四十八願のうちの第十四願「声聞無量の願」が成就されたことによると伺いました。その第十四願には次のように述べられています。
 「わたしが仏になるとき、わたしの国の声聞の数に限りがあって、世界中のすべての声聞や縁覚が、長い間、力をあわせて計算して、その数をしることができるようなら、わたしは決してさとりを開きません」
 この「長い間」は「百千劫」とされていますから、それこそ気の遠くなるような長い時間をかけても数えきれないほど多くの、という意味になります。 
 そして、阿弥陀さまのもとには声聞のお弟子さんと同じく数限りない菩薩方もおられると説かれます。

 瓜生津師によりますと、玄奘三蔵の翻訳による「称讃浄土教」では、「数限りない」とされているものは、その数だけではなく、声聞のお弟子さんや菩薩方が備えておられる功徳についても言われているのだそうです。従って、お釈迦さまは、阿弥陀さまのもとには、限りない功徳をそなえた数限りない声聞や菩薩のお弟子さんがおられると説いておられることになります。

 この「声聞」という呼称については変遷があったと学びました。
 『浄土真宗辞典』にたずねますと、声聞は「声を聞く者の意。仏の直接の教えを聞いて学ぶ者をいう。もとは釈尊の直弟子を指す語。」から「煩悩を断ち切り自己のさとり(自利)のみを目的とする者とされ、小乗の聖者を指す。」とされるようになったということです。
 今回の使われている「声聞」は仏の声を直接聞く者、の意味と考えられます。

(写真は、現在進行中の杉林の法面改修工事の様子です)

 10月9日の着手以来5回作業を行い、擁壁のじゃかごの2段目までが完成しました。
 雨で地面が粘土状にぬかるむなどの予想外の事態が生じ、またこの週末から月曜日にかけては台風と、その対応にも追われました。
 写真左は、じゃかごの2段目の作業の様子、右は活躍しているバックホーとキャリーです。バックホー2台、キャリー2台が力を発揮してくれています。
 ここまで総代さんやご門徒さんのご協力をいただいて作業を進めることができました。厚くお礼申しあげ、引き続きご支援をお願いします。

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372.「平和に関する論点整理」への意見集約(3)

20171020アメリカフヨウ   20171020モミジアオイ

 前回に続いて、「平和に関する論点整理」に対して出された意見について考えてみたいと思います。
 本日は、その第3回目で最終となりますが次の項目です。
 
 5.現場に立って、見る、聴くことの重要性
 6.具体的な取り組みの可能性について
 7.当面の結びとして

 「5.現場に立って、見る、聴くことの重要性」の中で、「論点整理」の公聴会では沖縄について多くの意見が出されたと報告されています。
 それは、沖縄の方々からは「沖縄のことをもっと知ってもらいたい」という声であり、沖縄以外では「沖縄の人の苦悩を理解すべき」という声に集約されるものです。沖縄は、現在の日本で、安全保障のあり方や隣国との関わり方、自衛権など、まさに「戦争と平和」の最前線の現場です。考えてみますと、私たちは私たちが今いる場に足を置いてその場からの発想で考えているのかもしれません。
 「戦争と平和」の問題が最も鋭く問われている現場である沖縄の地に立ってものを考えることの重要性について気づかされた思いです。

 「6.具体的な取り組みの可能性について」では、公聴会の中で宗派に対して出された要望が次の7点にまとめて報告されています。
 (1)声明を出してほしい
 (2)議論をする場を設けてほしい
 (3)少数民族への活動を行ってほしい
 (4)宗派を超えた対話を進めてほしい
 (5)沖縄のことを知ってほしい
 (6)戦時教学の歴史を学ぶ活動を進めてほしい
 (7)念仏者の具体的な平和活動を示してほしい
  これらは、宗派への要望を聞かせてもらいたいという問いかけに対して出された項目だと思われますが、このような要望を行うと同時に、私たちは、自分がどのように考え行動するのかということを自身に問いかけ続けることも必要だと思います。

 「7.当面の結びとして」、次の3つの項目が提起されています。これは以前、山口別院で行われた説明会のご報告で記載していたものです。
 その一、平和創造の基礎づくりとして国の内外に仏教の意義を伝えること
 そのニ、「平和の定義」を「宗制」前文の視点から見直すこと
 その三、多様な平和貢献活動の中から念仏者にふさわしい活動について検討し進めること

 その一、について、以前に次のコメントをいただきました。
 「[平和創造の基礎づくりとして国の内外に仏教の意義をつたえること]と、ありますが、これは、「仏教の宣伝・布教活動」ととらえられてしまい、敬遠されると思います。仏教者の側にも、布教活動をすることだと思う人が出てきます。多種多様の宗教観を是認したうえで活動することが必要だと思います。」

 私も、「仏教の意義を伝えること」というのは、ただちに「仏教の宣伝・布教活動」ということではないと思います。仏教で説かれていることが仏教の言葉によらなくても、他の宗教に帰依している人にも理解され共有されることが可能であれば、それは素晴らしいことだと思っています。
 そのように思った最近のきっかけは、前回にも触れましたが、オバマ前大統領の広島でのスピーチを読んだことによります。
 オバマ氏は、スピーチの中で、太古の昔から「支配、征服を欲する本能という同じ根本から戦争は起きてきました。」と述べ、戦争の根底には、支配し征服したいという本能があって、それは現在も克服されておらず、そのような私たちが科学技術を飛躍的に向上させ、自分を滅ぼすことができるほどの力を身につけてしまったのだと、言います。それゆえに「原子を分裂させた科学の革命は私たちに道徳的な進歩も要求しています。」とし、私たちはこのような私たちの本能に気づき、私たちが変わらなければならないと説きます。
 この「支配、征服を欲する本能」というのは、自己中心にものを考え、むさぼり、怒る「煩悩」そのものだと感じました。
 私たちが、個別の宗教を超えてこの「支配、征服を欲する本能」(=煩悩)に気づき、そのことを共有することが、戦争に対する内面的な抑止力となるのではないかと思います。

 そのニ、では、「平和」というものを単に「戦争がない状態」だとするのではなくて、「自他ともに心豊かに生きることのできる」状態だとして、その実現を目指すことが必要だとしています。そうすると、「平和貢献活動」の内容も多様なものになってきます。
 それは、その三、に記されているように、平和は「力の論理」だけで維持されているものではなくて、実際には「意見集約」に挙げられているように「国連等の平和活動」や「戦争の否定と非暴力・平和の発信」「構造的暴力の克服(自由・平等などの人権の尊重や飢餓・格差・差別の克服)」「宗教的寛容の推進」「戦争の歴史についての教育」など多様にな活動によって下支えされていることに重なります。
 このことは、個別の問題を取り上げるに従って意見が分かれる可能性のある「戦争と平和」という課題についても、仏教者・念仏者として具体的に取り組むことができることが多くある、ということを示していると思います。

 9月14日の説明会の当日、この平和への「貢献策」として総合研究所より次のような項目が提示されていました。
  (1)合掌のすすめ
  (2)経済格差・貧困の克服へ
  (3)美しい沖縄から平和のメッセージを
  (4)自死問題を通じて東アジアの相互対話と信頼の醸成を
 今後、その具体的な活動が検討されるものと思います。

(写真左はアメリカフヨウ、右はモミジアオイの花です)

 この2種のフヨウ属の植物は、前回登場した交配種のタイタンビカスの両親ということになります。
 アメリカフヨウは、高さ150㎝前後、7月から9月頃にかけて直径30cmにもなる大きな花をつけます。一方のモミジアオイは赤い花を咲かせモミジのように切れ込みの入った葉を持っています

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371.「平和に関する論点整理」への意見集約 (2)

20171016タイタンビクス2   20171016タイタンビクス

 少し間が空きましたが、引き続き「平和に関する論点整理」に対して出された意見について考えてみたいと思います。
 今回は「意見集約」で取り上げられた、次の2つの論点です。

 3.具体的な論点について
 4.議論にならなかった論点

「3.具体的な論点について」では、「論点整理」に対して意見が出された次の論点が取り上げられていました。
  (1)近隣諸国との緊張関係
  (2)個別的自衛権・集団的自衛権の問題
  (3)宗教の右傾化という問題
  (4)憲法問題

 これらの論点について出された意見をみてみると、「戦争と平和」の問題にどのように対応するのかという課題は、検討する場合の前提条件が具体的になればなるほど、意見が分かれてくるものだということを改めて感じました。
 北朝鮮の問題や中国との関係の問題、個別的自衛権や集団的自衛権の問題、米軍基地の問題などがその典型だと思います。
 これらの現実に存在している問題に対して、「武力の行使は認められない、自衛権も認められない」とする立場をとるのであれば、割り切った判断(現実的かどうかは別にして)ができると考えられますが、そうでない場合は、念仏者としてあるいは教団として下す判断、とるべき行動は非常に難しいものになります。
 「論点整理」にも挙げられていた、「国や地域の価値の共有」や「宗教的寛容の推進」「人的交流」などの非軍事的な活動が、錯綜した利害関係の中で一歩ずつでも望ましい状態に近づいていく手段となるのは間違いないことだと思われます。
 また、仏教という宗教は日本固有の宗教ではなく、アジアの地域に広く信者を持つ宗教であり、「平和」を中心的な価値にしているところから、近隣諸国と宗教的なネットワークを構築することが近隣諸国との間の平和実現に有効だということも指摘されていました。

 意見集約の中で、右傾化した宗教の活動が顕著になっている、という意見が出されたようです。
 これは、「意見集約」でも触れられているような「宗教右派」が政治を動かすようになっているという、問題意識が背景にあるようです。
 また、9月14日の説明会の当日、会場から中島岳志氏の著書『親鸞と日本主義』をひいて宗教の右傾化についての意見が出されました。それは、先の大戦で宗門が戦争に向かっていく流れを止めることができず、それを推し進めることとなったことは、帰依する対象が天皇に置き換えられた、あるいは置き換えてしまった、のではないか、という中島氏の問題意識につながるものです。
 現在、中島氏の著書を読んでいるところですが、戦争へと傾斜していく時代の流れの中で、苦悩しながら、あるいは「苦渋の選択」として対応する姿を想い浮かべました。時代の流れの中で正しく判断し行動することの難しさを強く感じますが、そのような困難の中で正しく判断し行動できるかどうかは、結局のところ私自身にかかってくることなのだと、改めて思います。

「4.論議にならなかった論点」では、意見が出されなかったけれども重要と思われるとして、次の論点が取り上げられていました。
 (1)煩悩の問題
 (2)「平和」の概念規定

 「論点整理」の第Ⅰ章で、煩悩や愚かさが争いを生むという問題提起がなされていたのですが、この点に対してはほとんど意見が出されなかったようです。
 戦争を始め様々な争いの根底には、自分中心にものを考え、むさぼり怒る私たちの煩悩があり、私たちはこの煩悩から逃れることは難しいことだとされます。しかし、たとえ煩悩から脱することは難しいとしても、私たちはこのような自分の姿を認識することはでき、そのことによって、争いを避ける方策を模索することも可能になるのではないかと思います。
 ここでも、昨年広島を訪問したオバマ前大統領の言葉を思い出します。オバマ氏は、人類は、「支配、征服を欲する本能」は太古のままでありながら、世界を破滅させるほどの科学の力を手にしていると指摘し、私たちは私たちが手にした力にふさわしい進化をしなければならないと説いていました。
 今回の「意見集約」の中では、「仏教や浄土真宗の世界観や人間観の立場から平和構築の可能性について発信をしていくことも私たちにとって重要な課題ではないでしょうか。」と述べられています。
 オバマ氏の言葉を思い起しますと、宗教の違いを超えたところでも、私たちの姿について共通の認識を持ち、煩悩や欲望をコントロールする方向に向かうことができるのではないかと思います。仏教やキリスト教といった個別の宗教の言葉ではなく、共通の言葉として共有することができ、それによって問題に対処するという道があるのではないか、という希望を持ちたいと思います。
 
(写真は、タイタンビカスの花です。山口市宮野で撮影しました)

 タイタンビカスは、先日から登場していますフヨウ属のアメリカフヨウとモミジアオイとの間で作られた交配種です。大きな花を咲かせ、高さは2メートルにもなります。ハイビスカスのような南国風の花を持ちながら、北海道のような寒冷地でも地植えが可能なほど強健な生育力を持っているということです。

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370.杉林の法面改修工事(2)

20171013工事    20171013工事3

 前回ご報告しましたように、10月9日より杉林の法面の改修工事を開始しました。
 この工事は、資材は購入したものを使いますが作業は自分たちで行おうと始めたものです。今回は昨日までの進行状況についてご報告します。

 10月9日、8時30分に、総代三役の井上啓志さん、今橋庄二さん、徳田順久さんと岩﨑明さんの4名の方にお集りいただき、本堂で起工式のお勤めをした後に作業にとりかかりました。

 9日には、バックホーを使って、じゃかごを設置する現場に至るとりつけ道を設け、周辺の杉や竹を伐採し、切株を取り除くという作業を行いました。作業は、岩﨑さんと今橋さんが運転されるバックホーを使って進めました。
 その後、11日、12日と作業を行い、1段目のかごを設置するための基礎を作り、1段目のかごを下ろし、かごを固定する松杭を打ち、一部に砕石を投入するという作業を実施しました。
 11日は、翌日に雨が近づいているということもあって、日が落ちてからもライトで照らしながらの作業となりました。

 じゃかごで擁壁を作るという作業は、皆さん初めて経験する作業だということですが、色々な工夫をしながら進めています。
 例えば、砕石をじゃかごに入れるには砕石を地上から約3メートル下のかごに入れなければなりませんが、その方法として、「滑り台」を使って砕石を滑らせて下に落とすという方法を採用することになりました。コンパネと呼ばれる木製の板を組み合わせて「滑り台」を自作し、これを使って砕石をかごに入れるという方法です。
 この「滑り台」を使って砕石を落としたのですが、石が思い通りに落ちなかったりじゃかごのネットをゆがめたりと予想外の事態も発生しました。その都度、対処方法を考えながら進めているところです。

 9日に今後の作業計画について打ち合わせし、原則として毎週月水金曜日に作業を行うこととしました。
 作業は9日の4名の方を中心に、総代さんや総代さん以外のご門徒さんにもご協力をいただいて進めることとなり、すでに11日、12日にはそれぞれ1名の総代さんにも参加いただきました。
 4名の総代さんには大変なご苦労をおかけし、また他の総代さんやご門徒さんにもお力添えをいただくことになります。今後とも怪我のないように留意して進めていきたいと思いますのでご協力をよろしくお願いします。

(写真左は作業現場、右は「滑り台」と設置されたじゃかごです。)

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369.杉林の法面改修工事

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 一昨年の台風で庫裡横の杉林の法面の一部が崩落しましたが、その改修工事について、必要な資材は購入し作業は自分たちで行いたいと臨時の総代会で提案し承認をいただきました。その後準備を進めてきましたが、今日10月9日から作業にとりかかることとなりました。

 昨日までに、次の工事用の資材の搬入を終えました。
  じゃかご(4メートルもの9個、2メートルもの6個)
  じゃかごに詰める砕石(使用予定の約30㎥の半量)
  じゃかごの背面に敷く透水マット
  じゃかごを固定する松の杭(10本)
 工事に使用するバックホー(ユンボ)と運搬台車(これは総代の岩﨑明さん所有のものを貸していただきます。先日雨の中、運んでいただきました)も搬入していただきました。
 さらに今橋庄二さんからも重機などをお借りすることになっています。

 本日は、総代三役の井上啓志さん、今橋庄二さん、徳田順久さんと岩﨑明さんにおいでいただいて、最初の作業を行い、併せて、今後の工事計画(工事実施日と内容、必要な人員)を確認することとなっております。
 この工事計画ができましたら、改めて総代さんはじめご門徒さんにご協力をお願いしたいと思いますので、ご協力をよろしくお願いいたします。

 このように総代さんはじめ多くの方々にお世話になることになります。怪我のないように安全第一で進めたいと思いますので、よろしくお願いします。

(写真は搬入を終えた工事用の資材と機材です)




368.新聞版「壽福寺だより」を発行しました

20171006誌面  20171006誌面2    


 新聞版「壽福寺だより」の10月号を発行しました。

 内容は次の通りです。

 [1面]

  「秋法座をお勤めしました」

  「ご連絡です」
   ・「お取越し」のご案内

   ・来年のご年忌(法事)のご案内

   ・秋の褒章を受章される方に

   ・山口別院の行事計画

  「報恩講のご案内です」

 [2面]
  「杉林の法(のり)面改修工事にご協力ください」

  「第6期連続研修会が始まります」

  「ご存知ですか(13)『お念仏』」

  「宇部北組の新聞『ご縁だより』創刊」

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367.「平和に関する論点整理」への意見集約

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 9月14日に山口別院で開催されたご消息披露に続く公聴会で、「平和に関する論点整理」について出された意見集約の報告がなされました。以前その内容をこのブログでご報告しましたが、今回はこの「意見集約」の内容についてもう少し見てみたいと思います。
 前回の記事では、この「意見集約」の中では、様々な意見が出されたことと、それも踏まえて、平和を考える場合に必要なこととして「当面の結び」の3項目が提示された、ということだけをご報告していました。

 この出された様々な意見についても、私たちは考えてみなければならないと思いますし、「当面の結び」として提示された事項についても考えてみる必要があるように思いました。
 それと、そのブログの記事についてコメントをいただいていまして、そこで提起されたことについてもご一緒に考えたい、と思い今回取り上げることにしました。
 (コメントをいただきありがとうございました。コメントに気づくのが遅れて申し訳ありませんでした。)

 9月14日の当日「『平和に関する論点整理』をテーマとした公聴会の意見集約」という浄土真宗本願寺派総合研究所が作成された16ページの資料(「宗報」の今年8月号に掲載されたものの抜刷です)が配布されました。その構成は次のようになっています。
 1.「意見集約」について
 2.「論点整理」という手法について
 3.具体的な論点について
 4.議論にならなかった論点
 5.現場に立って、見る、聴くことの重要性
 6.具体的な取り組みの可能性について
 7.当面の結びとして

 この2.「「論点整理」という手法について」の中で出された意見として次のものがあげてありました。
 (1)「戦後問題」検討委員会答申が踏まえられていない
 (2)中立的な立場では「真俗二諦論」になる
 (3)政治的な問題に深入りしすぎている
 (4)しっかりと活用してほしい

 この論議の中にあるのは、具体的な政治問題(たとえば安保法制の問題)に対して、私たちは、あるいは宗門はどのように対応するべきなのかという問題です。
 この「意見集約」にも記されているのですが、この問題に対しては大きく分けて二つの立場があると考えられます。

 その一つは、仏教の基本思想である「不殺生」などを通じて平和を教えの立場からのみ伝えるというあり方です。
 もう一つの立場は、現実の問題に対してその是非を積極的に表明し、具体的に行動するという立場になります。

 それぞれの立場について、次のような問題が想定されます。
 後者の立場に対しては、具体的な問題に踏み込めば踏み込むほど、同じ宗門の中でも構成員の間で意見の違いが表面化してくるという問題が想定されます。特に宗門として行動する場合には、その意思決定の手続きをどのようにとるのかということも含めて、積極的に行動することが適切なのかという問題が当然に生じてきます。
 その点、前者のように、平和の理念を説き、教義の上からそれを伝えることであれば意見の不一致も起こりにくいと考えられます。しかし、そのような姿勢は現実に進みつつある政治情勢に対して、結果としては何もしないこととなり、それを容認することになりはしないか、という重要な指摘があります。

 このように具体的な政治問題に対してどのように対応するのか、という問題は、宗門としても個人としても非常に難しい内容を含んでいて、対応の難しい問題です。
 これからこの問題を考えるに当たって、どのような立場をとるにしても次のような点は忘れてはならないと思います。

 その一つは、先の大戦にあたって宗門として戦争に向かうことを止めることができず、それに協力することになったということ。
 さらに、私たちは、この「戦争と平和」の問題について考える場合に、宗門がどうするのかを問う以前に、私たち自身の問題としてこれらの問題について考えなければならないということ。
 そして、これは「論点整理」の中でも触れられていたのですが、「殺生してはならない」という教えと、現実の世界情勢の中でどのように安全を確保するのかという課題に典型的に表れているように、私たちは常に矛盾の中で生き、判断していかなければならないということ。そのような場合に、安易に一方の立場に身を置くことで、この矛盾は解決したと考えないこと。

 上記の(4)「しっかりと活用してほしい」という意見は、「戦争と平和」の問題を考える際に「論点整理」に取り上げられた論点(様々な立場から提出されている論点があります)について考えて行きたい、ということを言っているのだと思います。

(今回は、「意見集約」の1.と2.の部分について考えてみました。残りの部分についても、引き続き考えていきたいと思います。)
 
(写真は、キツリフネの花です)

 ツリフネソウの仲間で黄色の花を咲かせるところからキツリフネ(黄吊船)と呼ばれます。
 「万倉の大岩郷」から寺へ向かう道の美祢市と宇部市の市境あたりに群生しています。例年、花期の前に草刈りが行われると、その年には花に会えないということで、ここ2,3年は見られなかったのですが、今年は美祢市側の草刈が遅くなって(?)見ることができました。
 船を吊ったような花形がなんとも面白いのです。花店で売られているインパチェンスやホウセンカも同じ仲間です。
 
(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください。) 
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