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366.坊守会の情報です

20170929坊守会   20170929坊守会2 
  9月26日、西念寺さんを会所に宇部北組の坊守会(坊守・寺族婦人会)が開催されました。
 坊守会の活動をこのブログで取り上げるのは今回が初めてなのですが、この会は各寺院の坊守・寺属婦人を会員として組織され、「寺族婦人としての教養と自覚を高め、相互の連絡と親睦を厚くし、以って仏婦運動の振興をはかり寺院機能の充実発揮につくすことを目的」(『山口教区寺族婦人会連盟規約』より)として結成されているものです。

 毎年、別院で開催される研修会に参加し、宇部北組として年に3回程度坊守会を開催し、上記の目的に沿った活動をしています。今回の会合は、平成29年度としては2回目の開催となります。
 (住職は構成員でなく当日も出席しておりませんでしたので、以下は坊守からの情報によります)

 当日は、11名の会員の参加があり、研修と情報交換を行いました。

 当日の研修のテーマは、「救急活動」でした。
 研修の最初に、西念寺さんの坊守さんから救急活動に関する基本的な説明を受けました。
 引き続き、三角巾を使った応急処置とAEDも使用した心臓蘇生術の実地体験を行いました。

 写真にありますように、出席者は真剣に説明を聞き、実修に取り組みました。

 参加者からは、「日頃実際に体験できないことが勉強できてよかった」といった声が聞かれたということです。

 このような救急活動が必要な事態が起こらないことが望ましいのですが、いざというときに落ち着いて対応できるように経験を積んでおくことは大切なことだと思います。

(写真は研修の様子です)

 左は、西念寺さんの坊守さんから説明を受けているところ、右は心臓蘇生の実修の様子です。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください。) 
 
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365.『阿弥陀経』を読む(40)

20170925ハマボウ   20170925ハマボウ2

[御文] 又舍利弗・彼仏寿命・及其人民・無量無辺・阿僧祇劫・故名阿弥陀・舍利弗・阿弥陀仏・成仏已来・於今十劫
     (うしゃりほツ・ひぶツじゅみょう・ぎゅうごにんみん・むりょうむへん・あそうぎこう・こみょうあみだ・しゃりほツ・あみだぶツ・じょうぶツいらい・おこんじっこう)

[訓読] また舎利弗、かの仏の寿命およびその人民[の寿命]も無量無辺なり。ゆゑに阿弥陀と名づく。舎利弗、阿弥陀仏は成仏よりこのかたいまに十劫なり。

[訳文] また舎利弗よ、その仏の寿命とその国の人々の寿命もともに限りがなく、実にはかり知れないほど長い。それで阿弥陀仏と申しあげるのである。舎利弗よ、この阿弥陀仏が仏になられてから、今日まですでに十劫という長い時が過ぎている。

 お釈迦さまは、阿弥陀さまのお名前の由来を説かれ、前回「無量の光明」をもって私たちを照らしていただいていると説かれました。今回は、「無量の寿命」すなわち数をもってはかりしれないほど長い寿命を持っておられ、それゆえに阿弥陀と呼ばれるのだと説かれます。
 これは、阿弥陀仏の四十八願のうち寿命無量を誓われた第十三願が成就された姿だと伺いました。第十三願は次のように記されています。「わたしが仏になるとき、寿命に限りがあって、はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。」

 お釈迦さまは、阿弥陀さまがこの願を成就されてから、十劫という長いときが過ぎておられると説かれます。そして、その寿命は無量にして無辺、「阿僧祇劫」だとされます。この阿僧祇は、数の単位、気が遠くなりそうに大きな数の単位なのだそうです。 私たちが日常に目にする数の単位は、大きくて兆(10の12乗)くらいでしょうか。この阿僧祇は10の64乗ということですからこれはもう、想像もつかない大きな数です。辻本敬順氏の『阿弥陀経のことばたち』には「無量大数」(10の88乗)という単位まであるのだと紹介されていました。

 阿弥陀さまの寿命は、劫という長い時間の阿僧祇倍ということになりますから、更に想像を絶する長さということになります。以前にも記した記憶がありますが、このような大きな数というのは私たちの認識ではとらえることのできない次元が違ったものだということを表していると、理解するべきだろうと思います。

 さらにお釈迦さまは、阿弥陀さまの国の人々、菩薩方やお弟子さんの寿命も同じく、「無量無辺・阿僧祇劫」だと言われます。  
 これは、四十八願のうちの第十五願「わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の寿命には限りがないでしょう。ただし、願によってその長さを自由にしたいものは、その限りではありません。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません」という願(眷属長寿の願)が成就した姿だと伺いました。

 このように、阿弥陀さまのお救いの光は、十方余すところもなく、また遠い過去から未来永劫にわたって私たちを照らし、私たちを煩悩の苦しみから救っていただいているのだと、お釈迦さまはお伝えいただきました。

 親鸞聖人はご和讃に次のように記されています。このご和讃は、日常お正信偈に続いて拝読する6首のご和讃の最初のもので、私たちには非常に親しく感じられるものです。
 「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり 法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり」
 (阿弥陀仏は、仏となってからすでに十劫の時を経ておられる。さとりの身から放たれる光はどこまでも果てしなく、迷いの闇にいるものを照らすのである)
 聖人はこの1首で、阿弥陀さまは遠い過去から未来に向けてその命は途絶えることなく、その光明は十方さえぎられることなく私たちを照らしいただいていると、お伝えいただいています。

 (前回の記事で漏れていましたが、「無量の光明」は四十八願のうちの第十二願(光明無量の願)が成就されたことによると伺いました。追加させていただきます。第十二願は次の通りです。
  「わたしが仏になるとき、光明に限りがあって、数限りない仏がたの国々を照らさないようなら、わたしは決してさとりを開きません」)

(写真は、ハマボウの花です)

 このハマボウも(またまた)フヨウ属の植物で、塩分の強い土壌でも生育できる植物だということです。
 JR山陽線の有帆川にかかる鉄橋近くにこの群生がありました。生育環境が失われ自生しているものが減ってきているところも多いようで、山口県でも絶滅危惧種に指定されているということです。

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364.『阿弥陀経』を読む(39)

20170922ハイビスカス2   20170922ハイビスカス   20170922フウリンブッソウゲ

[御文] 舍利弗・彼仏光明無量・照十方国・無所障礙・是故号為阿弥陀 
    (しゃりほツ・ひぶツこうみょうむりょう・しょうじっぽうこく・むしょしょうげ・ぜこごういあみだ)

[訓読] 舎利弗、かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障礙(しょうげ)するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす。

[訳文] 舎利弗よ、その仏の光明には限りがなく、すべての国々を照らして何ものにもさまたげられることがない。それで阿弥陀と申しあげるのである。

 お釈迦さまは、ここから阿弥陀仏という名前の由来を説かれます。

 サンスクリット語では「ア」は否定を、「ミタ」は「量る」ということを表し「アミタ」は「量ることができない:無量」という意味となり、「アミターバ」が「無量の光」、「アミタユース」が「無量の命」を表すのだと教わりました。お釈迦さまは、この「無量の光」と「無量の命」を備えた仏を阿弥陀仏とお呼びするのだと説かれます。

 お釈迦さまは、その無量の光について、その光は限りがなく、すべての国々を照らしてさえぎるものもないと説かれます。
 お正信偈の中に阿弥陀さまの働きを十二の光明で表した「十二光」がありました。その最初の3つが無量光(量る知ることのできない光)、無辺光(辺際なく照らす光)、無礙光(さえぎられることのない光)でした。
 阿弥陀さまの光は、私たちがどこにいようとも、私たちがそのことを意識していないときでも、いつでも私たちを照らしていただき、私たちは見守られ、育てられています。
 瓜生津隆真氏は『聖典セミナー 阿弥陀経』で「私たちの心の闇を照破し、私たちの心を豊かに育てる光によって、私たちは迷いの世界から悟りの世界へ、欲望や愚かさにみちた凡夫の世界から、智慧と慈悲とが欠けることなく完成している仏の世界へいたることができるのです」と記されています。

 善導大師は、『往生礼賛』の中で、阿弥陀さまの光明について、次のように説かれていると学びました。
 「かの仏の光明は無量にして十方国を照らすに障礙するところなし。ただ、念仏の衆生を観そなはして、摂取して捨てたまはざるがゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる」(『注釈版聖典七祖徧』P662)

 親鸞聖人は、この言葉を受けられて和讃をおつくりになりました。
 「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」
 このご和讃は、『宗祖讃仰作法(音楽法要)』にも取り入れらていて、大変に印象に残るご和讃です。
 親鸞聖人は、このご和讃の「摂取」という語に次のような左訓(注釈)を付しておられます。(本願寺出版社刊『三帖和讃(現代語版)』による。原文はカタカナです)
 「おさめとる ひとたびとりてながくすてぬなり せふはものヽにぐるをおわえとるなり せふはおさめとる しゅはむかえとる」
 聖人はこのご和讃で、阿弥陀さまの光明は、私たちを見守りお育ていただき、煩悩に苛まれている私たちを救いとっていただき、私たちが逃げようとしても決して逃すことなく、ひとたび救いとられたら永久に捨てられない、そのような光明なのだと讃嘆されています。
 
(写真は、ハイビスカスの花です。)

 花の写真では前回がムクゲ、その少し前にフヨウと、アオイ科フヨウ属に分類される花が2回登場しましたが、このハイビスカスも同じ仲間です。
 フヨウ属の属名(学名)がHibisucusですからハイビスカスは文字度通り「本家筋」に当たるということになりましょうか。

 和名はブッソウゲ(仏桑華)です。原産地(?)の中国で「扶桑」と呼ばれていたものが日本に渡来して、仏前に供えることもあって「仏桑華」となったのだそうです。
 右の花はフウリンブッソウゲ(風鈴仏桑華)と呼ばれる近縁種です。花弁に深い切り込みが入り、下向きに咲きます。

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363.ご消息披露式典および公聴会が開催されました

IMG_2852 (2)  IMG_2857 (2)

 9月14日、山口別院で「伝灯奉告法要御満座のご消息披露式典」および「山口教区公聴会」が開催され、住職が出席してきました。

 第一部の「ご消息披露式典」では、去る5月31日に伝灯奉告法要がご満座を迎えるに当たって専如ご門主が発せられたご消息の披露と伝達が行われました。
 宗派の池田行信総務よりご消息が披露され、木下山口教区教務所長に伝達されました。その後、特命布教講師の深水健司氏より特命布教が行われました。

 ご門主は、昨年10月の伝灯奉告法要の最初の日に行われたご親教「念仏者の生き方」の中で、現在の世界に山積している様々の課題は私たちの無明煩悩にその原因があると指摘され、このように我欲に執われた私たちは、仏法を依どころとして生きていくことで、仏さまのような執われのない完全に清らかな行いはできないまでも、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯努力させていただく人間になろう、と呼びかけられました。

 今回のご消息でご門主は、自己中心にものを考える私たちも、ご本願に出遭うことによってその大きな力に包まれているという安心感をいただき、社会のために活動する力を受けることができると示されました。「凡夫の身であることを忘れた傲慢な思いが誤っているのは当然ですが、凡夫だから何もできないという無気力な姿勢も、親鸞聖人のみ教えと葉異なるものです。」とされ、即如前ご門主が親鸞聖人750回大遠忌のご満座でのべられた、「凡夫の身でなすことは不十分不完全であると自覚しつつ、それでも『世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ』と、精一杯努力させていただきましょう」という言葉を引かれて、念仏者としての生き方をお示しいただいています。

 このように、即如前ご門主が示された道が、専如ご門主の法灯継承を経て私たちに伝えていただいていることを、改めて確認させていただく思いがしました。

 第2部の公聴会では、最初に総合研究所副所長の藤丸智雄氏より「『念仏者の生き方』に学ぶ」という講話をいただきました。
 藤丸氏は、一昨年末に別院で持たれた公開講座「寺院と公共性」のご講師としてお話しいただいた方で、今回は「念仏者の生き方」とこのたびのご消息について内容を整理してお話をいただきました。

 次いで、次の報告事項の説明がありました。
 ○伝灯奉告法要について
  法要の様子を撮影したDVDが紹介され、宗元昌延所務部部長より、期間を通じて、80座の法要への参拝者総数は15万4千人、本願寺への総来山者は45万5千人にのぼったという報告がありました。来山者のうちこれまでご縁の薄かった方々へのこれからの働きかけも重要だというお話しもありました。

 ○「平和に関する論点整理」についての公聴会の意見集約
  藤丸氏より、以前ご一緒に学びました「平和に関する論点整理」に関する公聴会で出された意見の紹介があり、出席者と意見交換がなされました。
  説明をお聞きしていていますと、例えば論点整理そのものについても「政治的な問題に深入りしすぎでいるのではないか」という意見がある一方「中立的な立場では何もしないのと同じ」と具体的な行動が必要とする意見もあり、一つの問題についてその内容を検討する以前に、どのように取り組むのか、というところでも様々な考え方があるということを感じました。
 そのような中で、平和や戦争、近隣諸国との緊張関係などについて多様な意見が出されたことが紹介されました。
 
 それらを踏まえて、「平和」を考える場合に必要なこととして、次の3つ項目が「当面の結び」として提起されました。
 ・平和創造の基礎づくりとして国の内外に仏教の意義をつたえること
 ・「平和の定義」を「宗制」前文の視点から見直すこと
 ・多様な平和貢献活動の中から念仏者にふさわしい活動について検討し進めること
 この3番目の項目については、「合掌のすすめ」など具体的な項目について検討が始まっているという紹介もありました。今後、具体化されるものと思います。

 2年前の公開講座「寺院と公共性」の質疑の中で、出席者から出された「安保法制に対する宗門の考え方」を問う質問に対して、藤丸氏が「この論点整理を通じて、宗門の一人ひとりが平和や戦争の問題を自分の問題として考えてもらいたい」と言っておられたことを思い出しました。
 私たち自身が平和や戦争といった具体的な問題について、自分自身の問題として考えることが、気づかないうちに「Point of Return(引き返すことができないポイント)」を超えてしまうことを防ぐものでもあるとの想いを新たにしました。

(左の写真は「ご消息」を披露される田中総務、右は質問に答えられる弘中貴之副総務です)

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362.『阿弥陀経』を読む(38)

20170915ムクゲ    20170915ムクゲ2

[御文] 舍利弗・於汝意云何・彼仏何故・号阿弥陀 (しゃりほツ・おにょいうんが・ひぶツがこ・ごうあみだ)

[訓読] 舎利弗、なんぢが意(こころ)においていかん。かの仏をなんがゆゑぞ阿弥陀と号する。

[訳文] 舎利弗よ、そなたはどう思うか。なぜその仏を阿弥陀と申しあげるのだろうか。

 これまで、お釈迦さまはお浄土が極楽と呼ばれる所以とその荘厳(すがた)を説いてこれられましたが、今回以降は阿弥陀さまについて説いていかれます。

 お釈迦さまは、まず舎利弗さんに「なぜその仏を阿弥陀と申しあげるのだろうか」と問いかけられます。

 そして、これは次回以降になりますが、お釈迦さまは舎利弗さんの答えを待たずにその理由を説き起こされます。
 以前学びましたように、お釈迦さまは、極楽浄土について説かれるにときも、「彼土何故・名為極楽(かの土をなんがゆゑぞ名づけて極楽とする。)」とご自身で問いを発せられて、その後ただちにそれに答える形でお話しを進められました。

 そのようなことから、この『阿弥陀経』を「無問自説」(他からの問いに答えるのではなく、自ら進んで説かれる)の経とお呼びます。そのようなことから、このお経はお釈迦さまが一番私たちに伝えられたかったことだという意味で、お釈迦さまの「出世本懐」が説かれたお経だとお受けしています。
 そして、「舎利弗よ、舎利弗よ」と何度も何度も呼びかけられていますが、それは私たちに「分かってくれよ」と呼びかけ続けておられることなのだと、改めて受け止めたいと思います。

 『阿弥陀経』は、前回と今回の間で一区切りとなります。
 ご法事などで『阿弥陀経』をお読みする場合は、前回の最後の部分は「次第にゆっくり」と読まれ、その後、鐘を3回打って、今回の「舎利弗・・・」以下の部分に入ります。

 少し脇道にそれますが、ご法事で『阿弥陀経』をお読みする前に、お経の内容にも興味をもっていただきたいと、このお経について少し話をするようにしています。
 その際に、お経から迷子になったとき(どこを読んでいるのか分からなくなったとき)には、この区切りのところで待っていてください、とお話しすることがあります。区切りで鐘が鳴ってみんなと合流できますよ、と、ちょっと肩の力を抜いていただけるかもしれません。(ちなみにもう一か所の待合わせ場所は、後の「若一日、若二日・・・」のところです。)

(写真は、ムクゲの花です。)

 以前に芙蓉(酔芙蓉)の花を載せましたが、ムクゲも同じアオイ科フヨウ属の植物で、やはり夏季に白あるいはピンクの花を咲かせます。ガクの中心部分が赤くなっているものが多いようです。ムクゲ(槿)はお隣の韓国を代表する花とされていますが、インドや中国が原産地だそうです。

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361.『阿弥陀経』を読む(37)

20170911パイプオルガン   20170911パイプオルガン2

[御文] 譬如百千種楽・同時倶作・聞是音者・皆自然生・念仏念法・念僧之心・舍利弗・其仏国土・成就如是・功德荘厳
    (ひにょひゃくせんじゅがく・どうじくさ・もんぜおんしゃ・かいじねんじょう・ねんぶツねんぽう・ねんそうししん・しゃりほツ・ごぶツこっくど・じょうじゅにょぜ・くどくしょうごん)

[訓読] たとへば百千種の楽(がく)を同時にともになすがごとし。この音(こえ)を聞くもの、みな自然(じねん)に仏を念じ、法を念じ、僧を念ずるの心を生(しょう)ず。舎利弗、その仏国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。

[訳文] それは百千種もの楽器が同時に奏でられているようであり、その音色を聞くものは、だれでもおのずから仏を念じ、法を念じ、僧を念じる心を起こすのである。 舎利弗よ、阿弥陀仏の国はこのようなうるわしいすがたをそなえているのである。

 お釈迦さまは、前回、お浄土の「そよ風」が宝の並木や宝の網飾りを揺らして美しい音楽となるのだと、説かれました。今回お釈迦さまは、その音は、たくさんの楽器が同時に奏でられているようであって、その音色を聞くものは、おのずから仏法僧の三宝を念じる心を起こすのだと説かれます。
 「そよ風」が起す音楽ですから、美しく繊細な音のような印象を持ってしまいますが、たくさんの種類の楽器が同時に奏でられていてなおかつ調和のある音、ですから、これは身体を包み込むような圧倒的な音楽のように思われます。それゆえに、この音はそこにいる人々の身体を揺り動かし、心に響きわたり、仏法僧の三宝を念じるようにはたらきます。

 もう10年以上前になるのですが、築地本願寺で仏前結婚に出席したことがあります。その時に築地本願寺のパイプオルガンの音を初めて聴きました。
 パイプオルガンの多様な音色、建物全体が楽器であるかのように圧倒するようでいながら調和の取れた音、そのただ中に私たちがいるという感覚を持ったことを思いだしました。お浄土の音楽というのはこのようなものなのでしょうか。

 『阿弥陀経』は今回の場所で、一区切りとなります。

 これまでの部分で、お釈迦さまは、阿弥陀さまのおられるお浄土のすばらしさを、宝樹、宝池、天楽・金地・天華そして化鳥・微風の荘厳として、目に見え、耳に聞こえるようにお説きいただきました。そしてそのことを通じて、私たちにお浄土のことを思い、お浄土に生れることを願うようにとお示しいただきました。

(写真は、築地本願寺のパイプオルガンです。)

 以前に自身で撮った写真があったのですが、行方不明で、やむを得ずネットからお借りしました。
 パイプオルガンは、本堂の中央入り口の左右の上部に置かれています。1970年に寄贈されて設置されたとお聞きしました。
 毎月最終金曜日の12:20から「ランチタイムコンサート」という演奏会が開かれ、平日にもかかわらず、多くの方が聴きにこられるということです。

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360.『阿弥陀経』を読む(36)

20170908カワラナデシコ (2)   20170908カワラナデシコ (1)

[御文] 舍利弗・彼仏国土・微風吹動・ 諸宝行樹・及宝羅網・出微妙音
     (しゃりほツ・ひぶツこくど・みふすいどう・しょほうごうじゅ・ぎゅうほうらもう・すいみみょうおん)

[訓読] 舎利弗、かの仏国土には、微風(みふう)吹きて、もろもろの宝行樹(ほうごうじゅ)および宝羅網(ほうらもう)を動かすに、微妙(みみょう)の音(こえ)を出(いだ)す。

[訳文] 舎利弗よ、またその仏の国では宝の並木や宝の網飾りがそよ風に揺れ、美しい音楽が流れている。

 今回お釈迦さまは、お浄土にはそよ風があって、宝の並木や宝の網飾りを揺らし、美しい音楽が流れている、と説かれます。前回までは、六種の鳥がその美しい声で教えを述べていると、「化鳥の荘厳」について説かれていましたが、今回はそよ風が鳴らす妙なる音楽、「微風の荘厳」についてお話しされます。

 そのそよ風は、並木(以前学びましたように七重の並木です)に網飾り(これも七重でした)がかかっているところを吹きわたり、妙なる音を出します。そしてその音は、鳥の鳴き声がそうであったように、阿弥陀如来の教えを説く音(法音)だとお示しいただきます。

 先に、お浄土の荘厳として「宝樹の荘厳」と「宝池の荘厳」について学びましたが、瓜生津師は、今回の「微風」の法音はその「宝樹の荘厳」に具わるすぐれた徳であり、前回の「化鳥」の法音は「宝池の荘厳」のすぐれた徳だとされています。
 「化鳥」の法音と「宝池の荘厳」の関係は少し分かりにくいのですが、師は、『観無量寿経』の中の「宝池観」を説く部分で、宝池から発せられる光明が化して鳥となり、その妙なる声が三宝を念じることをほめたたえているところから、これらの鳥は白鵠孔雀以下のお浄土の鳥だとされています。
 
 以前にご紹介しました『訳せない日本語』という本に取り上げられていました、「微妙(びみょう、みみょう)」という言葉がもう一度出てきました。訳文では「美しい」と訳されていますが、「なんともいえない味わいや美しさがあって、おもむき深いこと」という言葉を思い浮かべながらこの部分を読ませていただきました。
 (調べてみましたら、『阿弥陀経』に「微妙」が登場するのは前回の「微妙香潔」と今回の2回でした。)

(写真は、カワラナデシコの花です)

 ナデシコ(カワラナデシコ)は秋の七草のひとつで、秋吉台では7月の終わりにはもう咲いていました。
 ナデシコの花を見ると、自然の造形の不思議さを感じます。細かい花弁のつくりなど、どのようにしてこのような形が作られたのだろうか、と、まさに「微妙(みみょう)」そのものです。

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359.秋の法座をお勤めしました

20170904秋法座集合写真

 昨日、9月3日に秋の法座をお勤めしました。

 数日前から朝夕は涼しさを感じるようになっておりましたが、当日も爽やかな天候に恵まれて、ご講師のお話しをお聞きするよい時間を持つことができました。

 ご講師には、大津東組 清福寺 林正文師をお迎えしました。
 ご講師は奈良の国立博物館で9月3日まで、源信和尚の1000年忌を記念して開催されていた特別展「源信 地獄・極楽への扉」を取り上げてお話をいただきました。
 私たちはこの世での行為の結果として、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天という迷いの世界(六道)を経めぐり、そこから逃れることができないとされています。源信和尚は、その六道の悲惨なありさまと極楽浄土のすばらしさを記されて、私たちがお念仏によって浄土に救われる道を示されました。
 私たちは、日常生活している中でも十悪(殺生から始まる身口意の悪業)を犯さざるを得ない存在であり、そのような私たちが救われる道は、阿弥陀如来のお救いにおすがりするほかないのだと、ご講師はお示しいただきました。

 私たちが救われることを願うからそれが可能になるのではなく、阿弥陀如来の方から私たち一人一人を救いたいと願われているのです、というご講師の言葉が印象にのこりました。

 お斎の後に勉強会を開催し、13名の方とお正信偈の「善導讃」の部分を学ぶことができました。

 今回も、仏教婦人会の皆さんにはお斎の準備から給仕、後片付けまで大変お世話になりました。厚くお礼申し上げます。

(写真は恒例の集合写真です。)

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358.法中会のご報告です

20170901フヨウ   20170901フヨウ2

 8月30日、小野の宝林寺さんを会所に、今年度第2回目の法中会が開催されました。
 『讃佛偈』のお勤めの後、次の議題について討議、確認を行いました。

1.「御同朋の社会をめざす運動」(実践運動)関連の研修会
 次の要領で開催することとなりました。
 ・開催日時 10月26日(午前中:人権啓発推進僧侶研修会、午後:推進協議会)
 ・会所   西念寺さん
 ・研修テーマ 
  僧侶研修会 「災害時における人権侵害等について」
  推進協議会 「『念仏者の生き方』とは?」
 いずれも、宗務所派遣のご講師からお話しをいただき、参加者の話し合いを含めて研修を行います

2.宇部北組ホームページの運用
 現在のホームページを引き続き運用することとし、各行事についてはその担当者が記事の原稿を作成してホームページ担当者に送り掲載してもらうという運用を行います。

3.組報(宇部北組の新聞)
 次の要領により発行することになりました
 ・名称 「ご縁だより」
 ・発行頻度、時期 年に1~2回とし、お盆やお取越しなどに合わせて配布します
 ・内容 組内各寺の紹介、各寺の法座予定、法話、『本願寺新報』の転載記事など。第1回目には、各寺の報恩講の予定も掲載します

4.宇部北組花まつり
 来年4月に「アクトビリッジおの」を会場にして計画することになりました。それに伴い、今年度一緒に開催した仏教婦人会連盟の大会は、6月に実施することとなりました

5.第6回連続研修会
 概略次の内容で実施することとし、今後詳細をつめることとなりました。
 ・開催時期 2018年2月より12回
 ・開催時間帯 毎月(1、8月を除く)第二土曜日の午後

(写真は、フヨウです)

 白い花が夕刻に向けて徐々に赤くなるスイフヨウ(酔芙蓉)という種ではないかと思います。花期も終わりに近づいていますが、寺から道を下りたところで咲いていました。暑い夏にホッと一息つかせてくれる花です。
 
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