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349.『阿弥陀経』を読む(31)

20170731六鳥3

[御文] 復次舍利弗・彼国常有・種種奇妙・雜色之鳥・白鵠孔雀・鸚鵡舍利・迦陵頻伽・共命之鳥
     (ぶししゃりほツ・ひこくじょうう・しゅじゅきみょう・ざっしきしちょう・びゃっこうくじゃく・おうむしゃり・かりょうびんが・ぐみょうしちょう)

[訓読] また次に舎利弗、かの国にはつねに種々奇妙なる雑色の鳥あり。白鵠・孔雀・鸚鵡・舍利・迦陵頻伽・共命の鳥なり。

[訳文] また次に舎利弗よ、その国にはいつも白鵠・孔雀・鸚鵡・舍利・迦陵頻伽・共命鳥などの色とりどりの美しい鳥がいる。

 お釈迦さまは引き続きお浄土の素晴らしさを説かれます。今回は四種の荘厳のうちの最後の「化鳥(けちょう)・微風(みふう)の荘厳」と呼ばれる部分です。
 お釈迦さまは、お浄土にはいつも6種の色とりどりの美しい鳥がいると説かれます。その鳥は、白鵠・孔雀・鸚鵡・舍利・迦陵頻伽・共命鳥の6種です。

 これらのうち、孔雀・鸚鵡は私たちにも親しい鳥です。
 ご門徒さんのお宅で『阿弥陀経』のお勤めをするに先立って、このお経についてお話しをするようにしていますが、その中で、「孔雀と鸚鵡が出てきますので、どこに出てくるか注意しながらご一緒に読んでみてください・・」というようなお話をするようにしています。お経の内容について少しでも興味を持っていただければ、と思っています。

 白鵠(びゃっこう)は「鶴の一種。白鳥または天鵞(てんが)ともいう」とされていて、空高くを飛ぶ優雅な鳥のようです。お経によってはこの鳥を「白鳥」と記したものもあるということです。
 孔雀(くじゃく)は美しい羽を持った鳥ですが、猛毒を持つ蛇も退治する力を持っているということで、この鳥には諸毒を除く力も意識されていると、辻本敬順氏は述べられています。
 鸚鵡(おうむ)はご存知の通り、物まねが巧みな鳥です。仏典にもよく登場する鳥だそうで、お念仏を称えたり、お経を誦読したりするものもあるということです。
 舍利(しゃり)という鳥は、九官鳥の一種で、この鳥も人間の言葉を暗唱できる利口な鳥だということです。この『阿弥陀経』の中で、お釈迦さまが何回も呼びかけられる舎利弗さんの名前にも同じ「舎利」が使われています。辻本敬順氏は、「舎利弗(サーリープッタ)」は「サーリーの子」という意味で、サーリーという舎利弗さんの母の名前は、母の眼がこの舎利鳥の眼に似ていたところからつけられたという逸話を紹介されていました。
 迦陵頻伽(かりょうびんが)以下の2種の鳥は、想像上の鳥なのだそうです。
 まず迦陵頻伽は、『浄土真宗辞典』によりますと、「殻の中にいる時、すでによく鳴き、きわめて美しい声を出すという鳥の名」とされていて、澄みきったさわやかな声、人の心をやわらげる美しい声で、その声を聞く人は飽きることがないという鳥です。
 共命鳥(ぐみょうちょう)は『浄土真宗辞典』では、「人面禽形(じんめんきんぎょう:体は鳥で顔は人)で一身に両顔を有する鳥で、極めて美しい声をだすという」とされています。一羽の鳥で2つの頭を持つのですが、この鳥については、両方の頭が互いに争うという話が伝わっています。一方が他方に毒を与えて殺すのですが、その結果、食べさせた方も死んでしまいます。そのようなことから、お浄土のこの鳥は「他を滅ぼす道は己を滅ぼす道。他を生かす道こそ己の生かされる道」と鳴き続けているのだそうです。また、私たちの中にある矛盾した心を表すものだともされています。

 この六鳥も原典によっては3種の鳥だったり、あるいは10種に増えていたりと、その数には変化があるようです。瓜生津師は鳥の名の数にとらわれるのではなく、「浄土には無数の鳥がいて、それらの鳥がみな「和解(わげ)の音(こえ)を発して法を説きのべているとみるべきでしょう」と記されておられます。

(写真は、寺の本堂の六鳥の像です。)

 ご本尊の前卓(まえじょく)の前面を飾っています。
 確かに6羽の鳥が描かれているのですが、一番左は孔雀、その右が鶴のように見え、「白鵠・孔雀・・・」のお経の順番とは違った並びになっていることに気づきました。右端の鳥は2つの頭を持っていますのでこれは共命鳥に間違いないようですが、4番目の優雅な姿の鳥が迦陵頻伽のようにも見えます。これまで「確かに6羽の鳥だ」とまでは見ていたのですが、その並び方について見たのは今回が初めてでした。
 ですが、瓜生津師の言われる通りで、お浄土で多くの鳥が揃って仏法を説いてい姿だと拝見することにしましょう。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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348.ご紹介します(15):「『念仏者の生き方』に学ぶ」

20170728冊子    20170728冊子2

 「『念仏者の生き方』に学ぶ」というタイトルの冊子をいただきました。

 この冊子は、浄土真宗本願寺派総合研究所が編集されたものです。
 専如ご門主は、昨年10月1日の伝灯奉告法要の最初の日に「念仏者の生き方」について直接お話し(「ご親教」とお呼びしています)になりましたが、そのご親教(全文はこちらをご参照ください)について学ぶ内容になっています。

 ご門主は最初に、お釈迦さまは、この世界とその中の私たちの姿を、「諸行無常」と「縁起」ということばで表されたとお話しになられました。私たち自身も含めて、あらゆるものは一瞬もとどまることなく変化し続け、また互いに関わり合って存在しているのですが、私たちはこのことに気づかず、あたかも不変の自分があるかのように思い込み、その自分に固執し、その自分を中心として物事を考えてしまいます。
 自分を中心として物事を考える私たちは、「むさぼり、いかり、おろかさ」という3つの代表的な煩悩にとらえられ、それから逃れることができず、それが私たちの迷いや苦しみの原因となっています。

 親鸞聖人は、自分の力ではこうした煩悩から逃れることができずにいる私たちに阿弥陀如来のお救いの力、ご本願をお示しいただきました。阿弥陀如来は、煩悩に悩み苦しむ私たちを、そのままで救う、何があっても見放しはしないと願われているのだと、聖人は教えていただきました。
 しかし、私たちは、このように阿弥陀如来のお救いの光の中にあるのですが、私たち自身の煩悩によりそのことを感じることができず、それにお任せすることができず、それを喜べない状態にとどまっています。

 ご門主は、それでも、私たちは阿弥陀如来のご本願をお聞きすることにより、自分中心にしか生きることのできない私たち自身の姿に気づくことができるのだとされ、そして、例えば欲を少なくして足るを知る「小欲知足」、他者に対して思いやりをもって接する「和言愛語」という生き方によって、少しずつでも私たちの煩悩を克服する方向に歩を進めることができると示されます。

 現在の世界には、武力紛争や経済格差、地球温暖化、核物質の拡散など多くの課題が山積していますが、ご門主はこれらの問題の根本的な原因にも、自分中心にものを考える私たちの「むさぼり、いかり、おろかさ」という煩悩があるのだと示されます。これらの大きな課題に対しても、私たちが私たち自身の煩悩について思い至り、少しでもそれを克服しようとする努力が大きな力になるのだと、説かれます。

 そして、ご門主は、「私たちはこの命を終える瞬間まで、我欲に執(とら)われた煩悩具足の愚かな存在であり、仏さまのような執われのない完全に清らかな行いはできません。しかし、それでも仏法を依(よ)りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯努力させていただく人間になるのです。」と、念仏者としての私たちの生き方を示されます。

 ご門主は、5月31日の伝灯奉告法要ご満座の後の消息(全文はこちらをご参照ください)の中でも、即如前ご門主の「凡夫の身でなすことは不十分不完全であると自覚しつつ、それでも「世のなか安穏なれ、 仏法ひろまれ」と、精一杯努力させていただきましょう。」というお言葉を引かれて、「凡夫だから何もできないという無気力な姿勢も、親鸞聖人のみ教えとは異なるものです。」と少しずつでも努力を続けることの大切さを説かれています。  
 
 このように、ご門主は私たちの煩悩の原因を示され、それが現在社会の大きな課題の原因にもなっていることを示されました。その煩悩を克服することは極めて困難なことなのですが、ご門主は、それでも阿弥陀如来のご本願を聞くことによって、私たちが自身の煩悩に気づき、少しずつでもそれを克服しようと努力することの大切さをお示しいただきました。

 また、ご一緒に「念仏者の生き方」について学びたいと思います。

(写真は、「『念仏者の生き方』に学ぶ」の冊子です)
 
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347.『阿弥陀経』を読む(30)

20170724ハマユウ  20170724ハマユウ2

[御文] 即以食時・還到本國・飯食経行・舍利弗・ 極楽国土・成就如是・功德荘厳
    (そくいじきじ・げんとうほんごく・ぼんじききょうぎょう)

[訓読] すなはち食時(じきじ)をもつて本国に還(かえ)り到りて、飯食(ぼんじき)し経行(きょうぎょう)す。

[訳文] そして食事の時までには帰ってきて、食事をとってからしばらくの間はそのあたりを静かに歩き、身と心をととのえる。

 (「舍利弗・ 極楽国土・成就如是・功德荘厳」の部分は、339.『阿弥陀経』を読む(26)と同じ御文ですので省略します。)

 前回お釈迦さまは、お浄土の菩薩方は花を盛った器を捧げ持ち多くの仏方を供養されると説かれましたが、菩薩方はそののちに食事をとられてしばらくはそのあたりを静かに歩まれるのだと説かれます。

 この「飯食」というのは食事のことで、「食時」は食事をする時ということになります。
 当時のお釈迦さまの仏教教団では、200を超えるたくさんの戒律が定められていたと学びました。その戒律の中に「不非時食戒(ふひじじきかい)」というさだめがあったのだそうで、これは、「ときならぬ時」に食事をしてはならないということです。その「ときならぬ時」というのは正午から翌日の暁までのことだとお聞きしましたので、当時のお釈迦さまの教団では食事は午前中に限られいてということになります。本日の御文はそのお釈迦さまの教団の姿を表したものになります。

 「経行」は『浄土真宗辞典』によりますと、「心身を整えるために、一定の場所を静かにめぐり回ること」とされています。辻本師の『阿弥陀経のことばたち』によりますと、「一定の距離を直線的にゆっくり反復往来するのだそうで、織物の経(縦糸)のように往来するから、「経行」というのだという説もある」とされています。
 食事の後に、菩薩方がゆっくりと思索しながら静かに歩んでおられる姿が思い浮かべられる部分です。

 前回と今回で、お釈迦さまはお浄土の菩薩方の姿を描かれることにより、お浄土の静かで穏やかな情景を私たちにお示しいただいています。

(写真は、角島のハマユウの花です。)

 7月20日に近くに行く用件があり足を伸ばしてきました。ハマユウは下関市の「市の花」に指定されています。

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346.「御同朋の社会をめざす運動」委員会が開催されました

20170721ヤマモモs   20170721ヤマモモ2s

 7月19日、萬福寺さんを会所に、宇部北組の「御同朋(おんどうぼう)の社会をめざす運動」委員会が開催されました。

 この「御同朋の社会をめざす運動」は、「あらゆる人々に阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝え、もって自他共に心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献する」(『宗制』)ものとして宗門を挙げて取り組まれている活動で、宇部北組委員会は、組として各教化団体間の調整を行い活動を検討、推進する組織です。

 当日は、市川組長、副組長、教区会議員および、総代会、仏教壮年会、仏教婦人会、子供会、連続研修会、坊守会、若僧会の各教化団体の会長および事務局のメンバーが出席し、今年度以降の活動方針について討議を行いました。

 その結果、今後各教化団体は次の方針のもと、具体的な活動を企画、実施することとなりました。

 ○人権啓発推進僧侶研修会、推進協議会
  昨年度同様に今年度も10月の同日の午前、午後に開催することとなりました。
 ○子供会
  今年度は婦人会と同日に開催しましたが、来年度は子供会単独で4月に「アクトビリッジおの」を会場として開催し、地域の行事となるように進めようということになりました。
 ○婦人会
  これに伴い、来年度の婦人会の大会は教区の仏教婦人会連盟の単位会会長会議の後に開催することで検討することになりました。
 ○広報班
  今年のお取越しに合わせて組報を配布することで進めることになりました。
 ○連続研修
  今年度、第6期を開催することで検討を進めることとなりました。

(写真は10日ほど前のものですが、ヤマモモです。)

 寺の駐車場から境内に行く途中に木があります。今年は例年に比べてたくさんの実をつけたように感じられました。
 子供のころにはよく食べたものですが、最近は余り口にしなくなりました。下を通る時に2,3個かじってみたのですが、懐かしい味を思い出しました。

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345.『阿弥陀経』を読む(29)

20170717華篭  20170717華葩

[御文] 其国衆生・常以清旦・各以衣裓・盛衆妙華・供養他方・十万億仏
    (ごこくしゅじょう・じょういしょうたん・かくいえこく・じょうしゅみょうけ・くようたほう・じゅうまんのくぶツ)

[訓読] その国の衆生、つねに清旦(しょうたん)をもつて、おのおの衣裓(えこく)をもつて、もろもろの妙華を盛(い)れて、他方の十万億の仏を供養したてまつる。

[訳文] その国の人々はいつも、すがすがしい朝に、それぞれの器に美しい花を盛り、他の国々の数限りない仏がたを供養する。

 今回お釈迦さまは、これまで見てきましたお浄土という場におられる人々(菩薩方)についてお話しになります。
 菩薩方は、すがすがしい朝に器に美しい花を盛って、他の国々(極楽浄土以外の国々でしょう、阿弥陀経の始めの部分に「十万憶仏土」という言葉がありました)の多くの仏方を供養されるのだと、説かれます。

 昼間は苛烈な気候のインドですがそのすがすがしい早朝、菩薩方が花を盛った器を捧げて歩いておられる姿が目に浮かぶような部分です。インドの仏教遺跡に花がたくさん供えられていたことを思い出しました。マリーゴールドのような鮮やかな黄色が印象に残っています。

 中村元氏は、衣裓(えこく)は「花を盛る器。華籠(けろう)もその一つ」とされています。以前に読んだことのある阿弥陀経に関する本で、この部分を「それぞれの衣のすそに花をもり、」と、「衣のすそ」だとする説明がありました。分かりにくいなあ、と思っていたのですが、やはりここは「器」とするのがよいようです。

 供養という言葉が出てきますが、これは現在でもよく使われる言葉です。先祖供養や水子供養さらには針供養、筆供養まで、様々な「供養」がいわれます。
 前の二つは、それを怠ると災いが及ぶのでそれを取り除くために行う供養、という恐れの意味が込められているように思います。
 供養の元々の意味はそれとは違っています。『浄土真宗辞典』では、「供養」は「敬いの心をもって奉仕すること。三宝(仏、法、僧の)や父母・師長などに身・口・意の三業をもって供物をささげること。」とされています。
 このように、「供養」は亡くなった方やご先祖に対して行うものではないのですが、仏教用語が日常的に使われるようになって、本来の意味から離れてきた例の一つだと思います。

 「他の国々の数限りない仏がたを供養される」ということばも印象に残ります。極楽浄土の菩薩方は他の浄土の仏方をも供養される、とお釈迦さまはいわれます。おだやかな、ほのぼのとした雰囲気が感じられるところでもあります。

(写真は、仏具の華籠(左:けろう)と華葩(右:けは)です。)

 華籠は「散華に用いる花皿」のことで、お経本や華葩を入れるために使います。
 散華は法要や儀式の際に、華葩を散らして仏などに供える作法です。その際、生花や葉が用いられることもあるそうですが、多くは蓮の花弁を模した形の華葩が使用されます。
 このように散華の作法はお釈迦さまの時代の菩薩方の「供養」の姿を今に伝えるものだといえます。

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344.『阿弥陀経』を読む(28)

20170714曼陀羅華   20170714曼陀羅華2

[御文] 黄金為地・昼夜六時・而雨曼陀羅華 (おうごんいじ・ちゅうやろくじ・にうまんだらけ)

[訓読] 黄金を地(じ)とし、昼夜六時に天の曼陀羅華を雨ふらす。

[訳文] そして大地は黄金でできていて、昼夜六時のそれぞれにきれいな曼陀羅の花が降りそそぐ。

 今回は、お釈迦さまがお浄土の素晴らしさを説かれた「天楽(てんがく)・金地(こんじ)・妙華(みょうけ)の荘厳」の中の、金地と妙華の部分になります。

 まずお釈迦さまは、お浄土の大地は黄金で作られていると説かれます。
 瓜生津師は、この黄金の大地は柔らかい大地で、身体を傷つけるような硬いものではないとされています。お浄土は、このように体にも心地よい、まばゆいばかりの黄金の大地が広がっている場所なのだとお釈迦さまは説かれます。

 ついで、お釈迦さまは、お浄土では昼夜六時のそれぞれに曼陀羅の花が降りそそぐと説かれます。
 この「昼夜六時」というのは現在の24時間、一日中という意味だと伺いました。一日を24時間に分けるやりかたは日本では明治以降に行われるようになったもので、それまでは、一日を12の時に分ける時刻法だったのだそうです。したがって、「一日中」ということを表すのにかつては「ニ六時」と言っていたのですが、現在ではこれが「四六時中」となったというわけです。

 今回の六時はその24時間を6つの時に分ける方法ということになります。現在私たちが使っています、「晨朝(じんじょう)」「日中」「日没(にちもつ)」「初夜」「中夜」「後夜(ごや)」という名称もその六時法に基づいたもので、インドでその六時にお勤めがなされていたものが現在にまで伝えられたものです。
 以前に学びましたように、蓮如上人が日々のお勤めに「正信偈・和讃」を用いることを定められるまでは、善導大師の著された『往生礼賛偈』が「六時礼賛」として各六時にお勤めされていました。

 ついで曼陀羅華ですが、『浄土真宗辞典』によりますと曼陀羅華は梵語の音訳で、「天妙華・適意華・悦意華などと意訳する。色美しく、見る者の心をよろこばせるという天上界の華」とされています。

 この曼陀羅華というのはどんな花なのでしょう?
 現在、曼陀羅華(マンダラゲ)と呼ばれる植物は、チョウセンアサガオとも呼ばれるナス科の植物です。江戸時代に華岡青洲が外科手術を行うに際して麻酔薬として使った植物として知られています。日本には薬用植物としてもたらされ、ダツラとも呼ばれて園芸品としても栽培されている植物ですが、毒と薬は紙一重、有毒な植物でもあります。
 昼夜六時に降った花は、このチョウセンアサガオの花だったのでしょうか?

(写真は、チョウセンアサガオの花です)

 右は、シロバナヨウシュチョウセンアサガオ(白花洋種朝鮮朝顔)と呼ばれる種ではないかと思います。植えた記憶はないのですが、植木鉢に芽が出ていて、大きくなったらこの花が咲いたものです。どこかから種子が飛んできたのでしょうか。

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343.夏法座をお勤めしました

20170709夏法座集合写真 (2)

 7月9日、夏法座をお勤めいたしました。
 前日は雨で、足元の悪い中をお誘い合わせいただいて、31名の方にお参りいただきました。

 ご講師には、宇部小野田組の明照寺の岡原弘和師をお迎えしました。岡原師は昨年の夏法座に続いて2回目のご出講になります。

 ご講師からは、浄土三部経の概要と、そのうちの『観無量寿経』についてお話しいただきました。
 『観無量寿経』で極楽浄土への往生を願う韋提希夫人(いだいけぶにん)に対して、お釈迦さまは、精神を統一して浄土と阿弥陀仏を観想する定善観法を説かれます。ついでそれが不可能なもののために精神統一をしないままに修する散善法を上品上生から下品下生までの九品に分けて説かれました。
 生涯を通じて悪業を犯さざるを得ない私たち下品(げぼん)のもののために、お釈迦さまは、「南無阿弥陀仏」のお念仏を称える道を説かれます。お釈迦さまは、私たちはお念仏を称えることにより、悪業を取り除かれてお浄土に往生を遂げることができるのだと示されました。

 この『観無量寿経』について、当時の中国では様々な解釈があったということもご紹介いただきました。
 このように簡単な念仏だけで往生できる浄土は劣った浄土である、などの批判が大勢を占めたのですが、善導大師は、お釈迦さまの真意は阿弥陀仏の願力によって、罪深い私たちも真実の浄土に往生できるとされたことにあると明らかにされました。

 ご講師は、お念仏は、阿弥陀仏のご本願を私たちが受け取らせていただいたことを明らかにするもので、私たちの日常生活の中で大切にしなければならないものだとお話しいただきました。

 ご講師は、ご自身の曾祖父さんとそのご子息の大叔父さんのお話しをされました。
 ご子息は結核により床に伏しておられたのですが、その看病をされていた父上(ご講師の曾祖父)も結核に冒され床を並べられるようになられたのだそうです。昭和19年、父上がご往生され、数か月後にご子息があとを追われるようにご往生されたということでした。
 ご住職だった父上は、常に「南無阿弥陀仏」とお称えになっておられたそうですが、ご子息も父上とともに過ごされ、そのご往生の後は、お念仏が絶えることのない日々を送られたそうです。
 ご講師は、(正式に)合掌してお念仏することも大事ですが、日常の動作の中でお念仏が自然に口について出てくることが大切だとお示しいただきました。

 ご講師をお見送りした後、14名の方と差し入れのお握りをいただいて勉強会を開催することができました。
 当日は、お正信偈の「道綽讃」の部分をご一緒に学ぶことができました。

(写真は恒例の集合写真です)

 今回、住職はカメラマンです。

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342.『阿弥陀経』を読む(27)

20170707平等院像2   20170707平等院像

[御文] 又舍利弗・彼仏国土・常作天楽 (うしゃりほツ・ひぶツこくど・じょうさてんがく)

[訓読] また舎利弗、かの仏国土には、つねに天の楽(がく)をなす。

[訳文] また舎利弗よ、その阿弥陀仏の国には常にすぐれた音楽が奏でられている。

  お釈迦さまは、これまで学んできました「宝樹の荘厳」「宝池の荘厳」に続いて「天楽(てんがく)・金地(こんじ)・妙華(みょうけ)の荘厳」を説かれてお浄土の素晴らしさをお伝えになります。

 まず、お浄土ではいつもすぐれた、素晴らしい音楽が奏でられている、と説かれます。

 『観無量寿経』のなかでは、「数限りない天人がいて、すばらしい音楽を奏でている。また空には楽器が浮んでおり、・・・・奏でるものがなくてもおのずから鳴り、その響きはみな等しく仏を念じ、法を念じ、僧を念じることを説くのである。」と説かれます。
 私たちにお浄土の素晴らしさを、耳に伝わる音楽として示していただいたものです。そして、その妙なる響きは、それを耳にした私たちが仏を念じ、法を念じ、僧を念じるようにと奏でられているのだと説かれています。この「念仏念法念(比丘)僧」という言葉は後に『阿弥陀経』でも出てきますが、耳から伝わる音(音楽)の力というものが大切にされていたのだということを感じることができます。

 考えてみますと、宗教と音楽とは切っても切れない関係があるように思います。
 仏教に限らず、教えが広く遠く伝わるには文字に書かれた経典だけでは十分ではなく、音(音楽)の力が随分と大きかったのではないかと想像します。文字を読むことができる人はごく一部に限られていたでしょうし、教えが話し言葉で伝えられる場合も、音声や音楽の要素を加えることにより大きな力を発揮したのだ思います
 キリスト教やイスラム教でもそのようだったのではないでしょうか。音楽というものが宗教に伴うものとして発展してきたといっても良いのかもしれません。

 現在、私たちはお経を音程や節をつけてお読みしていますが、その原初の姿はインドでできたのだとお聞きしました。
 『無量寿経』に「清風(しょうふう)、時に発(おこ)りて五つの音声(おんじょう)を出だす。微妙(みみょう)にして宮(きゅう)商(しょう)、自然(じねん)にあひ和す」というお釈迦さまの言葉があります。五つの音声というのは、ここに出ています宮、商を含む五つの音(音階)のことです。このように当時のインドでも音(音楽)が大切にされたことが伺え、お釈迦さまも秀でた音声の方だったと伝えられています。
 
 仏教は中国を経由して日本に伝えられましたが、それに従うようにその音楽「声明(しょうみょう)」も伝来し、現在の私たちのお読みするお経につながっています。
 お経を拝読しながら、その旋律やリズムの中にお釈迦さまの当時のインドのことを思い浮かべることができれば、すばらしいことだと思います。

(写真は、宇治の平等院の雲中供養菩提像と呼ばれる像です)

 お浄土の音楽というと、この像のことを思い出します。お浄土で阿弥陀さまを讃嘆する菩薩、あるいは阿弥陀さまとともに来迎する菩薩の像だとされています。
 全部で52の像があるそうですが、笛や琴などの楽器を演奏している像、合掌している像などいかにも楽しそうな姿を見ることができます。
 写真は、ウイキペディアから借りてきました。

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341.夏法座の準備を行いました

IMG_2650.jpg  IMG_2654.jpg  

 7月1日、総代さんに夏法座の準備の草刈りをお願いしました。

 井上啓志さん、今橋庄二さん、徳田順久さん、岩﨑昌彦さん、清水孝義さん、伊勢野新次さん、吉屋博志さん、志賀慎次さん、杉山彰さん、埴生充さん、埴生和彦さん、岩﨑明さんの12名の方に、駐車場から山門・石段周辺、寺に登る道の草刈りをお願いしました。少しずつ天候もよくなり、暑さが増す中ご苦労をおかけしました。
 おかげさまで、すっきりした境内でお参りの方をお迎えすることができます。

 また、岩﨑明さんは、その後引き続いて庫裡横の崩落個所の周辺の草刈りと竹や雑木の伐採をされました。
 今後進める改修工事の場所の確認をしておきたいと仰っておられました。午後の暑い中をありがとうございました。

 夏法座は次によりお勤めいたします。どうぞ、お誘い合わせてお参りください。

1.日時
 7月9日(日)10:00~(午前座のみです)

2.場所
 壽福寺本堂

3.ご講師
 宇部小野田組 明照寺 岡原 弘和師

4.その他
 午後に、勉強会(お正信偈を学んでいます)を予定しています。
 (当日は、お斎がありませんが、有志の方にお手伝いいただきおにぎりを準備します)

(写真は、作業前の打ち合わせと岩﨑さんに伐採していただいた改修工事場所にいたる道です)
 右の写真は、工事に当たって重機を通す道にしようとしている部分です。ここには以前は、下の道に向かう近道があったのですが、筍を掘るときに通るくらいで放置されていて、竹と雑木に覆われていました。岩﨑さんに伐採していただき、元の道の姿に戻りました。

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