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297.『阿弥陀経』を読む(6)


舎利弗1
        20170130目連
「御文」「訓読」 長老舍利弗・摩訶目犍連(ちょうろうしゃりほツ まかもっけんれん)
「訳文」 そのおもなものは、長老の舍利弗(しゃりほつ)をはじめ摩訶目犍連(まかもくけんれん)・・・・

 ここからその時お釈迦さまのお説教をお聞きした16人のお弟子さんの名前が出てきます。

 最初は、舎利弗さんです。
 ご門徒さんのお宅で『阿弥陀経』をお読みする前に、この舎利弗さんのについて、
 「阿弥陀経をお読みしていますと、この舎利弗という言葉が何回も出てきますが、この舎利弗というのは人の名前で、お釈迦さまの一番のお弟子さんだった方です。一番のお弟子さんですからお釈迦さまのすぐそばにおられたのでしょう、お釈迦さまは「なあ舎利弗よ・・・」と何度も呼びかけながらお話をされたのだと思います。そう思ってこのお経を読んでいると、2500年も前のことなのですが、その時の様子が目に浮かぶような気がします。」
 とご紹介しています。

 この舎利弗さんは王舎城の郊外のバラモンの家に生れ、六師外道(伝統的なバラモンの教えに反発した6人の自由思想家)の一人の弟子となりましたが、お釈迦さまがさとりをひらかれてまもなく親友の摩訶目犍連(2番目に名前が出てきます)さんを誘って弟子250人とともにお釈迦さまに帰依されたと伝えられています。「智慧第一」と称された方で、お釈迦さまの十大弟子の筆頭に挙げられる方です。

 次に名前の出る目連さんも、バラモンの家に生れられ舎利弗さんと同じ師の弟子でしたが、舎利弗さんとともにお釈迦さまのお弟子さんになられた方です。超能力を持つ第一人者だったそうで、「神通第一」と呼ばれ、やはり釈迦十大弟子の一人です。どのような超能力を持っておられたのでしょうか?
 目連さんは、餓鬼道におちて苦しむ亡母を救うというお盆の起源となる物語でも知られている方です。

 辻本氏の『阿弥陀経のことばたち』によりますと、二人ともお釈迦さまの教団の中で活躍をされ、お釈迦さまは、二人が修行僧の模範である、と讃えられたそうです。しかし、このお二人はお釈迦さまの入滅に先立って亡くなられてしまいます。

 今回、これまでに気づかずにいたことを教えていただきました。2つあります。
 一つは、「長老」という言葉です。私は舎利弗さんが年長者だとなんとなく思い込んでいたのですが、中村元氏によりますと「長老」というのは「比丘の尊称」なのだということです。従って「長老」は「「師」に当たるとみてよいであろう」とされています。

 もう一つ、こちらは辻本啓順氏の言葉なのですが、「「舎利弗」は弟子たちの代表である。とすれば、「舎利弗よ」の呼びかけは、「あなた」への呼び声に聞こえないか。」と書かれています。何度も『阿弥陀経』をお読みするうちに、お釈迦さまはこのお経を私に向かって説かれていたのだということを横においてしまっていたのではないか、私自身を省みることができました。
 最初に書きましたご門徒さんへの紹介の中でも「舎利弗さんに呼びかけられていますが、それは私たちに呼びかけられていることでもあります」とお話ししようと思います。

(写真は、左が舎利弗さん、右が目連さんの図です)

 棟方志功氏の版画(板画)「釈迦十大弟子」に描かれたものです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください) 
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296.『阿弥陀経』を読む(5)


20170127羅漢1
   20170127羅漢2  

「御文」 皆是大阿羅漢・衆所知識 (かいぜだいあらかん しゅしょちしき)
「訓読」 みなこれ大阿羅漢なり。衆に知識せらるる。
「訳文」 これらはみな世に知られた徳の高い阿羅漢であって、

 お釈迦さまのみ教えをお聞きした人々についての情報が続きます。「聴衆」は皆さん「大阿羅漢」だったと伝えています。

 この「阿羅漢」は、『浄土真宗辞典』によれば、「尊敬されるべき人。拝まれるべき人。供養を受けるにふさわしい人。修行を完成し煩悩を滅し尽くした聖者。涅槃のさとり入り、再び迷いの世界に生を受けない人」とされています。
 もともとは、仏を意味していたのですが、後には仏弟子の到達する最高の階位を意味するようになったということです。

 『阿弥陀経のことばたち』という辻本敬順氏(お正信偈でお世話になった『レッツ正信偈』の著者でもあります)の著書があります。『阿弥陀経』に出てくる言葉について説明していただいている本で、今回もお世話になっております。
 辻本氏によれば、「大乗仏教では、阿羅漢は個人的なさとりに満足している小乗仏教の修行の完成者であるとして、「仏」や他人の救済を目指す「菩薩」とは区別されるようになった」とされています。

 お釈迦さまのみ教えを護持することを誓った「十六羅漢」や、お釈迦さま滅後の最初の結集(けつじゅう)に参加した「五百羅漢」のようにお釈迦さまの優れたお弟子さんを意味する言葉です。
 この『阿弥陀経』でも、今回に続いてみ教えを聞いた「阿羅漢」の方々が紹介されています。

 この「阿羅漢」は略して「羅漢」とも呼ばれるのですが、私たちにも近しい言葉になっています。
 「五百羅漢図」という絵を見たことがありますし、ラカンマキ(羅漢槙)という木もあります。
 また浄土真宗ではありませんが、他宗のお寺では羅漢さんの像(亡くなられた方を偲ぶような)を寄進するというようなことが行われているようです。

(写真は、京都嵯峨野の愛宕念仏寺の境内の羅漢像です)

 天台宗のお寺で「あたぎねんぶつじ」と読むのですが、別名は「千二百羅漢の寺」、たくさんの羅漢像を見ることができます。右の羅漢さんは文鳥を頭に載せています。

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295.歴史を訪ねる(2):古文書読み解き会(1)


20170123古文書

 2014年8月にご報告しました「くすのき郷土史研究会」の主催で開催されている「古文書読み解き会」に参加してきました。

 この「読み解き会」は地元に関連のある古文書(こもんじょ)を読み解いて、地域の歴史をたどろうと企画、運営されている会です。歴史研究会の世話役の武波博行さんが中心となっておられ、今回が3回目の会合でした。私は過去2回は都合がつかず、今回初めての参加でした。

 読み解きの対象の文書は、「柏村家文書」という「学びの森くすのき」所蔵の文書から、国司家に関する文書が取り上げられています。
 この古文書は明治32年に柏村家によって書き写されたものだそうですが、5代元純公から15代正久公までの国司家の略伝です。3回目となる当日は、7代元相(もとすけ)公の伝記の後半が読まれました。

 実は20年以上も前になるのですが、古文書を読めるようになりたいと思ったことがあり、入門書と『くずし解読字典』という辞書を購入したことがありました。なのですが、多忙にかまけて(と言い訳し)そのままになっておりました。
 そんなことで、このような読み解きの会があると知って、早速入会させていただいたというわけです。

 当日は武波さんと宇部フロンティア大学の特命准教授でもある内田鉄平さんを中心に文書の読み解きが進められました。
 古文書の解読には予習と復習が大事だと武波さんが言っておられたのですが、当日は余り準備もせずに出席してしまい、話についていくのがやっとという状態でした。それでも、戦国時代に国司家が主君の大内氏その後毛利氏のもとでどのような働きをしたのかということの一端に触れることができて、楽しいひと時となりました。

 その20年前に買った入門書『古文書入門』のタイトルには「判読から解読へ」という言葉が付されています。古文書の「読み解き」には、まず崩し字で書かれた文字を判読すること、さらに当時の時代背景などを踏まえて内容を解明することの両方が必要だということなのですが、私の状態はこの判読の入り口に入ろうか、といったところでしょうか。
 次回は2月23日に開催となっていますので、今度はしっかり予習をしようと考えている所です。

(写真は、テキストの国司家の『略伝記』です)

 左半分が次回対象となる8代元武公の伝記の最初の部分です。右は当日読んだ元相公に関する最後の部分となります。

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294.『阿弥陀経』を読む(4)

20170120阿弥陀経折本

[御文] 与大比丘衆・千二百五十人俱 (よだいびくしゅ せんにひゃくごじゅうにんく)
[訓読] 大比丘(だいびく)の衆、千二百五十人と俱(とも)なりき
[訳文] (お釈迦さまは)千二百五十人のすぐれた弟子たちとご一緒であった。

 今回の部分は、序分の「聴衆」(だれに対してお釈迦さまが教えをお説きになったのか)に当たります。
 お経は、お釈迦さまはすぐれたお弟子さん1250人とご一緒であったと伝えています。

 この「比丘」について『浄土真宗辞典』には、「原意は食を乞う者。出家して具足戒を受けた男性」とあります。当時のサンスクリット語を音写したものですので、漢字には特別な意味はないとお聞きしました。瓜生津師は「托鉢する修行僧」とされ、大比丘はすぐれた仏弟子とされています。 
 彼らは生活の手段として、生産に携わらずもっぱら托鉢によっていたところからこのように呼ばれていたということです。
 また女性の場合は比丘尼(びくに)と呼ばれます。
 また、在家の信者は男性は「優婆塞(うばそく)」、女性は「優婆夷(うばい)」と呼ばれていたといいますが、こちらも「仕える人」という意味の当時の語を音写したものだということです。

 このお弟子さんの1250人というのは、最初にお釈迦さまに帰依された方の数だとされています。
 そのうち、1000人は三迦葉(さんかしょう)と呼ばれる三人兄弟がお釈迦さまに帰依するに当たって共に入信した弟子、250人は後で名前が出てくる舎利弗と目連という方が一緒に帰依された弟子、の人数だとされています。
 従って、必ずしもお釈迦さまが阿弥陀経を説かれたその時に、1250人のお弟子さんが一緒におられたのではない、のだそうです。
 
 しかし、いずれにしてもたくさんのお弟子さんを前にして説かれたことは間違いと思います。
 ご門徒さんのお宅でお勤めする法事で、ご一緒に『阿弥陀経』を拝読する前に簡単にお経の紹介をするようにしているのですが、その際「お釈迦さまは1250人という多くのお弟子さんを前にしてこのお話をされたと伝えられています。スピーカーもない時代ですから、きっと大きな声でお話しされたのでしょうね」とお話ししています。少しでも『阿弥陀経』の内容に興味を持っていただけるといいのですが。
 
(写真は、寺の折本の『仏説阿弥陀経』です)

 この「折本」は先に出ました「巻子」(巻紙式)を一定の幅で折り重ねた蛇腹形になっています。この方が、特定の場所を出すのに便利だということで利用が広がったようです。

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293.ご門徒さん紹介(5):岩崎則彦さん


20170116岩崎則彦氏

 今回の「ご門徒さん紹介」は、伊佐の岩﨑則彦さんです。
 このシリーズは今回で5回目となるのですが、思い返してみますとこれまで4回は全て女性でした。壽福寺のご門徒さんは女性がお元気なのでしょうか?ですが、今回は男性の登場です。

 岩﨑則彦さんは絵を描いておられます。
 則彦さんの絵のことを知ったのは、実は偶然からなのです。

 毎年、「山口県美術展覧会」という展覧会が開催されます。一般から作品を募り、入選作は山口県立美術館で展示されるというものです。昨年は第70回になる歴史のある展覧会なのですが、新聞で紹介されていた入選作の中に一度観てみたいと思う作品があって、美術館に出かけました。
 会場を観て回っていたのですが、ある絵を見ると「あれれ、これは岩崎則彦さんじゃないかな?」と思わせるような人物画がありました。その絵は「入選 美祢市 宇界合麻」となっており、作者は美祢市の宇界合麻という人だとなっていました。
 美祢市だということもあり、なによりもその描かれた人物が則彦さんそっくりということもあって、帰って来てからご本人に確認しましたところ、間違いなく則彦さんの自画像だったということが分かりました。

 新聞の情報によりますと、昨年の県美術展覧会には402点の作品の応募があったそうです。その中から大賞1点、優秀賞5点それに入選137点が選ばれたということでした。

 則彦さんにお話しを伺いました。
 則彦さんは小さいときから絵を描くのが好きだったそうです。小学校の低学年の頃に先生から絵が上手だとほめられたことが励みになって、絵を描いてこられたのだそうです。

 絵の具はアクリル絵の具を使い、チューブから出した絵の具を余り混ぜずに使うようにしているということでした。そうすると、絵の具の濁りが出ないのだそうです。
 絵を描くに当たっては、形は対象を写すようにしているのですが、色は対象の色にこだわらず濁らないような色使いを求めているということでした。

 美術展の入選作「合麻なる私が二人」を観てみますと、「形」は一見してこれが則彦さんと分かるほど「写実的」なのですが、色彩はご自分の思い通りの色を使ったと言っておられるように、グリーンの洋服の色が印象に残ります。
 絵には側面からと斜め正面からの自画像が描かれていますが、その「二人」の視線が上と下を向いている像にしたということでした。
 則彦さんは制作に1日に1~2時間を当てられるそうで、今回の30号の作品は約3カ月かけて描かれたのだそうです。
 
 則彦さんは、ほか「二科会」や「太陽美術協会」の展覧会にも作品を出しておられ、昨年の「二科会」では50号の作品で入選されるなどの活躍しておられます。
 また、四郎ヶ原にある「カフェギャルリ とりのこ」では秋に作品を展示されますので、一度ご覧になってください。

 ぜひこれからも活躍していただきたいと思います。

(写真は、入選作「合麻なる私が二人」と岩崎則彦さんです)

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292.『阿弥陀経』を読む(3)


20170113祇園精舎

「御文」 一時仏在舎衛国・祇樹給孤独園 (いちじぶツざいしゃえこく・ぎじゅきっこどくおん)
「訓読」 ひと時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園にましまして、
「訳文」 あるとき、釈尊は舎衛国の祇園精舎においでになって、
(かっこ内の読み方で「ツ」とあるのは、鼻音といって鼻に抜ける発音をする場所です)

 『阿弥陀経』は最初の部分に入ります。
 経典の内容を整理するのに、「序分」(序説となる部分)、「正宗分」(経の本論)、「流通分」(るずうぶん:教えを伝持流通することを勧める部分)の3段に分ける「三分科」という方法がとられてきました。

 その最初に当たります「序分」(「序説」とも)では教えが説かれた「時」(いつ)や「説者」(だれが)、「処」(どこで)、「聴衆」(だれに対して)などについて記されることになっています。

 これを『阿弥陀経』についてみてみますと、まず「時」は「ひととき(一時)」となっていますが、瓜生津師はこれは「時を限らない」ことだとされています。
 「説者」の「仏」はお釈迦さまです。
 「処」は「舎衛国の祇樹給孤独園」とされています。舎衛国(舎衛城)は当時の北インド第一の繁栄を誇っていた都市だそうで、祇樹給孤独園(略して祇園精舎)はその南西部にあった精舎(仏道修行に精進する者が住む坊舎。寺院)のことです。
 この精舎の地は、もともと舎衛国の祇陀太子が所有していたものを、須達長者(常に孤独な人々に食を給する者という意味で「給孤独長者」と呼ばれた人)という方がが譲り受けて、お釈迦さまに寄進されたところだそうです。祇陀太子もその地にあった樹を献じたところから、「祇樹給孤独園」と呼ばれたと伝えられています。

 中村元氏によりますとお釈迦さまはこの地で24回の安居(雨期に出家者が一定の場所を定めて修行に集中すること)を過ごされるなど、祇園精舎を修行と布教の地とされました。多くの坊舎が建てられ、またこの地でたくさんの人々を教化されたと伝えられています。
 そして『阿弥陀経』もこの地で説かれました。

(写真は2012年当時の祇園精舎の遺跡です)

 大切な修行と布教の地であった祇園精舎は、現在では公園として整備が進められているようですが、残されたたくさんの礎石がお釈迦さまの時代を偲ばせるという状態です。
 『平家物語』の冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という一節から私たちも親しみのある名前ですが、お釈迦さまの時代には祇園精舎では鐘は使われていなかったのだそうです。

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291.『阿弥陀経』を読む(2)

IMG_2251.jpg

 「『阿弥陀経』を読む」の2回目です。お経はここから同音(一同が声を出して読む)となります。

「御文」 如是我聞 (にょぜがもん)
「訓読」 かくのごとく、われ聞きたてまつりき。
「訳文」 次のように、わたしは聞かせていただきました。

 「このように私はお聞きしました」という意味の言葉は、お経の冒頭に使われる言葉です。
 『観無量寿経』も同じ「如是我聞」で始まります。『無量寿経』の方は「我聞如是」と入れ替わっていますが、同じことを表しています。

 お釈迦さまは生涯を通じて多くの教えを説かれたのですが、それは著書として残されているのではなく、その教えが言葉としてお弟子さんの記憶の中に、心の中に残され伝えられていました。
 お釈迦さまが亡くなられた後、お釈迦さまの教えをまとめ再確認する会議が開催されます。お釈迦さまの教えについて様々な解釈が出てきたり、あるいはみ教えに反する考え方が現れたりしたことがその背景にあったとされていますが、その会議はお釈迦さまから聞いた教えを皆の前で復唱し、お互いにその内容を確認しあうという形で進められたと伝えられています。

 その場合に「これは私が聞かせていただいた間違いのないお釈迦さまの教えです」としてその内容が語られたのだと思われます。それが漢文に訳されて「如是我聞」とお経の最初に来ているということになります。
 親鸞聖人は、『教行信証』の中で、「ゆゑに経の始めに『如是』と称す。『如是』の義はすなはちよく信ずる相なり。」と記され、「如是」は「善く信ずるすがた」だと説かれています。

 「如是我聞」の「我」はお釈迦さまの言葉を直接聞いたお弟子さんということになりますが、このお弟子さんは阿難(アーナンダ)という方だとされています。阿難尊者は常にお釈迦さまのそばにいて最も多くの説法を聞いた方で、上記のお釈迦さまの教えを確認する最初の会議で中心になった方でした。

 現代の私たちからみると、お釈迦さまの言葉を間違いなく記憶し、伝えるということは途方もなく難しいことのように思われます。私たちは極く普通のことのように、言葉を文字に記し、さらにはデジタルデータとして保存するということをやっていますが、そのことにより言葉を記憶するという能力を失っているのではないかと思います。
 そのような便利な技術がない時代の人々は、言葉を記憶するという能力は今の私たちよりはもっと優れていたのかもしれません。

 しかし、もう少し考えてみますと、阿難尊者にあったのはお釈迦さまの教えを記憶しなければならないということではなくて、お釈迦さまのみ教えを自分のものとしてしっかりと心にとどめておきたい、という強い思いがあったのだと思い至りました。
 そのような強い思いによって、お釈迦さまのみ教えが伝えられて、遠く時と距離を隔てた私たちにも届いていただいているのだと改めて思い起されることです。
 私たちはどうしてもお経を「覚え」ようとしますが、その前にそこに説かれていることを心に刻み込むということが必要なのだと改めて思った次第です。

 ちょっと横道にそれるのですが、この「如是我聞」の部分の訓読は『浄土真宗聖典(注釈版)』では上記のように「われ聞きたてまつりき」となっていますが、その「原典版」では「ワレキキタマヘキ」となっています。ともに謙譲の意味を表しているのですが、なぜ違っているのだろうかと思って調べてみました。
 その「原典版」に付されていた「浄土真宗聖典 彙報」という冊子に、聖典編纂の主任を勤められた瓜生津隆雄師の聖典編纂にかかわる思い出を綴られた文章がありました。その中で師は、原典版では各宗主の原典の「風格を出来るだけ残してこれを活字化することに力(つと)められてある」のですが、追って編纂される注釈版では「親しみ易からしむる努力が払われるであろう」とされて、この「たまへき」と「たてまつりき」がその例として挙げられていました。
 このことからも、聖典編纂に当たっては、原典の風格、雰囲気を残しつつ、現代人にも親しみやすいものにしたいという努力が行われていたことを知ることができました。

 瓜生津師には「聖典セミナ― 浄土三部経Ⅲ 阿弥陀経」という著書があります。あとがきによりますと平成3年から4年にかけて『大乗』誌に連載された内容をまとめられたものだということですが、今回阿弥陀経を学ぶに当たっては、このご本をテキストのように使わせていただいています。

(写真は、寺の『阿弥陀経』のお経本です)
 「巻子」の形で本堂の立経台に納められているものです。

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290.『阿弥陀経』を読む(1)


 前回まで62回にわたってご一緒にお正信偈を学んできましたが、今回から、『阿弥陀経』をお読みしたいと思います。

 壽福寺では、ご門徒さんのご法事ではこの『阿弥陀経』をお勤めします。
 その際、お参りいただいた方(ほかの宗派、宗教の方もおられる場合もありますが)にお経本をお渡ししてご一緒にお読みいただいていますが、それに先立って『阿弥陀経』について極く簡単にご紹介するようにしています。
 『阿弥陀経』が説かれた時代や場所、内容などについてですが、ご一緒にお読みいただくに当たって少しでもその内容に興味を持っていただきたいと思ってそうしています。

 そのようなこともあって、改めて『阿弥陀経』についてその内容を学び直したいと思い取り上げることとしました。ぜひお経本を手元に置いていただきご一緒に学んでいただければ幸いです。

 まずお経本の最初の部分です。次のように書かれています。(拝読する場合は、「仏説阿弥陀経」の部分を調声人が一人で称えますが、「姚秦」以下の部分は読みません)

 仏説阿弥陀経    姚秦三蔵法師鳩摩羅什奉詔訳

 『仏説阿弥陀経』については、「浄土真宗の教章(私の歩む道)」に次のように示されています。

 聖典
 ・釈迦如来が説かれた「浄土三部経」
  『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』

 お釈迦さまが説かれたたくさんのお経の中からこの「浄土三部経」が私たちの浄土真宗の聖典とされ、『阿弥陀経』はその一つとなっています。
 『阿弥陀経』はお釈迦さまが説かれたことを示し『仏説阿弥陀経』と呼ばれますが、『仏説無量寿経』が『大経』と呼ばれるのに対して『小経』とも呼ばれています。

 後半の部分は、「姚秦(ようしん)の三蔵法師(さんぞうほつし)鳩摩羅什(くまらじゅう)詔(しょう)を奉(うけたまわ)りて訳す」と読まれます。
 「姚秦」というのは後秦のことで、384年から417年の間続いた中国の王朝、その第2代姚興皇帝の要請によりインドより招かれていた鳩摩羅什が翻訳されたものです。鳩摩羅什は他に多くの重要な大乗の経論を翻訳し、また優れた弟子を育てたと伝えられています。

 「三蔵法師」は「経・律・論の三蔵に精通した者に対する尊称」で、特定の個人を指すものではなく一般名詞でした。(孫悟空を家来にした)玄奘も三蔵法師と呼ばれていますし、『正信偈』には曇鸞大師に浄教を授けた三蔵流支(さんぞうるし)という方も登場されていました。
 その玄奘三蔵は7世紀前半にインドにわたられた中国の僧ですが、やはり『阿弥陀経』を翻訳されています。ただ、その内容から別の原典から翻訳されたものだとされているようです。

(写真は、前回と同じ日の日の出です。)
 太陽の全体が姿を表しました。

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289.お正信偈を読む(62):依釈段(39)/結讃(2)


20170102日の出

 ご一緒の学んでまいりました「お正信偈」も結讃4句のうちの最後の2句となりました。

[御文] 道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説 (どうぞくじしゅうぐどうしん ゆいかしんしこうそうせつ)

[訓読] 道俗(どうぞく)時衆(じしゅう)ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべしと。

[訳文] 出家のものも在家のものも今の世の人々はみなともに、ただこの高僧方の教えを仰いで信じるがよい。
 
 御文にあります、「道俗」の「道」は僧侶を、「俗」は在家の人々を、「時衆」は「今の世の人々」のことを指します。
 親鸞聖人は、この2句で今の世の人々はみな共に心を同じくして七高僧の教えを信じるようにお勧めになったのです。

 もう一度、お正信偈の構成をみてみますと、最初に親鸞聖人はご自身のご信心を表明され、次いで『大無量寿経』により阿弥陀如来のご本願を讃嘆され、お釈迦さまはがこの世に出でていただき阿弥陀如来のご本願をお伝えいただいたことを讃嘆され、インド、中国、日本の七人の高僧方を通じてお釈迦さまの開かれたみ教えが私たちに伝えられたことを喜ばれ、私たちがこのみ教えを間違いなく受け止めるように勧められています。

 親鸞聖人のご本意は、お釈迦さまによって開かれたみ教えが2500年の後まで伝えられた大きな流れをしっかりと受け止めて、これを次の世代に取り次いで欲しいということだと思います。

 浄土真宗のご門徒さんのお宅では、朝夕にお正信偈をお勤めし、それを幼い頃から耳にし歌のようにして口にしていたとお聞きしました。家を出る時には仏さまに「行ってきます」、帰ってきたら「ただいま戻りました」とお仏壇に向かっていたと仰った方もありました。
 生活の中心に「仏さま」があり、子守歌のようにお正信偈があるという生活が長い間続けられていたのだと思います。

 現実に進展している核家族化、都会化の中でこのような生活を送ることは非常に難しくなっており、ますます困難さを加えると言わざるを得ません。
 その現実の中で、親鸞聖人が私たちに勧められた、お念仏の中で生活することをどのようにして実現できるのか、という大切な重い課題が私たちに与えられていると改めて実感されます。

(写真は、12月30日の日の出です)

 寺の近くに、冬の時期にこのような日の出を見ることができる場所があります。当日の日のでは7時20分過ぎでしたが、手が凍えるような冷え込みでした。

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