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271.報恩講に向けて草刈りを行いました


20161031草刈

 昨日、10月30日に報恩講の準備として草刈りをお願いしました。

 9時に井上啓志さん、今橋庄二さん、徳田順久さん、岩﨑昌彦さん、吉屋博志さん、清水義孝さん、志賀雅彦さんの7名の総代さんと橋羽富由記さんの8名の方がお集りいただきました。

 そのうち橋羽さんは総代さんではないのですが、昨年ご往生されたお父さんの代わりにとおいでいただきました。お父さんの橋羽正祐さんは総代を退任されてからも、草刈りの時にはお手伝いいただいていました。皆さんに会えるのが楽しみだと言っておられたということです。
 そのようなことがあって、富由記さんからも「次回草刈りをするときには声をかけてください」と言っていただいていました。このような形で引き継がれていること、本当に有り難く思います。

 全員集合の後、井上さんから挨拶をいただき、駐車場、石段周辺、山門周辺の草刈りをお願いしました。

 当日は快晴に恵まれて、作業は順調に進み10時過ぎには終えることができました。
 作業の後、井上さん差し入れの缶コーヒーをいただきながら暖かい日差しの中、しばし雑談をすることができました。

(写真は全員集合、これから作業にかかります。)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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270.公開講座「医療現場に携わる仏教」

20161028田畑氏 (2)

 昨日10月26日、山口教区総代会主催で開催された公開講座に参加しました。

 ご講師は田畑正久氏で、「医療現場に携わる仏教」というテーマでお話をいただきました。
 田畑氏は外科医として医療現場でご活躍しておられる方ですが、九州大学在学中に仏教の師となる細川巌師に出遭われ、以後浄土真宗のみ教えとともに医療の道を進まれた方です。
 現在は病院長として病院の運営に当たられながら、龍谷大学を始めとする教育機関で「医療と仏教の協力関係」を構築するため後進の育成に尽力されています。

 ご講師は最初に「宗教と医療は同じことを扱っている」と仰いました。
 私たちが感じる「苦」というものは、自身の思いと現実の自分の姿に差があることだと、言われます。その典型的なものが、老いであり、病であり、死です。私たちはいつまでも若くありたい、健康でありたい、命を長らえたいと願いますが、現実の私たちの姿はその思いとはかけ離れていきます。この「苦」に対して、医療と宗教は向かい合ってきました。

 ご講師は、この逃れることのできない「苦」に対して医師の果たし得ることとその限界について見つめてこられました。
 医師の役割は、病をなおして患者さんが望む健康な状態に戻すことです。現代の医療技術はかつては想像もできなかったような発展を遂げて、これまで治療できなかった病の多くが治療可能になりました。しかし、治療できない病気に対して医療はどのようなことができるのか、という新しい問いが突き付けられました。
 治る見込みのない病を得た患者さんに医師はどのように対応してきたのか、ということでご講師から次のような事例をお聞きしました。
 ある末期がんの患者さんなのですが、医師はなんとか治療しようとして手術や抗がん剤などの様々な医療を施されました。そして、もう一度手術をしようという話になった時に、その患者さんが言われたのは、これまで先生が熱心に治療をしてこられたので、私は我慢してきましたが、もうこれ以上命を長らえようとは思いませんから治療はやめてください、という趣旨の言葉だったのだそうです。

 医師が患者さんのために、と思って取り組んできた医療行為を患者さんは我慢してきたというのです。その患者さんは命には限りあるものだということを受け止めておられたのですが、医師は病気をなおすことが患者さんのためだと信じていたのです。
 このようななおる見込みのない病を前にした医師は「無力です」とご講師は仰います。なぜなら、医師は自分の役割は病気をなおすことだとだけ考えているからだということです。

 この「苦」、「自分の思いと違っている現実」に対処する道として、現実を自分の思いに近づける努力を行うのではなく、それを「受容」する道を考えることが大切だと、ご講師は示されます。なおる見込みのない病に対して、なんとか健康な状態に戻したいと治療(患者さんにとってつらい治療もあります、時には延命だけの目的でなされる治療もあります)することではなく、その病(の現実)を受け容れて、今の命を力いっぱい生きることに思いを向けることの大切さをご講師は指摘されました。

 このように患者さんに、病の現実を受容するというもう一つの道に気づいてもらうことを医師が担うことはなかなか難しいことだと思えます。医師は、病に立ち向かってそれをなおすことに最善をつくすものだと、期待されていますし自身もそれを使命と考えておられるからです。
 そのようなことから、「医療と仏教の協力関係」が重要な役割を果たし得るのだとご講師は強調されるのです。

 アメリカでは病院に(だけではなく学校、消防や軍隊にも)チャプレンと呼ばれる牧師さんがごく普通に勤めておられて、その場にある苦しみ、悩みをケアするという役割を果たしておられるのだそうです。
 浄土真宗本願寺派のグループにも「あそかビハーラ病院」という緩和ケアの病院があります。僧侶が常駐し患者さんの悩みや心のケアに当たっています。一般には僧侶が病院にいるという「違和感」はまだまだ強いのだそうですが、そのような医療機関も少しずつですが、増えてきているというご紹介もありました。
 病の現実を受容するケア、治療一辺倒で患者さんを「苦しめる」ことのないケアについて、宗教が大きな役割を果たし得るということを感じることができました。 
 
 自宅に帰ってから考えていたのですが、私は病を得た人を「患者さん」と呼んで、私とは別の人、病気の人、明日の命が分からない人、のように見ていました。しかし、考えてみると命に限りがあるということでは私も何の違いはありません、私もスパンがちょっと長い(かどうかも実は不明です)かもしれませんが、間違いなく死に向かっている「末期の患者」だということに気づかされました。
 余命がいくばくもないということを宣告された人は、苦悩しながらも限りある命を精いっぱい生きようとされますが、まだまだ先のことだと思っている(思いたがっている)私にはそこからは遠いところにいるのだということにも気づかされました。

 「精いっぱい生きた人は死を恐れず今を受け入れますが、そうでない人は未来が明るいものであって欲しいと考えて、死はそれを阻むものとして恐れるのです」というご講師の言葉を思い起しました。

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269.ご紹介します(13):「原爆で死んだ米兵秘史」

20161024書籍   20161024書籍1

 先日のこのブログで、広島の原爆で死亡した米兵について調べその結果を米国の遺族に連絡した人、森重昭氏(オバマ大統領が広島でスピーチを行った後に歩み寄り抱擁した人です)が浄土真宗本願寺派のご門徒さんだという『本願寺新報』の記事をご紹介しました。

 その森さんが書かれた『原爆で死んだ米兵秘史』という本をご紹介します。
 この本で、森さんは原爆によって広島で死亡した米兵が12名いたことを突き止め、彼らが被爆するに至った経緯を記し、被爆死のことを知らされていなかった彼らの家族を探し出し、情報を伝えられた苦労などを綴っておられます。

 森さんが原爆の被害について調べ始めたのは、森さんが住んでいた土地の近くにあった己斐(こい)国民学校で荼毘に付された死体の数に疑問を持ったことがきっかけだったということです。広島市が編纂した『広島原爆戦災記』ではそれは800人だとされていたのだそうですが、森さんが自分で目にした数はもっと多かったということで、当時を知っている人に尋ねて回られたところから始まっています、1975年のことです。
 その過程で、森さんは米国人の捕虜が原爆で死亡していたという話を耳にし、またそれを描いた絵を目にします。被爆死した米兵はいたのか、なぜそのようになったのか、遺族はそのことを知っているのか・・・森さんの執念を感じさせる調査の内容が詳細に記されています。

 前回のブログで、米国政府は広島で米兵が被爆死したことを1983年までは正式に認めなかったという記事をご紹介しました。米国政府が当初それを認めなかったのは、広島には連合軍の捕虜がおらず原爆を投下しても被害が生じないという前提で広島に投下することが決められたということにあるようです。
 しかし、原爆投下の前7月26日に呉の海軍施設を爆撃した米軍の戦闘機や爆撃機が撃墜され、搭乗していた米兵が死亡したり捕獲されたりするということがあり、捕らえられた兵士の一部が広島の施設に収容され、その結果被爆死することになったという経緯が綴られます。

 この本を読んで、森さんの情報収集に対する執念のような熱意に感銘を受けました。
 最初は会社勤めの傍ら、休日を利用して調査を始められます。調査の対象者は、軍の関係者はもちろん、米軍機が墜落した地でそれを目撃した人に至るまで、実に多くの人の証言を集められます。また関連する日米の資料を読みこんで裏付けとする作業もあります。この部分では、森さんのジャーナリストとしての執念のようなものを強く感じさせられました。

 しかし、取材と調査で明らかになった事実、広島で米軍の捕虜が被爆死したという事実、をその遺族を探しだして伝えるということは、このジャーナリストとして事実を書き記すということとは別のもののように思えてきました。ファミリーネームだけを頼りに遺族を探し出すのですから、これは大変な作業だったと思います。米国にかける電話の料金も膨大な金額になったということも言われていました。
 ジャーナリストとしてそれまで知られていなかったことも含めて事実の詳細を記載するという作業にとどまらず、さらにそれを残された家族に伝えるという、困難なことに森さんは取り組まれたのです。
 本を読んでいて、森さんをその方向に向けさせたものは何だったのだろうか、ということが気になり始めました。

 オバマ大統領はスピーチの中で次のように言っています。
 「ここで殺された米国人たちの家族を捜し出した男性がいました。なぜなら、彼は彼らの喪失は自分たちの喪失と等しいと信じていたからです」
 『本願寺新報』にも森さんの言葉として、「残された者の痛みには敵も味方もない」という言葉が記されていました。。

 森さんご自身が被爆者であり、親族や級友を原爆で失った当事者でした。その大切な人々の死を目にし、その悲しみ、つらさは私たちの想像の及ばないものだったと思われます。一方、米国の兵士の遺族には彼らが被爆死したことは伝えられておらず、漠然と戦死したという通報が行われていただけだったそうです。
 大切な人を亡くした悲しみには「敵も味方もない」、そのことが森さんを突き動かして、遺族を探しだして死の状況を伝えるという困難な作業に向かわせたのではないかと思います。

(写真は『原爆で死んだ米兵秘史』の表紙です)

 全く別の話になるのですが、この本をアマゾンで注文したら翌日には手元に送られてきました。便利になったものです。
 なのですが、そのような便利さのおかげで、以前あった「街の本屋」が全部と言っていいほど姿を消しました。暇を見つけてぶらりと足を運んで、そこにある本を手に取って眺める、店主を雑談をする、といったことがなくなりました。思いがけず面白い本に出会うという楽しみもなくなりました。 

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268.本山で伝灯奉告法要が始まりました。

 20161021龍谷ミュージアム1  20161021龍谷ミュージアム2

 10月1日より伝灯奉告法要が本山で始まり、10月2日より団体参拝が開始されています。
 法要初日の1日には、「奉賛伝灯作法」によるお勤め終了後、「伝灯祝賀のつどい」が催され、その中でご門主は「念仏者の生き方」と題してご親教されました。以下その全文をお伝えいたします。
********

 仏教は今から約2500年前、釈尊がさとりを開いて仏陀となられたことに始まります。わが国では、仏教はもともと仏法と呼ばれていました。ここでいう法とは、この世界と私たち人間のありのままの真実ということであり、これは時間と場所を超えた普遍的な真実です。そして、この真実を見抜き、目覚めた人を仏陀といい、私たちに苦悩を超えて生きていく道を教えてくれるのが仏教です。

 仏教では、この世界と私たちのありのままの姿を「諸行無常」と「縁起(えんぎ)」という言葉で表します。「諸行無常」とは、この世界のすべての物事は一瞬もとどまることなく移り変わっているということであり、「縁起」とは、その一瞬ごとにすべての物事は、原因や条件が互いに関わりあって存在しているという真実です。したがって、そのような世界のあり方の中には、固定した変化しない私というものは存在しません。

 しかし、私たちはこのありのままの真実に気づかず、自分というものを固定した実体と考え、欲望の赴くままに自分にとって損か得か、好きか嫌いかなど、常に自己中心の心で物事を捉えています。その結果、自分の思い通りにならないことで悩み苦しんだり、争いを起こしたりして、苦悩の人生から一歩たりとも自由になれないのです。このように真実に背いた自己中心性を仏教では無明煩悩(むみょうぼんのう)といい、この煩悩が私たちを迷いの世界に繋ぎ止める原因となるのです。なかでも代表的な煩悩は、むさぼり・いかり・おろかさの三つで、これを三毒(さんどく)の煩悩といいます。

 親鸞聖人も煩悩を克服し、さとりを得るために比叡山で20年にわたりご修行に励まれました。しかし、どれほど修行に励もうとも、自らの力では断ち切れない煩悩の深さを自覚され、ついに比叡山を下り、法然聖人のお導きによって阿弥陀如来の救いのはたらきに出遇(あ)われました。阿弥陀如来とは、悩み苦しむすべてのものをそのまま救い、さとりの世界へ導こうと願われ、その願い通りにはたらき続けてくださっている仏さまです。この願いを、本願といいます。我執(がしゅう)、我欲(がよく)の世界に迷い込み、そこから抜け出せない私を、そのままの姿で救うとはたらき続けていてくださる阿弥陀如来のご本願ほど、有り難いお慈悲はありません。しかし、今ここでの救いの中にありながらも、そのお慈悲ひとすじにお任せできない、よろこべない私の愚かさ、煩悩の深さに悲嘆せざるをえません。

 私たちは阿弥陀如来のご本願を聞かせていただくことで、自分本位にしか生きられない無明の存在であることに気づかされ、できる限り身を慎み、言葉を慎んで、少しずつでも煩悩を克服する生き方へとつくり変えられていくのです。それは例えば、自分自身のあり方としては、欲を少なくして足ることを知る「少欲知足」であり、他者に対しては、穏やかな顔と優しい言葉で接する「和顔愛語(わげんあいご)」という生き方です。たとえ、それらが仏さまの真似事といわれようとも、ありのままの真実に教え導かれて、そのように志して生きる人間に育てられるのです。このことを親鸞聖人は門弟に宛てたお手紙で、「(あなた方は)今、すべての人びとを救おうという阿弥陀如来のご本願のお心をお聞きし、愚かなる無明の酔いも次第にさめ、むさぼり・いかり・おろかさという三つの毒も少しずつ好まぬようになり、阿弥陀仏の薬をつねに好む身となっておられるのです」とお示しになられています。たいへん重いご教示です。

 今日、世界にはテロや武力紛争、経済格差、地球温暖化、核物質の拡散、差別を含む人権の抑圧など、世界規模での人類の生存に関わる困難な問題が山積していますが、これらの原因の根本は、ありのままの真実に背いて生きる私たちの無明煩悩にあります。もちろん、私たちはこの命を終える瞬間まで、我欲に執(とら)われた煩悩具足(ぼんのうぐそく)の愚かな存在であり、仏さまのような執われのない完全に清らかな行いはできません。しかし、それでも仏法を依りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯努力させていただく人間になるのです。

 国の内外、あらゆる人びとに阿弥陀如来の智慧と慈悲を正しく、わかりやすく伝え、そのお心にかなうよう私たち一人ひとりが行動することにより、自他ともに心豊かに生きていくことのできる社会の実現に努めたいと思います。世界の幸せのため、実践運動の推進を通し、ともに確かな歩みを進めてまいりましょう。

                                          2016(平成28)年10月1日

(写真はすでに始まっています龍谷ミュージアムの「浄土真宗と本願寺の名宝」展の第1期のポスターです)

 第1期は9月24日より11月27日の会期で開催されており、国宝の「三十六人家集」など貴重な所蔵品などが展示されています。

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267.お正信偈を読む(54):依釈段(31)/源信讃(2)

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 前回に続いて、親鸞聖人が源信和尚を讃嘆された「源信讃」の2回目です。

[御文] 専雑執心判浅深 報化二土正弁立 (せんぞうしゅうしんはんせんじん ほうけにどしょうべんりゅう

[訓読] 専雑(せんぞう)の執心(しゅうしん)、浅深(せんじん)を判じて、報化(ほうけ)二土(にど)まさしく弁立(べんりゅう)せり。

[訳文] さまざまな行をまじえて修める自力の信心は浅く、化土(けど)にしか往生できないが、念仏一つをもっぱら修める他力の信心は深く、報土(ほうど)に往生できると明らかにされた。

 親鸞聖人が七人の高僧を選ばれるに当たって、「独自の特徴のある考えを加えられた」こと(発揮)を念頭に置かれたとされています。源信和尚のご功績は「報化二土」とされていて、本日の2句がその内容を要約したものになっています。

 まず、「専雑の執心」の専雑は「専修(せんじゅ)」と「雑修(ざっしゅ)」のことです。専修はもっぱら阿弥陀如来の本願を信じてただ念仏すること(人)で、雑修は念仏だけではなく他の雑多な行をまじえて修めること(人)のことだと伺いました。阿弥陀如来のご本願によって間違いなく救われるのだということについて疑いを持ち、雑行に頼ってしまう私たちの姿が示されています。
 また、「執心」を『浄土真宗辞典』で調べてみますと、「執着心」と「信心」の二つの意味が記されています。今回の第1句に使われている執心は後者の意味で、源信和尚は「専修は他力の信心で深く、雑修は自力の信心でそれは浅いものである」と双方の浅深を分けられました。

 第2句の「報化二土」は、「報土」と「化土」のことで、他力念仏の行者が生まれる阿弥陀如来の本願に報いられた浄土が報土、ご本願に疑いをもった自力の行者が生まれる浄土の中の辺地が化土です。
 そのことを源信和尚は弁立(明らかに示)されたのだと親鸞聖人は述べられています。

 源信和尚は、44歳のころ、『往生要集』という書を著されました。
 『往生要集』は、和尚が属しておられた天台宗の立場に立って書かれたものですが、第5祖の善導大師の教えを受け入れて書かれているところに大きな特徴があると伺いました。『往生要集』は、比叡山で善導大師の教えを最初に取り入れた書物であり、後年法然聖人がこの書を高く評価された所以でもあります。

 この『往生要集』の中で、源信和尚は、執心牢固な専修の人が生まれるのが極楽国(報の浄土)、執心不牢固の雑修の人が生まれるのが懈慢(けまん)国(化の浄土)だとされ二土に生まれる原因の違いを明らかにされたのですが、ここで言われている「化土」は善導大師の時代に議論された報土、化土の「化土」とは少し違っていることを教わりました。
 善導大師の議論の中の化土は、阿弥陀如来の浄土が報土(真実の浄土)であるのか化土(凡夫のための仮の浄土)なのかという報化二土論なのですが、源信和尚は阿弥陀如来の浄土(報土)の中にもさらに報土と化土とがあるとされ、専修、雑修の得失を示されたのです。

(写真は、焼野海岸の夕日です)

 山陽小野田市にあるこの海岸は夕日が美しいことでも知られています。新聞をお配りしていて出遭いました。しばらく眺めていたものですから、その後、お宅に新聞をお持ちするのが日が落ちてからになってしまいました。

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266.お正信偈を読む(53):依釈段(30)/源信讃(1)

20161014源信和尚

 「お正信偈を読む」は七高僧の第6祖、日本の源信和尚(げんしんかしょう)について学びます。

[御文] 源信広開一代教 偏帰安養勧一切 (げんしんこうかいいちだいきょう へんきあんにょうかんいっさい)

[訓読] 源信広く一代の教を開きて、ひとへに安養(あんにょう)に帰して一切を勧(すす)む。

[訳文] 源信和尚は、釈尊の説かれた教えを広く学ばれて、ひとえに浄土を願い、また世のすべての人々にもお勧めになった。

 源信和尚は、942年大和国当麻(たいま)の里(現在は奈良県葛城市)に生れられました。7歳で父と死別、父の遺言により出家することとなり比叡山(延暦寺)に登られました。
 比叡山は、伝教大師最澄が入山し学問や修行を目的とした道場を建立された地です。伝教大師は、中国で天台の教義を中心に大乗、密教、禅を学んで帰国し、た比叡山を日本の総合的な仏教研究、修行の場とされました。その後、多くの名僧がこの比叡山で学ばれました。親鸞聖人をはじめとする鎌倉時代の各宗祖方も比叡山で学ばれ、新しい日本の仏教を開かれました。

 源信和尚は師の良源僧正のもとで学問に励み、早くからその秀でた才を認められていたと伝えられています。15歳のとき、天皇の勅命を受けて行われた講義は素晴らしいもので、大いに名声を博しその褒美として布帛(織物)などを授けられました。感激した和尚はその理由を記してその布帛を故郷の母に送られました。
 それに対して母からは、「私のことを思って贈り物を送ってくれた志はかたじけないけど、私がそなたを出家させたのは、そんな名声や地位を得るためではありません。私の後世を救って欲しいと思ったからです」という言葉と次の歌が添えられて贈り物は送り返されたということです。
 「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき」

 和尚はこの母の言葉によって、翻然として世の栄華や名声を求めることを断たれ、仏道の修行に向かわれることとなったと伝えられています。
 和尚は比叡山の横川(よかわ)にある首楞厳院(しゅりょうごんいん)の中の恵心院(えしんいん)に隠棲されました。そのことから源信和尚を恵心僧都とお呼びすることもあります。

 今回の2句は、親鸞聖人がその源信和尚のご一生を讃えられた言葉です。
 「一代の教え」はお釈迦さまが生涯でお説きになったみ教えです。
 「安養」は「心を安らかにし、身を養う世界」を意味し、阿弥陀如来のお浄土のことと伺いました。

(写真は、寺の源信和尚のご絵像です。)

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265.六連島西教寺さんにお参りしました

20161010西教寺2   20161010西教寺

 昨日、下関市の六連島の西教寺さんにお参りさせていただきました。

 西教寺さんは、「六連島のお軽さん」と呼ばれた女性がご縁を持たれたお寺です。
 このお軽さんを紹介した、伊藤智誠氏著の「妙好人めぐりの旅 親鸞聖人と生きた人々」というご本があります。下関市にこのような方がおられたということを知って、是非その地を訪ねたいものだと思っておりましたが、それが昨日実現しました。

 このご本によりますと、お軽さんは1801年に六連島で生まれ、1856年同じ六連島でご往生された方です。
 なかなか勝気な人だったようで、そのために婚期が遅れたというエピソードが同書に紹介されています。そんなお軽さんもやさしい青年幸七さんと結婚するのですが、幸七さんは行商に出ていた北九州で愛人を作って村に帰って来なくなったのだそうです。お軽さんのきつい性格に嫌気がさしたのではないか、と著者の伊藤氏は言っておられます。
   
 嫉妬と怒りに苛まれるような逆境に苦しむお軽さんは西教寺の当時の住職に救いを求められます。同書には住職がお軽さんに話した「幸七さんの浮気はあんたの為にかえってよかった」という言葉が記されています。強気のお軽さんですから、この言葉にカッとなって帰ってしまったこともあったそうですが、住職の言葉によって傲慢で勝気なお軽さんは変わっていかれたのだといいます。

 「きのう聞くのも今日また聞くも ぜひにこいよのおよびごえ」
 「よきこころあるかとむねをたずぬれば ただはずかしの心ばかりぞ」
 「私しゃ自在鉤 阿弥陀さまこざる 落としゃなさらぬ 火の中に」
 同書に紹介されたお軽さんのうたです。
 阿弥陀さまに見守られている私、それに気づかず傲慢だった私、そんな私でも阿弥陀さまは見捨てることはないということに気づかされた喜び、このようなことにお軽さんは気づかれたのでしょう。

 奉公に出した息子さんに宛てて書かれた手紙の一節です。
 「私もそなたも身は不定。今は一夜のかりの宿。やがてたがいの親里へかえるあいだの身のつとめ。朝は早起宵寝をせずに・・・」

 六連島は下関の竹崎渡船場から船で約20分、玄界灘に浮かぶ周囲約5キロメートルの島で、西教寺さんは六連島の桟橋から坂道を10分ほど登ったところにありました。
 現在は、島では花が盛んに栽培されていて、あちらこちらにビニールハウスを見ることができますが、お軽さんの頃は農業と漁業で生活を支えていたのだろうと想像される島です。

 実際に歩いて気づいたのですが、六連島では石垣は石を亀甲面で組み合わせたものではなく、平らな石を水平に積んだ形になっており、独特の風景となっています。西教寺さんもこのような石垣の上にありました。静かな環境で、お軽さんが通われた時代を偲ばせるお寺でした。

(写真は、独特の石垣と西教寺さん、および「私しゃ自在鉤・・・・」のうたと自在鉤)

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264.新聞版「壽福寺だより」を発行しました

壽福寺だより(2016年10月1面)  壽福寺だより(2016年10月2面)

 新聞版「壽福寺だより」の10月号を発行しました。明日からご家庭にお届けします。
 今月号の記事は次の通りです。

[1面]

 「秋法座をお勤めしました」
 「報恩講のご案内です」
 「ご連絡です」
  ・お取越しについてのご案内
  ・来年度年忌(1~3月)についてのご案内
  ・秋の褒章を受けられる方に
  ・山口別院の行事予定

[2面]

 「本山で伝灯奉告法要が始まりました」
  伝灯奉告法要のお勤めが始まったことをお伝えし、団体参拝以外に個人で参拝される方へのご案内やイベントのご案内をしています。
 「キッズサンガで秘密基地を作りました」
  子供会行事の報告です。壽福寺からは1名参加いただきました。
 「ご存知ですか(8)報恩講」
  シリーズ「ご存知ですか」はしばらく間が空いていましたが、今回は報恩講やお取越しについて説明しました
 「『宗門総合振興計画懇志』ご進納のお願い」

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263.オバマ大統領のスピーチ(5)

 20161003新報s 20161003新報1s    

 この切り抜きは、「本願寺新報」の9月20日号のものです。

 今年5月にオバマ大統領が広島で行ったスピーチの中に、広島で被爆死した12名の米軍捕虜の記録を調べた被爆者の男性に触れた言葉がありました。大統領のスピーチは次の通りでした
 「原爆を投下したパイロットを許した女性がいます。本当に憎んでいたのは戦争そのものであることに気づいたからです。この地で命を落とした米国人の遺族を探し出した男性がいます。彼らが失ったものは自分が失ったものと同じだと信じたからです」

 大統領はスピーチの後にこの男性を抱擁し、その映像が世界に伝えられました。

 「本願寺新報」の記事は、この遺族を探し出した男性森重昭さんが広島市の浄土真宗本願寺派の光西寺さんのご門徒さんだということを伝えています。

 以下は、「本願寺新報」の記事とその他の情報によります。

 森さんは歴史が好きで、歴史を教える仕事につきたいと考えられたこともあたのだそうですが、原爆の被害について正確な情報が知りたいと思ったのがその活動のきっかけだったと言われます。原爆の被害者の中に米兵の捕虜がいたという情報を聞き、「どこの国であっても、みんな家族を思う気持ちは同じ。残された者の痛みには敵も味方もない」(本願寺新報)と、1975年、38歳の時に被爆死した米兵の調査を始められたということです。

 米国政府は1983年までは捕虜が広島で犠牲になったことを認めていなかったそうですから、森さんは米国からの支援もなく、日本でもなぜそのような活動をするのかという冷たい目を向けられながら、一人で孤独な作業を始められました。
 犠牲になった12名の米兵の名前を調べるだけではなく、、その遺族に自分が調べた情報を伝えたいと考えられた森さんは、米兵のファミリネームを頼りに遺族を探しだすという気の遠くなるような作業を進められたのだそうです。
 このような大変なご苦労の結果、犠牲になった米兵12名全員の遺族が判明したのは2009年、森さんが活動を始めてから34年が経過していました。
 森さんは、併せて遺族に死没者名簿に登録を申請するように働きかけ、記念碑を設置するなどの活動も行われました。

 森さんの言葉に「残された者の痛みには敵も味方もない」とあります。
 「支配したいという基本的な本能」(大統領のスピーチ)から逃れることができない私たちが、科学技術によって破滅的な力を持つようになったのが現在の戦争の姿だと改めて思います。このような自らを絶滅させることができるような強大な力を持った私たちが、支配したいという基本的な本能、煩悩にとらわれ続けているのだということに思い至ることが必要だと改めて実感させられます。

 この森さんの活動を描いた「灯篭流し(Paper Lantern)」というドキュメンタリー映画が公開されます。この映画を監督したバリー・フレシェット氏は被爆米兵の一人ノーマン・ブリセット氏の親友の甥にあたるのだそうです。

(写真は、「本願寺新報」の記事です)
 字が小さくて読みにくくなっていますが、申し訳ありません。

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