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262.ご紹介します(12):「親鸞聖人と浄土真宗」


20160930歴史街道
   20160930歴史街道2

 前回に続いての書籍紹介となりますが、PHP研究所から発行された月刊「歴史街道」の10月特別増刊号をご紹介します。

 本のタイトルは「『伝灯』の時を迎えて 親鸞聖人と浄土真宗 今こそ伝えたい教え」で、次のような構成になっています。(記事の順番は実際とは変えてあります)

 総論 「『伝灯』の時、現代に生かしたい親鸞聖人の心」(山折哲雄氏)
  
 「誰もが救われる道を求めて・・・親鸞聖人の生涯」(岡村喜史氏)
  前編 本願に帰す
  後編 弟子一人ももたず

 「乱世に光を!本願寺中興の祖・蓮如上人の生涯」(金龍静氏)
 「味わいたい親鸞聖人のことば」

 「ありのままに、ひたむきに」(前回ご紹介した専如ご門主のご著書の抜粋です)

 「親鸞聖人の人生をたどる」(親鸞聖人にかかわる年譜と地図です) 
 「浄土真宗と西本願寺」(親鸞聖人と浄土真宗、西本願寺にかかわる資料です)

 「『南無阿弥陀仏』の意味は? Q&A 親鸞聖人が目指したもの」(天岸浄圓氏)
 「重んじるお経は?死をどう捉える? Q&A 浄土真宗の生き方・考え方」(天岸浄圓氏)
 「日常、葬儀、年間行事・・・ Q&A あの仏事には、こんな意味がある」(末本弘然氏)

 「龍谷大学龍谷ミュージアムに見る『浄土真宗と本願寺の名宝』」
 「西本願寺の美」
 「訪ねてみよう『西本願寺マップ』」

 コラム1.親鸞聖人の主な著作
 コラム2.「親鸞」という名前の由来
 コラム3.弁円の涙

 10月から勤修が開始される伝灯奉告法要に合わせて発行された書物ですが、聖人のご生涯、み教え、浄土真宗の歴史などがまとめられており、Q&A集も付されるなど気配りを感じさせる本です。

(図は、表紙と最初のページの親鸞聖人のご絵像です。)

 個人的なことですが、宗門の学校に通っていたときに岡村喜史氏は「真宗史」のご担当で、一年間レクチャーをいただきました。今回の本では18ページにわたって聖人のご生涯を紹介しておられますが、当時の授業を思い出しながら読ませていただきました。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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261.ご紹介します(11):「ありのままに、ひたむきに」

20160926本   20160926本2

 今日の書籍ご紹介は、「ありのままに、ひたむきに 不安な今を生きる」というご本です。

 専如新ご門主が初めて著されたご本で、9月9日に発行されたところです。
 内容は次のようになっています。

  まえがき
  第1章 一瞬一瞬を精いっぱい生きる
  第2章 困難な時代をともに生き、ともに歩む
  第3章 現代に生きる仏教の教え、親鸞聖人の教え
  対談 ぶれることなく思いを伝える(ガンバ大阪遠藤保仁氏との対談)
  対談 親と子が安心できる社会に (弁護士の大平光代氏との対談)
  あとがき
  龍谷山本願寺について

 本のタイトルになっている、「ありのままに、ひたむきに」がこの本を通じて流れている伏流のように感じながら読みました。

 「病気や死をプラスマイナスとらえるのではなく、ありのままに受け容れていく」
 私たちの力が及ばないことも含めて、思い通りに行かないことがたくさんあります。これをマイナスと受け止めるのではなく、ありのままに受け容れて、その中で、どのように生きるのかが大切だと示しておられます。
 前ご門主の書かれた「人生は価値ある一瞬」の中の「『自分探し』に惑わされない」という文章を思い出しました。前ご門主も、「今の自分は本当の自分ではない」という焦りに似た思いから出てくる「どこかにもっと素晴らしい本当の自分があるはずだ」という思い込みについて指摘されていました。
 この思い通りにならない現実の中で、それでもそのことから逃げることなく、ひたむきに努力することの大切さを言われているのだと思います。

 「死後のことをニコニコ話せる人、生に固執して死をいやだと思う人、どちらが生きることを大切にしているのだろう」
 死は私たちが逃れることができないものだということを受け容れて、だからこそ今の一瞬を力一杯に生きるという生き方の大切さを言われているのだと思います。ここでもやはり、老、病、死をマイナスととらえて目をそらすのではなく、しっかりと意識して今を生きることの大切さ、と同時にやはりその難しさ、も改めて感じます。

 「仏さまを特定の場所にあるもの、かたちあるものとしてとらえるのではなく、『はたらき』として受け止めてほしい」
 ご門徒さんに阿弥陀仏についてお話しする場合も、木像や絵像の仏さまを前にお話しすることが多く、わかりやすくということもあって、ついそこにおられる仏さまについて話をしていたのかもしれません。
 蓮如上人が「木像よりは絵像、絵像よりは名号」と言われたとご門主も記されていますが、蓮如上人は南無阿弥陀仏という名号の「はたらき」のことを示されたのではないかと思い至りました。

 遠藤選手と大平弁護士との対談では、若い人や子供の育て方についての会話が印象に残りました。
 子どもたちをのびのび育てることが難しくなっている現在の状況、しかしそれが非常に大切だということ、お寺がその場になる可能性を持っていること、などが語られていました。多くの子どもたちが歓声をあげて走り回っていた、かつてのお寺の姿を思い浮かべました。

 「自然を私たちと切り離して、そこをゴミ捨て場にするのは、日本的な考え方ではない」
 オバマ大統領の広島での演説に触れて、ご門主はこのように述べておられます。演説でオバマ氏は、「自然を自らと区別して自らの意思のために変化させる能力」が人類の特徴だと言いました。ご門主は、西欧での自然と人間の関係は、互いに切り離された関係にあり、私たちが感じている自然と人間が融合している姿、自然に対して私たちが持っている畏怖の念は、西欧のとらえ方とは違っているのだと述べておられます。
 オバマ氏の演説について私たちも見てきました(オバマ大統領のスピーチ)が、自然と人間の関係についてオバマ氏が述べていることについては注視していませんでした。
 ご門主が言われるように、この観点を持つことによって原子力発電、特にその廃棄物についてどう考えるのかという重要な視点を得ることができるよう思われます。

(PHP研究所から発行されたご本です)
 伝灯奉告法要の団体参拝者へは記念品として配られる予定だということです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

260.お正信偈を読む(52):依釈段(29)/善導讃(5)

20160923ハナズオウ1   20160923ハナズオウ

 ご一緒に学んできました善導讃も最後の3句になりました。

[御文] 慶喜一念相応後         (きょうきいちねんそうおうご)
     与韋提等獲三忍 即証法性之常楽 (よいだいとうぎゃくさんにん そくしょうほっしょうしじょうらく)

[訓読] 慶喜(きょうき)の一念相応(そうおう)して後(のち)、
     韋提(いだい)と等しく三忍(さんにん)を獲(え)、すなはち法性(ほっしょう)の常楽(じょうらく)を証(しょう)せしむといへり。

[訳文] (善導大師は)如来の本願にかなうことができたそのときに、韋提希と同じく喜忍・悟忍・信忍の三忍を得て、浄土に 往生してただちにさとりを開く」と述べられた。

 前回の2句に続いた部分です。
 阿弥陀如来の光明と名号によって、他力の本願を信じさせていただいた人は、本願を喜ぶ心が起こったその時に韋提希夫人(いだいけぶにん)と同じように三忍を得ることができ、命が終わるその時に直ちに浄土に往生し悟りを得ることができる、と善導大師はお示しいただいた、と親鸞聖人は讃嘆されています。

 この「三忍」というのは訳文にもありますように、喜忍(法を聞き、安心してよろこぶ心)、悟忍(真実のいわれをはっきりと知る心)、信忍(本願を疑いなく信じる心)のこと、心が落ちつけられることとお聞きしました。

 聖道門の諸師に対して善導大師が異を唱えられた三つめは、九つの格付けで最も低いとされる下々品の凡夫でも念仏によって往生できるとされたことです。

 聖道門の諸師は、往生を遂げるためには願をおこしそれを達成するための行が必要であるとし、念仏には願があっても行が欠けているとしていました。諸師からすると、『観無量寿経』に「下々品の凡夫が十声の念仏によって直ちに極楽世界に往生を得る」とあるのは、凡夫を修行精進に向かわせるための方便であるということになります。

 善導大師はこれに対して、南無阿弥陀仏の六字を解して、「南無」というのは帰命であり、発願回向の義であり、「阿弥陀仏」はその行であるとされ、念仏には願と行がともに備わっているから凡夫でも念仏により往生を得ることができるのだと主張されたのです。

 親鸞聖人は、善導大師の教えを受けられ、さらに、阿弥陀如来の名号のはたらきが衆生の信心となり、称名となってあらわれるのだとされました。
 従って、私たちが称名念仏することが往生の因ではなく、称名念仏は、阿弥陀如来によって願も行も成就された名号のいわれを信じさせていただいた時に、その信心が私たちの口に出たものだとされました。

 これまで学んできましたように、善導大師は「観無量寿経」に関する聖道門の諸師方の解釈の誤りを正し、下々品の凡夫でも念仏によって往生できるということを示され、浄土教の大きな流れをおつくりになられたのです。

(写真は、先日の境内のハナズオウです)
 一時期少し肌寒さを感じるような陽気があって再び暑さが戻ってきたことで、花を咲かせたのでしょうか?春とは違って、葉が茂っている中で咲いていますからちょっと様子が違って見えます。
 「狂い咲き」という言葉がありますが、この言葉の語感は余り良くないですね。調べてみると、英語では、「blooming out of season」という表現がありました。季節外れの開花、という所でしょうか。

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259.伝灯奉告法要のご案内です


20160919ポスター 

 前回、9月12日に山口別院で開かれた「奉讃伝灯作法」の研修会についてご報告しましたが、伝灯奉告法要の概要についてこれまでご連絡していなかったことに気づきました。
 以下、その概要についてご連絡いたしますので、団体参拝や個人でのご参拝のご参考にしてください。
 (このブログの「カテゴリ」に「伝灯奉告法要」という項目を加えました。この法要や団体参拝に関する記事をここに入れていきますのでご利用ください)

○伝灯報告法要とは 
 宗祖・親鸞聖人があきらかにされた「浄土真宗のみ教え」(法灯)が、第25代となる専如ご門主に伝えられたことを、仏祖の御前に告げられるとともに、お念仏のみ教えが広く伝わることを願い、勤められる法要です。
 一昨年6月6日に本山において法統継承式がとり行われて専如新ご門主が就任されておられますが、今回の伝灯奉告法要はそのことを仏祖の御前に奉告されるお勤めです。

○法要の期間
 今年10月1日より来年5月31日まで、8期80日の午後に本山にて勤修されます。ただし、4月18日のみは大谷本廟でお勤めされます。
 (宇部北組では、この法要に参拝する団体参拝を企画し、4月17日に参拝することで現在参加者を募っているところです)

○法要の次第
 日程説明、挨拶、布教 13:45~14:00
 法要         14:00~15:00(内容については、前回のこのブログにご紹介しています)
 「伝灯のつどい」   15:00~15:30

○関連する行事
 帰敬式 午前7:00~7:30および16:30~17:00におかみそりを受けることができます。

○布教伝道
 記念布教 上記の法要に先立って行われる布教です
 常例布教    昼(12:15~30分)、夜(19:00~40分) 聞法会館1階の総会所で行われます
 「布教リレー」 9:00~16:00 境内のお茶所で行われます

○個人での参拝(一般参拝)
 団体参拝とは別に個人で参拝される方、予め申込いただきますと当日参拝席を確保することができます。寺までご連絡ください。

○その他の関連事項
 その他次のような協賛行事が計画されています。詳細については寺までお問い合わせください。
 ・伝灯奉告記念参拝 人生の節目などを記念して参拝される方
 ・初参式
 ・梵鐘体験 お晨朝、奉告法要に先立って梵鐘撞きを体験していただけます
 ・書院、飛雲閣特別公開
 ・慶讃茶席 「飛雲閣」でお茶席を体験いただけます 
 ・「龍谷ミュージアム」特別展
 ・北境内地売店、白洲施設 法具や京都土産のお店が出店します

(図は、奉告法要のポスターです)

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258.「奉讃伝灯作法」研修会に参加しました

20160916散華 

 去る9月12日、山口別院で「奉讃伝灯作法」研修会が開催され、参加しました。

 当日は、本山から法式本部の中原敬恵師をお迎えして、10月1日から勤修される伝灯奉告法要のお勤めと作法について学ぶことができました。

 法要は、次の「奉讃伝灯作法」により進められます。

  行事鐘

  結衆、列衆入堂
  ご門主入堂(阿弥陀堂)
   登礼盤
   散華(念仏)
   表白
   正信偈・依教段
   降礼盤

  ご門主転座(御影堂に移られる)
   登礼盤
   正信偈・依釈段
   念仏(四句)、和讃(二首)、念仏(四句)、和讃(二首)
   念仏(十二句)
   回向句(「自信教人信」以下の4句)
   降礼盤
  ご門主退出

  その後「信心のよろこび」を一同で拝読
  
 この「奉讃伝灯作法」は今回の奉告法要のために定められたもので、法要期間を通じて用いられます。そのうち、「散華」の部分は新たに作られたものです。

 お勤めの後に一同で拝読する「信心のよろこび」については次の通り紹介がありました。

  「親鸞聖人は仰せになる
(以下一同で拝読)
   今、すべての人びとを救おうという阿弥陀仏の本願のお心をお聞きし、
   愚かなる無明の酔いも次第にさめ、
   むさぼり、いかり、おろかさという三つの毒も少しずつ好まぬようになり、
   阿弥陀仏の薬をつねに好む身となっておられるのです」

 この研修会に参加して、法要がいよいよ近づいたということを実感しました。

(図は、「奉讃伝灯作法」で新たに定められた「散華」の部分です)

((このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

257.お正信偈を読む(51):依釈段(28)/善導讃(4)


20160912吉部
   20160912吉部2

「御文」 開入本願大智海 行者正受金剛心 (かいにゅうほんがんだいちかい ぎょうじゃしょうじゅこんごうしん)

「訓読」 本願の大智海(だいちかい)に開入(かいにゅう)すれば、行者まさしく金剛心(こんごうしん)を受けしめ、 

「訳文」 (善導大師は述べられた)「本願の大いなる智慧の海に入れば、行者は他力の信を回向され、

 親鸞聖人が善導大師を讃嘆された善導讃は残り5句となりました。親鸞聖人は、この5句で、善導大師が示された、南無阿弥陀仏の「名号」が因となり、阿弥陀如来の智慧である「光明」が縁となって他力の本願をいただいた私たちが得ることができる利益についてお示しいただいています。
 
 今回の2句では、全ての人びとを救うと誓われた阿弥陀如来の深くて広い智慧の働きが「海」にたとえられていて、私たちがこの海に入れば私たちは「金剛心」を受けると大師は示されます。
 この「金剛」はダイヤモンドのように堅固で壊れないもの、「金剛心」は決して破られることのない他力の信心を指しています。
 「行者」は念仏の行者、他力の本願をいただいた私たちのことになります。

 『観無量寿経』について、善導大師がそれまでの聖道門の諸師の解釈に対してその誤りを指摘された二つめは、阿弥陀如来とその浄土に関する理解についてだったとお伺いしました。

 聖道門の諸師は、真実の仏や浄土は凡夫には見えないもので、自力の修行を積んで仏の智慧に近づいたものが初めて目にすることができるのだとされてきました。従って凡夫が知見することができる仏や浄土は、凡夫のための仮の仏であり仮の浄土であって真実の仏や浄土よりも劣るものだとされました。

 これに対して、善導大師は、真実の仏とは衆生を救う仏であると主張されました。大師は、「十方衆生を往生させることができなかったら、私は仏にはならない」と誓われて完成された阿弥陀如来こそが真実の仏であって、決して仮の仏などではないのだと説かれました。

 前回学びましたことを含めると、善導大師は、それまでの聖道門の諸師方の理解に異を唱えて、『観無量寿経』で説かれた救いの対象は凡夫であり、凡夫を救っていただく阿弥陀如来は真実の仏であり、その浄土は真実の浄土であるということをお示しいただいたことになります。

(写真は、先日出遭った夕日です)

 棚田の稲が実り、もうすぐ稲刈りの時期を迎えます。この時期の夕刻の風景は一日の終わりを感じさせ、ホットさせてくれます。

(このブログについて、字が小さくて読みにくいというご意見をいただきました)
 
 まず、ブログを読んでいただいていることにお礼を申し上げ、併せて、ご意見をいただいたことにも重ねてお礼申し上げたいと思います。
 なのですが実は、ブログの記事が画面に表記される場合、こちらで字の大きさを変える方法がよく分からないのです。ひょっとすると、こちらの作成する方での設定はできないのかもしれません。もう少し調べてみますが、恐れ入りますがとりあえずお使いのパソコンの画面で字を拡大する方法で調整していただければと思います。
 私の端末では、歯車状の「ツール」のアイコンをクリックして拡大縮小ができます。
 ただその場合、拡大された写真がずれてしまう、というような現象が起きる可能性もありますが・・・

 またお気づきのことがありましたら、ご指摘いただきますようお願いいたします。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

256.ご紹介します(10):「ユマニチュード入門」

20160909本   20160909本2

 久し振りの「ご紹介します」ですが、今日は「ユマニチュード入門」という本をご紹介します。

 帯に「魔法?奇跡?いえ技術です。」とありますが、認知症のケアの新しい技法として注目を集めている「ユマニチュード」を紹介した本です。
 この本のことについて知ったのは、週刊文春に連載されている「阿川佐和子のこの人に会いたい」という記事を読んだことがきっかけです。その対談は、阿川さんとこの技術の創始者であるフランス人のイヴ・ジネスト氏よび日本への紹介者である本田美和子医師とで行われたものでした。
 その中で、このユマニチュードの技術を理解して接することにより、それまで攻撃的であったり、自閉的であった認知症の患者さんが劇的に変わるのだということが紹介されていました。

 「ユマニチュード」はフランス語で「人間らしさ」という意味だそうです。
 ユマニチュードの4つの柱がこの「技術」の大切なものとして紹介されています。それは、「見る」、「話す」、「触れる」、「立つ」という4つことです。

 「見る」 赤ちゃんを見つめる母親のまさなざしのように、相手に対して正面から水平に目を合わせることで、相手の存在を認めているというメッセージを送ることができます。
 「話す」 話しかけても相手から反応がない場合などでは、話すことそのものがされなくなってくるという例が取り上げられていました。母親が赤ちゃんに話しかけるようにポジティブな言葉で話しかけることで、相手の存在を認めているということを伝えることができるとされていました。
 「触れる」 ポジティブな触れ方は、相手に優しさを伝える大切な技術だとされています。これも母親が赤ちゃんに触れるときのように、広い面積で、ゆっくりと、優しく相手に触れることが大切だとされていました。
 「立つ」 立つ、歩くということは身体の機能を維持するために重要な役割を持っていますし、また人間としての尊厳にかかわる大切な働きだといいます。高齢の認知症の患者さんでは、転倒することを恐れる余り、ベッドに寝た切りにしてしまっている例が多いのだそうです。立つことに対する適切な支援も重要だとされていました。 
 
 ここで言われていることは、これらの接し方を通じて認知症の患者さんに人間としての尊厳を取り戻してもらうことだということです。
 私たちは、この世に生れて来て2つの「誕生」を経験するということが紹介されていました。最初の誕生は動物としての誕生(=出生)、2つ目の誕生は社会的な存在として認知されるという誕生です。

 そして認知症というのはこの2つ目の社会的な存在という誕生をなくした状態だということです。そのような患者さんに対して、手間がかかる、相手が嫌がるなどという理由で、正しく見ること、話しかけること、触れることをしなくなり、また立ち上がり歩くことを制限しているのがこれまでの介護、看護だったのではないか、ということが言われていました。患者さんの気持ちを無視して、効率的に介護を進めようとすることが患者さんに恐怖感を生じさせ、拒否や抵抗、暴力などの形で現れているということです。

 この本を読んで思ったことなのですが、これらの相手の存在を認める行為は認知症のお年寄りに対してだけではなく、私たちが日常的に接する人に対するときも大切なことではないか、ということです。
 「触れる」は時と場合を考えなければなりませんが、相手を見る、話しかけるという2つは、相手の存在を大切なものとして認めているということ伝える重要な「技術」だということにも(反省を込めて)思い至りました。

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255.秋の法座をお勤めしました

20160905集合写真 

 昨日9月4日、ご講師に上原泰教先生をお迎えして秋の法座をお勤めしました。

 上原先生は2013年の報恩講以来久し振りのご出講でした。先生は今年88歳になられたのですが、お元気な声でお話になり、一同は先生のお話しに引き込まれるようにしてお聞きしました。

 先生の子供時代からのご友人の逸話が印象に残っています。
 その友人は非常に優秀な方だったそうですが、仏教や宗教に対して不信感を持っておられ、上原先生のお話しにも耳を貸そうともされなかったということです。それでも気のあうお二人は酒を酌み交わす間柄でもあったそうです。
 その友人は後にがんを患い、思わぬところからご自身の死期を知ることになります。そんなことから、上原先生に仏教の話を聞かせてもらいたいと何度も言ってこられたのですが、上原先生はお会いにならなかったと仰っておられました。
 濁った水の入った盃に清い水を注いでも、盃の水は清くはならない、一度盃の濁った水を全て流し捨ててから清い水を注いで初めて清い水をたたえることができる、という先生の言葉が強く印象に残っています。先生はその友人が誤った見方を自分から捨て去ることを待っておられたのだと伺いました。親しいご友人ですから、辛い思いを持ちながらその時をお待ちになっていたことだと思います。

 その後、先生は期をみて友人に「正信偈」のお話しをしていかれたのだそうです。その友人の心に先生がお話しされる「正信偈」のお話しは沁みとおっていったことと思われます。
 その友人は死を前にして「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」の句を口にされていたと、先生は仰っておられました。ご友人は、「自分は煩悩にさえぎられて阿弥陀如来のお救いの光を見ることができずにいたけれど、それでも如来の光は私を捨てずに照らしていただいていたのだ」ということに思い至り、お浄土に帰られたのだと伺いました。

 「煩悩にまなこがさえぎられている」ということを先生はご友人のお話しとしてお話しいただきましたが、翻って考えてみますと、私たち自身の常の姿だということに気づかされました。それは、おれがおれがと自らを頼み、むさぼり怒る私の姿。濁った水が盃にたまる一方の私の姿です。
 このような姿に気づいてもらいたいと、先生はご自分の体験をお話しいただいたのだと思い至りました。
 
 今回のお斎の準備は仏教婦人会の伊佐地区の会員の方にお願いしました。杉山会長、井上副会長を含む7名の方に、秋の法座伝統の「そうめん」の準備、お給仕、後片付けをお願いしました。美味しいそうめんをみなさんおかわりしていました。
 有難うございました。

  20160905仏婦
お斎の準備でお世話になった仏教婦人会の方々です。左から、岩崎さん、井上さん、井上副会長、杉山会長、石川さん、伊勢野さん、古川さんです。

 また、今回予定していました「勉強会」は、近づいている台風に対する準備も必要だろうということで、残念ながら中止としました。

(写真は恒例の集合写真です。本堂での撮影となりました)

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254.年末の別院の行事です


20160902こども行事案内
 

 本願寺山口別院で年末に計画されている行事をご案内します。
 この催しは山口別院30周年記念事業として開催されるものですが、これを機会に子供さんにもお寺に対して親しみを持っていただければ嬉しいです。

 ○名称  「子ども報恩講&寺フェス」
 ○開催日時 12月3日(土) 10:00~15:00
 ○場所   山口別院
 ○内容   
  午前:開会式、法要、サンドアート、ご法話、閉会式
  午後:寺フェス
 ○参加費  無料

 サンドアートは、砂を使って絵を描いていくもので、今回は船本恵太氏が結成されたSILTというグループのパーフォーマンスを見せていただきます。
 私もこれまでサンドアートは観たことがありませんので、どのようなものなのか楽しみですね。

 午後の寺フェスでは、念珠作りやバルーンアート、けん玉教室などの楽しい催しが企画されています。

(図は行事の案内です)

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