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183.「平和に関する論点整理」(2)


P1160143.jpg

 前々回の記事に記しましたように、浄土真宗本願寺派総合研究所から発表された「平和に関する論点整理」は「まえがき」及び、「素朴な問い」という短い文章の後に続く10章で構成されています。

 今回はこの最初の章の「Ⅰ.仏教の考え方」について考えてみたいと思います。Ⅱ章以降の章では、たとえば第Ⅱ章が「仏教の説く平和」となっているようにその見出しに「平和」という言葉が入っているものが多いのですが、第Ⅰ章は「仏教の考え方」という見出しと次の文章で始まっています。

Ⅰ.仏教の考え方
 「仏教では、どのようにものを見て、どのように考えて、どのように行動するのでしょうか?」
 ・人間には限りない欲望、根本的な愚かさがあり、それが自他の対立を生む
 ・煩悩は簡単に克服できないため、愚かさへの気づきが念仏者の行動の原点となる


 Ⅱ章以下で「平和」というものを考える場合の出発点として、私たちがどのような存在であり、なぜ平和の実現が難しいのかということをこの第1章で確認しておこうとされているように思います。

 「論点整理」にも述べられていますが、「浄土真宗本願寺派宗制」の前文に「(本宗門は、)あらゆる人々に阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝え、もって自他共に心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献するものである。」と宣言されています。
 裏返してみれば、現在の社会はこの「自」と「他」とがともに心豊かに生きることができる社会にはなっていないということを示しています。「自」と「他」が互いに対立しあい、非難しあい、そして傷つけあうというのが現実の社会であり、しかもその状況が改善に向かっているとはとても言い難いということを認めざるを得ない状況にあります。

 このような中で、平和というものを考えるということになるのですが、平和の実現が難しいのは、私たちには「限りない欲望、根本的な愚かさがあり、それが自他の対立を生む」のだとこの「論点整理」で述べられている通りです。
 そして一番に難しいことは、私たちが私たち自身が抱えているこの欲望、愚かさ、煩悩に気づいていないということだと思います。

 先にご報告しました公開講座「寺院と公共性」の中でご講師の藤丸智雄氏が言われていた、「戦争は善人がするもの」という言葉が改めて強く思い起されます。戦争は当事者が、自分は善人だ、正義のために戦っているのだと思っていないとできないということです。
 極端な言い方をすれば、お互いが「悪」を抱えているということについて認めあうことができれば、戦争は起きないのだともいえるのかもしれません。

 このことをⅠ章では「煩悩は簡単に克服できないため、愚かさへの気づきが念仏者の行動の原点となる」とされています。
 この愚かさへの気づきは、「阿弥陀如来の智慧と慈悲」の光の中で自身の欲望や愚かさの姿を見つめなおすことによって可能になるのだと思います。

(写真は、光市室積海岸の夕日です)
 室積海岸は、夏場は海水浴場として大変な賑わいを見せるところですが、この時期、静かな夕暮れ時を迎えていました。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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182.お取越しをお勤めしました


20151225焼野海岸

 11月末からお取越し(ご門徒さんのご家庭でお勤めする報恩講です。本山の御正忌報恩講に先立って、取越してお勤めすることから「お取越し」と呼ばれています)のお勤めにご家庭に伺っていましたが、先日予定を終了しました。

 11月30日の記事で11月16日に急逝されたご門徒さんのことを書きましたが、その約1か月後の12月13日にもう一人のご門徒さんが突然おなくなりになりました。

 このお二人は年齢も1歳違いで親友といえる仲のよい間柄だったそうです。先に亡くなられた方をAさん、後に亡くなられた方をBさんと仮にお呼びすることにしますが、お二人はよくお酒を一緒に飲んで話するのが好きだったそうです。その後お二人は決まってそれぞれのご家族にその楽しかった話をされていたということです。
 Bさんは、農作業などでは指導役だったようで、草の刈り方から始まり、畑の耕作、柚子の栽培とAさんにアドバイスしておられたようです。

 そんなAさんが亡くなられて、Bさんは随分気落ちされていたのだそうです。
 Aさんが亡くなられてしばらくして、Bさんは柚子と柿を携えて、Aさんの奥さんを訪ねられたことがあったということです。Aさんが育てていた柚子だけど放っておいたら猿に持っていかれるから持ってきたよ・・と言って奥さんに渡されたのだそうです。

 このお話を奥さんからお聞きして(まだBさんが亡くなる前にです)、Bさんのやさしさを改めて感じたことを覚えています。
 Bさんは、かつては総代さんとして寺を支えていただきました。またその後、総代を降りられてからも、総代さんにお願いしている草刈などの作業にはいつも参加していただいていました。
 Bさんが持っておられた動力付きのブロワーは落ち葉や刈った草を動かすのに力を発揮していて、いつもお礼を言っていました。すると、Bさんはにこにこ笑顔で「いやあ、好きで来とるんですけえ・・」というようなことを言っておられました。
 Bさんのご家族にお聞きすると、Bさんはこの草刈を本当に楽しみにしておられたのだそうです。みんなに会えるのが楽しみだったのだそうです。

 その後、Bさんは亡くなられる少し前に、筍を持って再びAさんの奥さんを訪ねられたということです。今の時期ですから筍そのものは非常に珍しいもので、どこか限られた場所で採れたのだとBさんは言っておられたそうですが、とてもおいしい筍だったと奥さんは言っておられました。
 その時、Bさんはやはり元気がないように見受けられて、奥さんは気がかりだったそうです。

 今年のお取越しにBさんのお宅に伺った時には、Bさんは所要でおられずにお会いできませんでした。でもその後、Bさんが亡くなる2,3日前でしたが、Bさんのお宅の前を車で通った時に、少し離れた場所におられるBさんの姿を見かけました。それで車を止めて車の中からですが会釈をして手を振りました。Bさんも気づいていつもの笑顔で挨拶されました。
 それがBさんを見かけた最後になってしまいました。あの時一言でも声をかけて、話ができていたら・・・と今でも残念に思っています。

 Aさんの時もそうでしたが、お二人ともあんなにいい笑顔をしておられたのに、もうその笑顔を見ることができなくなったのです。
 Bさんのお宅の周辺には、今では耕作する人がいなくなったり、離れて行かれたり(Aさんもそうなんですが)した田や畑があります。これまではBさんが黙々と草刈をしておられたのだそうですが、もうその作業をする人もいなくなりそうです。

 「死と生は紙の裏表」と法座でお聞きした言葉が再び実感となりました。

(写真は、山陽小野田市の焼野海岸の夕焼けです)
 新聞「壽福寺だより」をお配りする途中にたまたま通りかかりました。この海岸から眺める夕日は雄大です。

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181.「平和に関する論点整理」

20151221日ノ岳

 前々回の記事でお伝えした公開講座の中で、ご講師の藤丸智雄氏が今回公開された「平和に関する論点整理」策定に当たって中心的な役割果たされた方だということをお伝えしました。
 これから数回にわたってこの「平和に関する論点整理」の内容を見ていきたいと考えています。
 
 この問題を考えるに当たって思い返さなければならないことは、「平和」の問題は自分自身に関わることだとして考えることだということです。
 このような問題、簡単には結論を出すことが難しい問題、については私たちは、つい「この問題についての○○の見解を聞きたい」とあたかも自分とは別の誰かが方針を出してくれることを期待しているような発言をしてしまいます。しかし、このような対応が、この大事な問題が私たちの手を離れて独り歩きすることを許し、私たちがそれに引きずられる原因になっていたのだということを思い起さなければならないと思います。。

 この「平和に関する論点整理」は浄土真宗本願寺派総合研究所から発表されたもので、「まえがき」と「素朴な問い」という短い文章およびそれに続く10章とで構成されています。

 「まえがき」では、宗門が「先の大戦において積極的に(戦争に)加担したことに対する反省のもと、非戦平和の課題に対して取り組んできた」ことを受けて、「予断と偏見を排しつつ、宗門内外のさまざまな意見をとりあげ、問題の所在を明らかに」するものであるが、「宗派としての最終的な見解を示したものではない。」とされていて、平和についての積極的な取り組みの機縁としてほしいということが述べられています。

 続く「素朴な問い」では、「隣国が武力で日本に攻撃してきたら、」「命がけで敵の命を奪ってでも日本を守りますか?」。「同盟国が侵略された時には、」どうしますか?武力を用いますか?といった身近な素朴な疑問が提起されていて、そのことを考えるために、この「論点整理」ではあえて複数の、中には仏教者として認めがたい意見も含めて複数の意見を提示したとされています。
 このように、現在の世界情勢の中で日々起きてくる平和の問題について仏教者・念仏者としてどのように対応すべきなのか、という問いかけがなされています。

 ご紹介した「公開講座」でご講師が言われた次の趣旨の言葉を改めて思い起しています。
 「私たちは、お釈迦さまのみ教えとそれとは違っている現実のはざまで生きています。その相容れない両者の矛盾についてそれから目をそらすのではなく、矛盾の中で生きていかなければならないことを慙愧の思いで常に認識し、それでもどうすれば少しでもお釈迦さまのみ教えに近づくことができるだろうか、と考え抜くことが大事です。」

(写真は、今秋撮影した日ノ岳からの眺望です。)
 日ノ岳の山頂はご覧のようにススキが一面にあって独特な雰囲気になっています。

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180.来年の行事計画です

20151218寺雪景色

 新聞でもご連絡しましたが、来年の壽福寺の行事計画です。

 ○法座

  春季永代経法要
   日時 3月12日(土)(午前)
   ご講師 宇部北組 浄誓寺 鶴山 景子 師
  
  降誕会
   日時 5月3日(祝日)(午前)
   ご講師 大津東組 清福寺 林 正文 師

  夏法座 
   日時 7月10日(日)(午前)
   ご講師 宇部小野田組 明照寺 岡原 弘和 師

  秋法座 
   日時 9月4日(日)(午前)
   ご講師 大津東組 正福寺 上原 泰教 師

  報恩講 
   日時 11月6日(日)(午前・午後)
   ご講師 厚狭西組 願生寺 山名 真達 師

 いずれも午前10:00からです。夏法座以外ではお斎を準備いたします。また、報恩講以外では、終了後に勉強会を開催する予定です。
 林、岡原両師には初めてのご出講となります。

 ○その他の行事
  宇部北組連続研修会
   6月11日(土)の第8回研修会の会場は壽福寺の予定です。

  宇部北組仏教婦人会連盟
   4月7日(木)に西万倉の教善寺さんを会所に総会を開催します。向こう3年間は壽福寺が事務局となりますので、たくさんの会員にご参加いただけるよ企画したいと思います。

(写真は寺の雪景色です。)
 ですが、この写真は昨年のものです。昨日もうっすらと積もりましたので、いよいよ本格的な寒さになりそうです。

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179.新聞版「壽福寺だより」を発行しました

20151214新聞1  20151214新聞2

 「壽福寺だより」を発行しました。

 これまでと同じく、総代さんにお配りいただく他、ご家庭を訪問してお渡しする、郵送するという方法でお届けします。なお、今回は「法語カレンダー」も併せてお届けします。

 今回の記事の内容です。

 1面(2015年12月号)
  「報恩講をお勤めしました」
  「今回もお世話になりました」
    報恩講の準備に草刈と杉の伐採をしていただいた総代さん、お斎の準備をお願いした仏教婦人会の方々へのお礼です
  「来年のご法事のご連絡をしています」
    今回は、来年4月以降にご年忌を迎えられるお宅にご連絡しています

 2面(2016年新年号)
  「あけましておめでとうございます」
  「大谷本廟の龍谷会にお参りしました」
  「宇部北組のホームページが始まりました」
  「総代さんをお願いすることになりました」
    2名の方に総代さんをお願いすることになりました。そのうち東宇部地区には新たに総代さんを置かせていただくことになりました。これで総代さんは19名となります。
  「壽福寺の平成28年の法座の計画です」

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178.公開講座「寺院と公共性」

20151211公開講座

 12月8日、山口別院で山口教区門徒総代会主催で開かれた公開講座に出席してきました。

 ご講師は浄土真宗本願寺派総合研究所副所長の藤丸智雄氏で、「寺院と公共性」という演題で次のようなお話を伺いました。

 この「公共性」というのは、私たちが生きていくうえで拠り所となる場所、私たちが住みやいと感じることができる場所で、宗教は「心のインフラ=社会関係資本」として今後ますます重要になってくる。
 公共の「公」の字も「共」の字も漢字の部首でいうと「八(はちがしら)」部に属していて、「八」は「広がる」という意味を持っている。寺院の公共性も、現在の社会の中で外とのかかわりでどれだけ「開かれた存在」となれるのか、ということが問われている。

 この「開かれている」かどうかを次のキーワードでチェックしてはどうか。
 ・外が見える=寺から社会の動きが見えているか
 ・外から見える=外から寺の中がよく見えているか
 ・外へ出られる=寺から外に踏み出して働きかけができているか
 ・出入りできる=寺に容易に出入りできるか(物理的にも心理的にも)

 このような観点から、様々な提案をいただきました。寺院の活動、行動についてもう一度上記のようなキーワードに従って見直す必要がある、と改めて感じました。

 また、このお話の中で印象に残ったことが多くありました。これも心にとどめておきたいと思います。

 「ごうなことよのう」という言葉がありますが、この言葉は広島、山口あたりで使われているのだそうです。「ごう」は「業」で、「人間のふるまい」を表す言葉で、相手の褒められるようなものではない行動に対してそれを非難するというよりは、「お互いに人間だものなあ・・・」「人間のすることだものなあ・・・」と受け止めるような語感を持った仏教のやさしさを表した言葉だというご講師の言葉が印象に残っています。
 広島で原爆に遭って重傷を負った息子の背中を、母親がこの「ごうなことよのう」と言いながら水で冷やし続けていたという実話が紹介されていました。原爆を投下したアメリカを非難するのではなく、このようなことにまで至ってしまった人間の「業」を母親は見ていたのだとご講師は語られました。

 「寺は欲や怒りに連れられて参るところ」という言葉もありました。誤解を受けるかもしれませんが、ご講師の「キリスト教の教会になくて寺にあるもの、それは愚痴です」という言葉も印象に残っています。
 心が清らかだから寺に参るのではない、心が安らかだから寺に参るのではない、抑えきれない欲や怒りや煩悩を持っている人がいるからこそ寺が必要とされている。お寺は、そこで愚痴を言ってもかまわない、やさしい居心地のよい場所でなければならないと受け止めました。

 で、その寺(僧侶)の方ですが、相談しやすい僧侶、そうでない僧侶ということで実際に調査されたことがあるのだそうです。
 その結果では、すぐに教義の話をする、上から目線で高圧的に「それはだめ、こうしなさい」という、というのが相談したくない僧侶像なのだそうです。逆に相談を受けて、「うーん困ったですね、難しいですね、辛いでしょうね・・・ちょっと考えてみましょう」と受け止めることが大切だと話されました。耳を傾けることの重要性についてもう一度見直さなければならないと感じた次第です。

 講演の後に質疑の時間があり、総代さんの出席者から今回の安保法制に対する宗門の姿勢について質問がありました。
 これに対してご講師からは、「総合研究所から『平和に関する論点整理』を公表し論議を進めることとしている。宗門の方々も自分のこととして一緒に考えてもらいたい」という趣旨の回答がありました。ご講師は、この『論点整理』作成の中心になられた方だということです。
 このご講師の回答を聞いて、私たちは「宗門は安保法制に賛成するのか反対するのか」といった問いを安易に「宗門」に投げかけてしまっていたのではないか、と思い至りました。
 大切なことは、宗門の全員が自分のこととして、釈尊の示された、戦争や他者を傷つけることに関するみ教えを現在の社会の中でどのように考え実現するのか、そしてそのためにどのような行動をとるのか、ということなのだと思いました。

 この『論点整理』が掲載されている本願寺の『宗報』の11・12月号が手元に届いたところです。またご一緒に内容を学びたいと考えています。

(写真はご講師の藤丸智雄氏です。)

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177.お正信偈を読む(33):依釈段(10)/天親讃(4)

20151207紅葉1

「御文」 広由本願力回向 為度群生彰一心 (こうゆほんがんりきえこう いどぐんじょうしょういっしん)
「訓読」 広く本願力の回向(えこう)によりて、群生(ぐんじょう)を度(ど)せんがために一心を彰(あらわ)す。
「訳文」 本願の回向によってすべてのものを救うために、一心すなわち他力の信心の徳を明らかにされた。

 親鸞聖人が天親菩薩を讃えられた第5、6句です。
 今回の2句を含む8つの句は、『浄土論』によって天親菩薩が示された教義の内容を親鸞聖人がお示しいただいた部分になります。

 先にも見ましたように、天親菩薩は『浄土論』の偈頌(願生偈)の最初に「世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生(しょう)ぜんと願ず」とご自身の信仰を述べられました。そして、その最後の部分で「願はくは弥陀仏を見たてまつり、あまねくもろもろの衆生とともに、安楽国に往生せん。」と述べておられます。
 天親菩薩は「他力の信心」をいただいてこの上ない清浄なお浄土に自ら往生したいと願われ、さらにもろもろの衆生とともに往生したいと願われています。

 親鸞聖人は今回の2句でもって、天親菩薩が私たち衆生は「一心」で往生を得ることができると明らかにされたと讃えておられるのです。

 この「一心」という言葉は内容の深い言葉だと伺いました。
 まず、「あることを心にとどめて思いを乱さないように努力すること」という意味があります。私たちが使う「一心不乱」という言葉と通ずるところもありますが、これは自力を頼む一心「自力の一心」とされています。

 これに対して、「他力の一心」は天親菩薩がこの『浄土論』に記された「一心」で、「専一の心」という面と、「二心(ふたごころ)が無い」という二つの面があると言われています。
 「専一の心」とは阿弥陀如来の本願以外に心を動かさない心、「二心が無い」とは、救われるだろうかどうだろうかと迷うことなく本願にお任せする心、とされています。
 このように見ますと、「他力の一心」とは「思い迷うことなく阿弥陀如来の本願のお力にお任せする」という「他力の信心」ということになります。 
 このように天親菩薩が「他力の一心」でもって私たちは往生できるということを示されたとされて、天親菩薩の「発揮」を「宣布一心」としてお讃えしているのです。

(写真は紅葉した風景です)

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176.お正信偈を読む(32):依釈段(9)/天親讃(3)

20151204紅葉2        20151204紅葉1

「御文」 依修多羅顕真実 光闡横超大誓願(えしゅたらけんしんじつ こうせんおうちょうだいせいがん)
「訓読」 修多羅(しゅたら)によりて真実を顕(あらは)して、横超(おうちょう)の大誓願(だいせいがん)を光闡(こうせん)す。
「訳文」 浄土の経典にもとづいて阿弥陀仏のまことをあらわされて、横超のすぐれた誓願を広くお示しになり、

 今回は、親鸞聖人が天親菩薩を讃えられた「天親讃」の第3、4句です。

 親鸞聖人はこの第3句を、天親菩薩が著された『浄土論』の中の「我依修多羅 真実功徳相(我、修多羅の真実功徳相に依りて)」という御文を踏まえてお書きになりました。
 ここで「修多羅」というのはお経のこと、一般には釈尊が説かれた経典のことをいいますが、親鸞聖人は「浄土三部経」のことだとされています。
 この修多羅(しゅたら)はもともとは「線」という意味があって、糸が花を貫いて花環を作るようにお釈迦さまが説かれた言葉が散り乱れないように貫くという意味を持っていたということです。その後この言葉は中国で「経」(経糸)と訳されたとお聞きしました。七条袈裟という法衣とともに使用するものに「修多羅」と呼ばれるものがあります。
 「真実功徳相」の「真実功徳」というのは本願に誓われた名号のことで、「相」は「かたち」のという意味であると聖人は示されています。

 また、第4句の「横超」という語は既に「獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣」という形で出てきましたが、「他力によって迷いを超えてさとりに至る」ということが示しておられます。
 親鸞聖人はこの「横超」について「他力真宗の本意」として重要なものだとされています。聖人は仏教全体の中での浄土真宗の法義の位置づけを明らかにするためにお釈迦さまの説かれた教えを「横」と「竪(しゅ)」、「超」と「出」をキーワードにしてそれぞれを組み合わせた4つに整理され、その中で「横超」で示される浄土真宗のみ教えが最も優れていると示されました。
 「光闡」は「明らかにあらわすこと。また、説き述べること」です。

(写真は昨日の寺の様子です。)
 先日の初雪以来、朝晩の冷え込みが続き、カエデも急速に紅葉が進んだように思われます。

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