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149.仏教の歴史(3):東アジア

20150831地図

 「仏教の歴史」としてこれまで、インドと東南アジアでの歴史を学んできましたが、今回は仏教が中国に伝わり、朝鮮半島を経て日本に伝えられた歴史の概要を学びたいと思います。
 この中国を経て日本に伝えられた仏教は、前回の南方(南伝)仏教に対して北方(北伝)仏教と呼ばれます。

 仏教がいつごろ中国に伝えられたのかという点については、様々な説があって確定されていないのだそうです。
 そのもっとも早いとされているのは、前漢末期の紀元前に中国に伝えられていたとするもの、次に古いのは後漢時代(紀元65年頃)にはすでに仏教が王族の間で尊崇されていたとするもの、あと一つは同じ後漢の紀元67年に都の洛陽に着いた二人の外国僧によりもたらされたとするもの(これが「仏教の公伝」とされています)などがあります。
 いずれにしても、紀元前後には仏教は中国に伝えられていたと考えられます。

 仏教が中国に伝えられた経路は西域を経由するいわゆるシルクロードでした。シルクロードの困難な旅を経てインドや西域の僧が仏典を伴って中国に入りました。
 また、その後この道を西行して中国から西域やインドに向かう僧もありました。法顕(東晋:337~422年)や玄奘三蔵(唐:602~664年)といった方々で、現地で学びその後多くの経典を携えて中国に戻られました。
 このようにしてもたらされた経典が漢語に翻訳されるのですが、その経典はインドにおける仏教の歴史の中で時には対立しながら成立したものが混在した形でもたらされたという点に特徴があるといわれています。
 
 朝鮮半島に仏教が伝えられたのは4世紀の後半とされています。
 当時の朝鮮半島は三国時代と呼ばれる時代で、北に高句麗、南に新羅と百済の三国が覇を争っていました。仏教は最初に中国の東晋から高句麗に伝えられたといわれています。372年のことでその約10年後には百済に、新羅に少し遅れて5世紀前半にもたらされました。

 仏教は日本にはこの百済から伝えられました。
 欽明天皇の時代で、百済の聖明王が釈迦仏金銅像や経典、仏具を朝廷に奉献したことによります。これが仏教の公伝(こうでん)で538年のことです。
 ただ、仏教はこの公伝以前に中国や朝鮮半島からの渡来人によって民間で信奉されていたということですが、いずれにしても仏教は6世紀には日本にもたらされました。

 このように、インドでお釈迦さまが開かれたみ教えは、約1000年の時と西域、中国、朝鮮半島を経由する遠い道のりを経て日本に伝えられました。それからさらに約1500年、現在の私たちにまでにみ教えをお伝えいただいた方々のことを改めて思い起こしたいと思います。

 (写真は、今回の「仏教の歴史」に登場した国々の地図です。朝日新聞出版社の『日本・世界地図帳2011-2012年版』の地図を使わせていただきました。)

 インドは日本から直線距離で約6100キロメートル、飛行機でも直行便で約10時間という遠隔の地です。
 この地図をみていますと、日本は仏教圏の東の端に位置していることが分かります。
 お正信偈の中で親鸞聖人は「真宗教証興片州(真宗の教証、片州に興す)」と法然聖人を讃えられました。この「片州」とは仏教を奉じる国々の「片隅の小さな国」という意味で日本のことを指しますが、「片州」という言葉で、遠く離れた小さな日本で法然聖人によって阿弥陀如来の本願が明らかにされたのだ、とよろこんでおられるように思われます。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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148.仏教の歴史(2):東南アジア


20150828バイシャリ
  20150828遺跡

 前回は、お釈迦さまの入滅後のインドの仏教の歴史を学びました。
 仏教は、紀元前3世紀頃アショーカ王の時代にインド全域に広まりましたが、教団では分裂が繰り返され、その中で大衆の救済を目指す大乗仏教が新しい動きとして成立しました。
 しかし12世紀の後半のイスラム教徒のインド征服により、仏教はインドでは消滅することになりました。

 このように仏教はインドでは消滅しましたが、お釈迦さまの開かれたみ教えはセイロンや東南アジア、西域、中国、朝鮮半島そして日本に伝えられてそれぞれの地域で継承され発展し、キリスト教、イスラム教と並ぶ世界宗教として現在に至っています。
 この中国から朝鮮、日本に伝わった大乗仏教を中心とした仏教を北方仏教(北伝仏教)、セイロンや東南アジアに伝わった上座部仏教を中心とした仏教を南方仏教(南伝仏教)と呼んでいます。

 そのうち、今回は南方仏教の歴史を概観したいと思います。

 セイロン(現在のスリランカです)は現在も国民の70%以上が仏教徒という仏教国です。
 セイロンの仏教は、アショーカ王が王子マヒンダを仏教の伝道使として派遣したことに始まります。以後セイロンの歴代の王は仏教を保護し多数の寺院が建立されました。当初マヒンダが伝えた仏教は大乗仏教ではなくいわゆる上座部仏教でしたが、その後3世紀には大乗仏教も伝えられ双方が互いに競い合う関係が続いたとされています。
 その上座部仏教がセイロンからビルマやタイに伝えられて、東南アジアの仏教の基礎となります。
 セイロンではそれぞれの時代の王朝の政策により仏教が弾圧されたり、異民族や異教徒の侵入による断絶もありましたが、その後ビルマやタイから仏教が逆輸入されるなどの経緯を経て、現在に至っています。

 東南アジアのビルマやタイ、カンボジアも仏教国です。
 ビルマ(現在のミャンマーです)にはアショーカ王が伝道使を派遣したのが仏教の初伝だろうと考えられていますが、明確に確認はできていないようです。紀元前後にはインドとの交流が盛んになり、大乗仏教やヒンドゥー教がビルマに伝えられました。
 その後ビルマの歴代の王朝は仏教を保護し、セイロンから伝えられた上座部仏教が主流となって現在に至っています。ビルマも国民の90%が仏教徒という仏教国です。

 現在のタイに当たる地域には、11世紀中ごろから上座部仏教が信仰されていたということで、これが現在のタイの仏教の基礎となっています。タイ族の王朝は14世紀にはインドシナ半島最大の勢力となり、その勢力下の各地に仏塔や寺院を建設しました。また、18世紀にはタイの仏教がセイロンに伝えられるということもありました。タイは国民の95%が仏教徒です。

 カンボジアには1世紀の末にインド人が勢力を伸ばして、大乗仏教がヒンドゥー教とともに伝えられたとされています。仏教は国王の庇護を受けて発展しましたが、その後14世紀には上座部仏教の国タイの侵攻を受け、その影響でカンボジアも上座部仏教の国となりました。
 1976年に成立した民主カンプチア政権の元では、仏教は活動を禁止され多くの寺院や施設が破壊されるという苦境に陥りましたが、その後、信教の自由が確保され(憲法上では仏教が国教とされています)、現在では国民の90%以上が仏教徒です。

 このように、インドで滅亡した仏教は東南アジアで大きな勢力となり、人びとの生活の基礎をなしていますが、その仏教はいわゆる上座部仏教(大乗仏教から「小乗仏教」とも呼ばれています)が中心となっています。

(写真はインドのバイシャリにある仏教遺跡と遺跡を描いた切手です)

 この写真は、僧院跡とアショーカ王柱と呼ばれているものです。アショーカ王はインドのほとんどの地域を統一し、多くの仏教遺跡を残した王ですが、王柱で当時の姿を伝えているのはこのバイシャリの王柱だけだといわれています。
 今後、周辺の広大な遺跡の発掘調査が進められるということでした。

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147.仏教の歴史(1)


20150824ナーランダ遺跡
  仏教遺跡1

 少し間があきましたが、これまでお釈迦さまのご生涯と開かれたみ教えを学んできました。
 今回は、お釈迦さまがおなくなりになられて以降、私たちの浄土真宗にまでつながる仏教の歴史の概略を学びたいと思います。そのうえで、中断していました「お正信偈」の依釈段に戻りたいと思います。
 最初にお釈迦さまが亡くなられた後のインドの状況です。

 お釈迦さまは80年のご生涯を通じて、自らお開きになられた法を説かれてクシナガラの地にておなくなりになられました。このお釈迦さまが亡くなられた年については、紀元前480年頃とする説と紀元前380年前後とする説とがあって、約100年の開きがあるようです。

 お釈迦さまがなくなられた後ほどなくして、み教えについて様々な見解が提示される事態が発生したと伝えられています。お釈迦さまを中心とした集団であった仏教教団は、お釈迦さま亡き後誰かが中央で統制するといった性格の集団ではなく、いわば必然的にそのような事態になったのだと想像されます。
 そこで、約500人のお弟子さんが集まって、お釈迦さまの教法と戒律について統一してまとめるための会議が持たれました。これを第一結集(けつじゅう)とお呼びしています。ここで、お弟子さんの中で記憶されていたお釈迦さまのみ教え(教法と戒律)が持ち寄られ内容が確定されました。

 その後、教団の中では保守的な考え方を持つ長老グループと進歩的な考え方をするグループとの対立が表面化します。
 これを受けて、保守的な長老約700人が集まり、戒律を中心とした経典の編集会議である第二結集を開きます。お釈迦さま滅後約100年のことと伝えられます。
 これに対して、この結集の内容に不満を持つ進歩的な比丘たちは、長老派に対抗するグループを結成し独立を宣言する事態になりました。
 これにより、お釈迦さま以来一つであった仏教教団は大きく二つに分裂することになりました。これを根本分裂と呼んでいます。その後紀元前1世紀に至るまでに更に分裂に分裂を重ねることになり、多くの部派が形成されました。これを枝末分裂と呼んでいます。

 このような動きが生じた背景には、もちろんお釈迦さまがなくなられたことにより教団が寄るべき柱を失ったということもありますが、教団が置かれた環境の変化による面も大きかったように思われます。
 仏教教団は当初はお釈迦さまを中心にした限られた比丘の集団だったのですが、その後み教えが広まり、教団の成員も増えました。また、紀元前3世紀にインド大陸のほとんどを統一したアショーカ王が仏教を守護し、各地に仏教を広めたことにより地理的にも仏教は拡大をしました。その結果、多数の成員が広い地域に分かれて存在するという実態になり、それまでの統一した教団の姿を保つことが難しくなりました。貨幣経済の進展などの環境変化も影響したともいわれていますが、教団の拡大発展が教団の不安定の因となったといえそうでう。

 また教団はその後、社会生活とは切り離された場で教理を研究するだけの学問中心の集団になっていったとも言われています。そこでは、お釈迦さまが目指された人々の救済という大切な目的が見失われたといえます。このような傾向に対して、お釈迦さまの基本精神に戻ろう、一切の大衆を救済することを目指そう、とする動きが形成されることになりました。この新しい運動は「大乗仏教運動」と呼ばれることになります。大乗とは「大きな乗り物」という意味で、自分自身が悟りを得るだけでなく、すべての人々を救うということを表しています。大乗仏教は、紀元前2世紀頃から大きく広がることになりました。
 紀元前後から数百年の間に多くの大乗仏教の経典が成立し、龍樹菩薩(2世紀)や天親菩薩(4世紀)という、親鸞聖人が七高僧として大切にされた方々もみ教えを伝えられ、大乗仏教は思想的に深化し発展しました。
 これに対して、出家者が自身の悟りを目的として修行に励む教えを「小乗仏教」と呼ぶようになりました。(この「小乗」は「小さな乗り物」という意味で、大乗仏教の立場から批判的に見下した呼称だといわれています)

 大乗仏教が深化していったということは、学問的に精緻なものになったという面があったとしても、他面一般の人々には分かりにくいものになったということでもあり、その結果として社会から遊離するものになり衰退の道をたどり始めるということにもつながりました。
 7世紀中頃から、仏教はヒンドゥー教などの民衆固有の信仰とも結びつくことにより活動する時代もあったようですが、このことによって仏教としての本質を失うことになりました。
 その後、12世紀の後半にインドはイスラム教徒により征服されました。インドにあった仏教寺院はすべて破壊され、僧侶はチベットやネパールに逃げ出すという事態になり、ここにインドにおける仏教教団は滅亡しました。

 現在、仏教発祥の地インドでは仏教徒の割合は1%にも満たないという状態のままにあります。
 
(写真は、インドのナーランダ大学の遺跡と遺跡を描いたインドの切手です)

 ナーランダ大学は5世紀の初めに設立された大規模な仏教研究の施設ですが、イスラム教徒の征服により12世紀末に破壊されました。最盛期には学生数1万人を数え、中国からも多くの僧が学びに訪れたということです。
 多数の学生と教授陣を収容する施設も完備されていた広大な遺跡で、これからも発掘整備がされるようです。
 ヒンドゥー教、イスラム教国インドでは永く仏教遺跡は荒廃のままおかれていたのですが、近年調査発掘、整備が進められているということです。観光資源として見直されたという面もあるようです。
 遺跡には焼け焦げた色があちこちに残り、破壊のすさまじさを想像させるものでした。

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146.戦後70年(2)


20150821セージ1
  20150821セージ2
 前回は、広島で勤められた「平和を願う法要」でのご門主のご親教の内容をお伝えしましたが、今回は宗門の石上智康総長が8月10日に発表された「戦後70年にあたって非戦・平和を願う総長談話」についてお伝えいたします。

 石上総長もこの談話の中で、悲惨な戦争の根本原因は自己中心的な私たちの姿にあるのだということを示され「非戦・平和」が人類の進むべき道であることを示されています。また、先の大戦遂行に宗門が協力した歴史にも触れられて、私たち念仏者がどのように恒久平和に貢献できるかを宗門としても検討されていることを示されました。

 安倍総理大臣が戦後70年に当たって記者団に話された「談話」で、「未来に語り継いでいかなければならない歴史の教訓」の一つとして、「私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。」と述べられています。
 戦争の根本的な原因は自己を是とし他を非とする自己中心的な姿にあるということにあるのですが、対立の局面に直面した場合に自身をどのように律していけばよいのかという課題が浮かびあげってきます。
 ご門主が言われた「苦渋の選択が必要となる社会が到来しないよう、注意深く見極めていく必要があります」という課題を受け止めることが必要だと思います。
 再び戦争を起こさないため、戦争に巻き込まれないためにどのような形でコンセンサスを形成するのか重要なポイントに差し掛かっていると思います。
 
 以下、総長談話の全文です。本願寺のホームページからお借りしています。
 
 戦後70年にあたって非戦・平和を願う総長談話 

 アジア・太平洋戦争の終結から、本年で70年目を迎えました。先の大戦によって犠牲になられた世界中のすべての皆さまに対し、あらためて衷心より哀悼の意を表します。また、大切な方を失った方々の悲しみは、今現在も癒えることがありません。戦争は遠い未来の人々にまで、深い苦しみを与えるのです。
 約2500年前、釈尊は「己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」と説かれました。しかし、今なお私たちは、自分の都合の良いものには愛着を抱き、不都合なものには憎しみを抱くという、自己中心的な生き方をしています。共にかけがえのない命を受けながら、他者を認めることができず、争いあっているのです。いかなる戦争も、必ず、多くの命を奪います。そして、人と人が命を奪いあうことほど愚かなことはありません。
 非戦・平和こそ人類の進むべき道です。
 大谷光真前門主は、1997年3月20日、本山・本願寺における基幹運動推進・御同朋の社会をめざす法要で、「すべてのいのちの尊厳性を護ること、基本的人権の尊重は、今日、日本社会の課題にとどまらず、人類共通の課題であり、世界平和達成への道でもあります」と述べられました。私たちは「いのちの尊厳性」が平和実現のキーワードであることを、今こそ認識すべきであります。
 また、大谷光淳門主は、2015年7月3日、広島平和記念公園における平和を願う法要で、「人類が経験したこともなかった世界規模での争いが起こったあと、70年という歳月が、争いがもたらした深い悲しみや痛みを和らげることができたでしょうか。そして、私たちはそこから平和への願いと、学びをどれだけ深めることができたでしょうか」と述べられました。
 現在、日本では、我が国の平和と安全保障を巡って、国会のみならず、全国各地で厳しい議論がおこなわれていますが、多くの国民が納得できるよう、十分な説明と丁寧な審議が尽くされることを願っております。私たち浄土真宗本願寺派でも、先の戦争の遂行に協力した慚愧すべき歴史の事実から目をそらすことなく、念仏者がどのように恒久平和に貢献しうるかについて、研究を重ねてきました。近々に、その成果≪平和に関する論点整理≫を中間報告として公表する予定です。これを機に、宗門内外の方々と共々に学びを深めることができれば幸いです。
 戦後70年を経た今、私たちは過去の戦争の記憶を風化させることなく、仏の智慧に導かれる念仏者として、すべての命が尊重され、自他共に心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献すべく、歩みを進めてまいります。

2015年8月10日

浄土真宗本願寺派
総長  石上 智康


(写真は、ペインテッドセージと呼ばれている植物です)

 少し前になりますが、長門市の「香月泰男美術館」のとなりにあるハーブ園で撮りました。
 シソ科アキギリソウ属(サルビアなども含まれます)の植物です。カラフルで目立つ部分は葉で、花は少し見えにくいですがその下に咲きます。

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145.戦後70年

20150817広島法要 

 今年は戦後70年の節目の年に当たります。
 14日には戦後70年に当たっての総理大臣談話が発表され、これまで多くの論争がなされてきた安全保障関連法案の審議が進んでいます。
 「戦争はどの当事者にとっても悲惨なものであり、避けなければならない」ということについて反対をする人は少ないと考えられますが、戦争はなぜ起きるのか(なぜ起きたのか)、どのようにすれば防ぐことができるのか(なぜ防げなかったのか)、それを前提として現在の環境の中で進むべき方向、とるべき方策は何なのか、という点については広くコンセンサスを得ることができずにいるように思います。

 先日7月21日に山口別院で行われた「戦後70年平和のつどい」についてはご報告しましたが、戦後70年に当たっての宗門の取り組みについて学びたいと思います。

 今日は、去る7月3日に広島市の平和記念公園においてご門主ご親修で営まれた「平和を願う法要」でのご門主のご法話(ご親教)をお伝えします。その全文は次の通りです。

 この中でご門主は、戦後70年の中で戦争が与えた深い悲しみや痛みが和らげられておらず、平和への願いと学びも深められていないのではないか、そのような中で、戦争がもたらした痛みの記憶が風化し忘れられていく恐れがあると指摘されています。また、本願寺教団が戦争の遂行に協力したことも忘れてはならない、とも述べておられます。
 ご門主は、あらゆる争いは、自己を正当とし反対するものを不当とする私たちの自己中心的なあり方から発していて、この自己中心的な私が、縁によってどのような非道な行いに進むかもしれないという危うさをもっているのだと指摘されています。
 このような争いを避けるためには、私たちは私たちの自己中心的なあり方に気づき、お互いがお互いを大切にし敬いあえる関係を築く必要があると示されています。

(ご親教:本願寺のホームページから転用させていただきました)

異なる価値観を認め合う社会へ

 ただ今、皆さまと共にお勤めいたしました「平和を願う法要」にあたり、第2次世界大戦で犠牲になられたすべての方々に対し、衷心より追悼の意を表します。
 70年前の8月6日、たった一発の爆弾によって、一瞬にして美しい広島の街が破壊され、多くのかけがえのない命が失われました。また、原子爆弾のもたらした惨禍(さんか)は、放射能の影響として、また痛ましい記憶として、今も多くの方々を苦しめ続けています。このことを思うとき、あらためて人間の愚かさ、戦争の悲惨さ、原子爆弾の非道さを感じずにはいられません。
 私は、皆さまと共に、戦後70年を迎える広島の地で、平和への願いを新たにすることに深い意義を感じています。
 第2次世界大戦が終わって70年が経とうとしています。しかし人類が経験したこともなかった世界規模での争いが起こったあと、70年という歳月が、争いがもたらした深い悲しみや痛みを和らげることができたでしょうか。そして、私たちはそこから平和への願いと、学びをどれだけ深めることができたでしょうか。
 戦争の当時を生きられた方々が少なくなってゆくなかで、戦争がもたらした痛みの記憶は遠いものとなり、風化し忘れられつつあります。また先の大戦において、本願寺教団が戦争の遂行に協力したことも、決して忘れてはなりません。こうした記憶の風化に対し、平和を語り継ぐことが、戦後70年の今を生きる私たちに課せられた最大の責務です。よりよい未来を創造するためには、仏智に教え導かれ、争いの現実に向きあうことが基本でありましょう。
 そもそも、あらゆる争いの根本には、自己を正当とし、反対するものを不当とする人間の自己中心的な在り方が根深くあります。宗祖親鸞聖人は、「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)、火宅(かたく)無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたわごと、まことあることなし」と、人間世界の愚かさを鋭く指摘されています。私たちが互いに正義を振りかざし、主張しようとも、それはいずれも煩悩に基づいた思いであり、阿弥陀如来の真実のはたらきの前では打ち崩されてゆくよりほかはないという事でありましょう。それはまた、縁によって、どのような非道な行いもしかねないという、私たち人間の愚かさに対する警告でもあります。
 いかなる争いにおいても悲しみの涙をともなうことを、私たちは決して忘れてはなりません。受けがたい人の身を受け、同じ世界に生まれ、同じ時間を生きている私たちが、お互いを認めることができず、どうしてこの上、傷つけ合わねばならないのでしょうか。一つひとつの命に等しくかけられている如来の願いがあることに気付かされるとき、その願いのもとに、互いが互いを大切にし、敬い合える社会が生まれてくるのではないでしょうか。少なくともお念仏をいただく私たちは、地上世界のあらゆる人びとが安穏のうちに生きることができる社会の実現のために、最大限の努力を惜しんではなりません。
 戦後70年という歳月を、戦争の悲しみや痛みを忘れるためのものにしてはなりません。そして戦後70年というこの年が、異なる価値観を互いに認め合い、共存できる社会の実現のためにあることを、世界中の人びとが再認識する機会となるよう、願ってやみません。

2015(平成27)年7月3日

浄土真宗本願寺派門主
大谷 光淳


(写真は、平和記念公園で勤められた「平和を願う法要」でのご親教の様子です)

 写真は『本願寺新報』からいただきました。

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144.宇部市の緊急避難場所に指定されました


20150814標示1
   20150814標示2

 壽福寺が宇部市の緊急避難場所に指定されました。
 これに先立って宇部市から指定についての意向確認があり、総代さんともご相談の上指定を受けることにしたものです。

 災害が発生した場合に利用される避難施設には、「緊急避難場所」と「避難所」の2種類があるのだそうです。
 そのうち「避難所」が災害のために自宅に戻ることができない一定期間避難生活する所なのに対して、「緊急避難場所」は緊急時に災害から逃れ、身の安全を確保するために、一時的に避難する場所だという違いがあるのだそうです。このような区分があることは今回初めて知りました。
 壽福寺が指定されたのはその「緊急避難場所」ですから、一時的に避難する場所ということになります。

 避難場所を示す標識は右の写真です。標識には災害の種別とそれに該当するかどうかが示されています。壽福寺の場合は次のようになっています。

  地震    ×(地震の場合は「万倉ふれあいセンター」に避難するように表記されています)
  津波    -
  土砂災害  ○
  洪水    ○
  高潮(レベル1) ー
  高潮(レベル2) ○
  (高潮のレベル2というのは、500年に1度の起こる程度のケースだそうです)
 記号は、「○=避難場所として利用されるケース、×=別の避難場所に避難するケース、ー=該当しないケース」を示していますので、壽福寺は土砂災害、洪水およびレベル2の高潮の場合に避難場所になります。
  
 ちなみに、万倉校区では他に次の施設が指定されています。
  万倉ふれあいセンター(避難所、緊急避難場所)
  万倉小学校(避難所、緊急避難場所)
  神元集会(緊急避難場所)
  楠若者センター(避難所)

 避難場所が必要となるような事態が起こらないことが望ましいのですが、実際に必要ということになった場合、スムーズな受け入れができるようにしておきたいと思います。受け入れ場所としては、本堂を想定しています。

(写真は緊急避難場所の標識です)

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143.ご門徒さん紹介(2):魚次末子さん


20150810魚次さん2
   20150810魚次さん1

 「ご門徒さん紹介」の2回目は船木の魚次末子さんです。

 JAグループから発行されている『家の光』という雑誌の創刊90周年記念号の「わが町の名物90歳」という特集記事に登場されました。

 写真にありますように、「家計簿つけて半世紀 思い出いっぱい 楽しみいっぱい」という見出しで魚次さんのことが2ページにわたって紹介されています。

 魚次さんは子供のころから活発で、学校でも体育が得意、当時は女の子では珍しい級長もやり、山や川で遊びまわり、家の手伝いも頑張る元気いっぱいの娘さんだったそうです。
 結婚されてからはご主人と力を合わせて、農作業を始め豚の飼育、布団の打ち直しや造林と一生懸命に頑張って来られました。
 そのような仕事と同時に、趣味の方も積極的に手掛けてこられました。現在も、グランドゴルフに汗を流し、ヒョウタンを楽器にした楽団で太鼓を初めて10年、詩吟は40年などと忙しい毎日を送っておられます。

 また寺の行事にも熱心にご参加いただいていて、法座にお参りされその後の勉強会にも参加されています。仏教婦人会の活動にもご尽力いたき、お斎の準備などでも活躍していただいています。
 降誕会の後に予定していた前回の勉強会は中止になったのですが、その時の魚次さんの残念そうにされたお顔が印象にのこっています。勉強会も楽しみにしていただいているのです。

 そんな魚次さんが50年以上にわたって続けておられるのが「家計簿」なのです。魚次さんの家計簿は、お金の収支の他にその日に起こったことを記す日記帳でもあるのだそうです。小さなことでも記録に残してこられて、「家計簿」は4年前にご往生されたご主人との思い出がたくさん詰まった大切な宝物なのだそうです。

 先日、新聞版の「壽福寺だより」にも出ていただこうとお宅をお訪ねしてお話を伺ったのですが、楽しい話は尽きず写真のような明るい笑い声の絶えないインタビューになりました。

 いつまでもお元気で明るい笑い声を聞かせていただき、周りを明るくしていただきたいを思います。

(写真は、『家の光』特集号の記事です)

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142.新聞「壽福寺だより」を発行しました


20150807新聞1
   20150807新聞2

 新聞版「壽福だより」の8月号を発行しました。

 今月号の内容は次の通りです。

 (1面)

 「夏法座をお勤めしました」
 「新たに総代さんをお願いしました」
  小野田地区と山口市を担当いただく総代さん2名を新たにお願いしました
 「宇部市の緊急避難場所に指定されました」
  壽福寺が土砂災害と洪水を想定した避難場所に指定されました
 「秋法座のご案内です」

 (2面)

 「前進座の特別公演が行われます」
  10月13日に山口市で予定されている『如月の華』、九條武子夫人の生涯を描いた演劇です
 「山口教区少年大会の計画です」
  8月27日に宇部北組が引き受けとなって開催されるものです
 「ご存知ですか(6):法名」
 「ご紹介します(2):魚次末子さん」
  魚次さんはJAグループから発行されている『家の光』の創刊90周年記念号に「わが町の名物90歳」として登場されました
 「ご家庭でのお盆のお勤め」
  これまで壽福寺ではお盆のお勤めには伺っていなかったのですが、ご希望があればお勤めに伺う旨ご聯絡したものです

 今月号は上記の新しい総代さんの担当地域については、ご紹介を兼ねて総代さんと一緒にお配りしています。

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141.ご存知ですか(10):法名


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  20150803ネジバナ2

 前回の「ご存知ですか」の記事が今年の2月でしたから半年ぶりのになりますが、今日はテーマは「法名(ほうみょう)」です。

 先日ご門徒さんとお話をしていた時に法名についてご質問が出ましたので、今回取り上げることにしました。
 そのご質問は、「法名とはどのようなものなのですか」「戒名(かいみょう)とは違うのですか」というものでした。

 法名は、「仏法に帰依し、釈尊の弟子となった者の名前」(『浄土真宗辞典』)です。
 浄土真宗本願寺派では「釋」の字に漢字2文字を加えたものを法名としています。かつては「○○居士」とか「○○大姉」といったものを付すことがありましたが、現在は「釋」を冠した2文字のみとしています。

 よく「戒名」と混同されることがありますが、戒名は「戒律を授けられ、持戒して善根功徳を積む者に与えられる名前」(『浄土真宗辞典』)とされていて、戒名は自力の修行を行い戒律に生きる人が受ける名前だといえます。
 私たちの浄土真宗では、私たちは「戒律」ではなく「法」(お釈迦さまがお示しいただいた真理)により生きるのですから法名ということになります。

 で、この「釋」はお釈迦さまの「釈」の字の旧字体なのですが、いわば苗字です。私たちは法名をいただけば、みな同じ苗字をいただいたお釈迦さまの弟子ということになります。
 話が脱線しますが、釈由美子さんというタレントがおられます。調べてみましたらこの名前は本名だということですので、生まれながらにしてお釈迦さまのお弟子さんだった・・・?。

 もう一つ気になりますのは、この法名は故人が亡くなってから受けるものだと思っておられる方が多いことです。
 前にも申しましたように、法名はお釈迦さまの弟子になったこと、仏法に帰依して生きることの証し、なのですから、生前に受けるものです。
 私たちの浄土真宗では、本山本願寺で行われる帰敬式でご門主から「おかみそり」を受けて法名を受けることが基本です。
 ご葬儀に先立って導師である住職が「おかみそり」を行う場合がありますが、これは生前に法名を受けることができずに亡くなられた方のために、やむを得ずご門主にかわって住職が行うものなのです。

 本願寺では原則として毎日、帰敬式が行われご門主から「おかみそり」を受け法名を受けることができます。また、京都まで出かけることが難しいという方のために、別院(山口別院)でも帰敬式を行っていて、法名を受けることができます。
 今年の別院の帰敬式は次の要領で行われます。

 ○日時 11月25日 13:30~
 ○場所 山口別院

 法名についてのご希望やご質問がありましたら、寺までご連絡ください。
 
(写真は、7月中旬の秋吉台で撮ったネジバナです。)

 ネジバナはラン科の植物らしく可憐な花を持っています。らせん状に花をつけるのですが、左の写真にありますように右巻きと左巻きがあって両方が仲良く並んで咲いている場合もあります。 

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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