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753.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(36):無碍の一道(9)

20210618アグロステンマs  20210618アグロステンマ2s

 引き続き『唯信鈔文意』で親鸞聖人が取り上げられた2番目の偈頌について学びます。今回はその第8句です。

 彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金

 能令瓦礫変成金 (よく瓦礫をして変じて金と成さんがごとくせしむ。)

 「能令瓦礫変成金」といふは、「能(のう)」はよくといふ、「令(りょう)」はせしむといふ、「瓦(が)」はかはらといふ、「礫(りゃく)」はつぶてといふ。「変成金(へんじょうこん)」は、「変成」はかへなすといふ、「金」はこがねといふ。かはら・つぶてをこがねにかへなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。れふし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかひをふたごころなく信楽(しんぎょう)すれば、摂取(せっしゅ)のひかりのなかにをさめとられまゐらせて、かならず大涅槃(だいねはん)のさとりをひらかしめたまふは、すなはちれふし、あき人などは、いし・かはら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。摂取のひかりと申すは、阿弥陀仏の御こころにをさめとりたまふゆゑなり。文(もん)のこころはおもふほどは申しあらはし候(そうら)はねども、あらあら申すなり。ふかきことはこれにておしはからせたまふべし。

 (「能令瓦礫変成金」というのは、「能」は「よく」ということであり、「令」は「させる」ということであり、「瓦」は「かわら」ということであり、「礫」は「つぶて」ということである。「変成金」とは、「変成」は「かえてしまう」ということであり、「金」は「こがね」ということである。つまり、瓦や小石を金に変えてしまうようだとたとえておられるのである。漁猟を行うものや商いを行うひとなど、さまざまなものとは、いずれもみな、石や瓦や小石のようなわたしたち自身のことである。如来の誓願を疑いなくひとすじに信じれば、摂取の光明の中に摂め取られて、必ず大いなる仏のさとりを開けせてくださる。すなわち、漁猟を行うものや商いを行う人などは、石や瓦や小石などを見事に金にしてしまうように救われていくのである、とたとえておられるのである。摂取の光明とは、阿弥陀仏のお心に摂め取ってくださるからそのようにいうのである。この文の意味は、十分にいい表すことができていないけれども、大体のところを述べた。深いところは、これらのことからお考えいただきたい。)

 聖人は、前回の第7句で、「自力の心を捨てて、あらゆるものに勝る阿弥陀さまのご本願にお任せすれば」と記されていました。今回の第8句ではそれを受けて、「阿弥陀さまの誓願を疑うことなく信じれば、私たちは、石や瓦礫が黄金に変じるようにさとりを開かせていただくことができる。」とされます。
 前回も学びましたように、聖人は、「漁猟を行うものや商いを行う人など、さまざまなものとは、いずれもみな、石や瓦や小石のようなわたしたち自身のこと」であり煩悩を抱えて苦しんでいるのが私たちの姿だと記されました。そのような私たちが、自力の心を捨てて、阿弥陀さまの誓願を疑うことなく信じることで、様々な煩悩はそのままで阿弥陀さまの摂取の光に摂め取られて救われていく姿をお示しいただきました。

 最後に聖人は、「第1句から第8句までについて釈してきたが、まだ十分に意を尽くしていない。深く知りたいならば、これらを通して推し量ってください」とされています。
 梅原真隆師はこの部分について、「『文は人なり』、聖人の謙下(けんげ:へりくだること)の風格を欽仰(きんぎょう:うやまいあおぐこと)すべきである。」と記されています。師はこの一文に、親鸞聖人の謙虚な姿勢を感じられ、私たちに自分でも考えてみなさいとお勧めになる声を聞かれたのだと思います。

(写真は、アグロステンマといいます。ご門徒さんから苗をたくさんいただいて育てました。)

 和名はムギセンノウ(麦仙翁)。ヨーロッパ原産のナデシコ科の植物で、日本では1892(明治25)年に北海道の十勝地方で最初に発見されたのだそうです。ムギの栽培と同時に紛れて日本にも入ってきたのではないかと言われています。原産地では、畑に害を及ぼす雑草とされているそうですが、日本では今回のように園芸植物として栽培もされています。
 ピンクの花がかわいくて、有害だとは思えませんが・・・

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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752.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(35):無碍の一道(8)

20210614ナルコユリ 2s 20210614ナルコユリ s

 引き続き、親鸞聖人が取り上げられた『唯信鈔』の第2偈頌の第7句について学びます。

  彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金

 但使回心多念仏 (ただ回心し多く念仏せしむれば、)

 この句について聖人が『唯信鈔文意』に記された御文と現代語訳です。

 「但使回心多念仏」といふは、「但使回心」はひとへに回心(えしん)せしめよといふことばなり。「回心」といふは自力の心をひるがへし、すつるをいふなり。実報土(じっぽうど)に生るるひとはかならず金剛の信心のおこるを、「多念仏」と申すなり。「多」は大のこころなり、勝のこころなり、増上(ぞうじょう)のこころなり。大はおほきなり、勝はすぐれたり、よろづの善にまされるとなり、増上はよろづのことにすぐれたるなり。これすなはち他力本願無上のゆゑなり。自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛(ぐばく)の凡愚(ぼんぐ)・屠沽(とこ)の下類(げるい)、無碍光仏(みげこうぶつ)の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽(しんぎょう)すれば、煩悩を具足(ぐそく)しながら無上大涅槃にいたるなり。具縛はよろづの煩悩にしばられたるわれらなり、煩は身をわづらはす、悩はこころをなやますといふ。屠(と)はよろづのいきたるものをころし、ほふるものなり、これはれふしといふものなり。沽(こ)はよろづのものをうりかふものなり、これはあき人なり。これらを下類といふなり。

(「但使回心多念仏」というのは、「但使回心多念仏」とは、ひとえに回心しなさいという言葉である。「回心」というのは、自力の心をあらため、捨てることをいうのである。真実の浄土に生まれる人には、決して壊れることのない他力の信心が必ずおこるのであり、このことを、「多念仏」というのである。「多」は、「大」の意味であり、「勝」の意味であり、「増上」の意味である。「大」は「おおきい」ということである。「勝」は「すぐれている」ということであり、あらゆる善にまさっているということである。「増上」とは、あらゆるものよりすぐれているということである。このことはすなわち、他力本願がこの上なくすぐれているからである。自力の心を捨てるということはすなわち、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。それは、具縛の凡愚・屠沽の下類も、ただひとすじに、思いはかることのできない無礙光仏の本願と、その広く大いなる智慧の名号を信じれば、煩悩を身にそなえたまま、必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。「具縛」とは、あらゆる煩悩に縛られているわたしたち自身のことである。「煩」は身をわずらわせるということであり、「悩」は心をなやませるということである。「屠」は、さまざまないきものを殺し、切りさばくものであり、これはいわゆる漁猟を行うもののことである。「沽」はさまざまなものを売り買いするのもであり、これは商いを行う人である。これらの人々を「下類」というのである。)

 聖人は、最初に「回心」という言葉について説かれます。
 この言葉は普通には「かいしん」と読まれることが多いように思います。手元の国語辞典で調べてみますと、「かいしん」と読む場合は、「キリスト教で、生活や世界に対する従来の不信の態度を改めて、信仰に心を向けること」とされていました。
 一方、「えしん」と読む場合、同じ辞典では「[仏]宗教的自覚によって、心を改めて邪から正に入ること」とされていました。この[仏]の表記は仏教語だということを示すものです。
 私は、「かいしん」は「一般的に誤りに気づき態度を改める」という意味だと思っていましたが、もともとは「キリスト教で」ということだったようです、これは初めて知りました。
 横道に逸れましたが、親鸞聖人は「えしん」は「他力のお救いに気づき、自力の心を改めて捨てること」だとされていることが分かります。

 そしてそれにより「決して壊れることのない他力の信心が起こる」のだとされ、それを「多念仏」とあらわされます。
 聖人は、この「多」の義を、「大」「勝」「増上」の三つの意味に解されています。それは、「大きく、すぐれていてその様はほかの何物にも勝っている」と説明されます。ここでは聖人は、「多」の持っている「たくさん」という意味は取り上げられていません。お念仏を称える回数を言っているのではなく、そのお念仏があらゆるものに勝っていること、だと示されます。

 そして自力の心を捨てる、というのはいわゆる「すぐれたりっぱな人」が、思いあがった心で、わが身を頼りとして、こざかしい思いで励む行ではなく、煩悩を抱えそれから逃れることのできない私たちが、ご本願によって煩悩をそのままにすくわれ、さとりに至ることなのだと示されます。
 聖人は、煩悩にとらわれ苦しんでいる私たちの姿を「具縛の凡愚・屠沽の下類」と記されます。本日の句に続く第8句に「れふし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり」(漁猟を行うものや商いを行う人など、さまざまなものとは、いずれもみな、石や瓦や小石のようなわたしたち自身のことである)という言葉を記しておられます。

 このように、伝統仏教では救いの対象とされていなかった「具縛の凡愚・屠沽の下類」である私たちが、阿弥陀さまから向けられた信心によって、煩悩をそのままにしてすくわれ、仏となる姿を聖人はお示しになりました。

 聖人は、「煩悩」の「煩」は「身をわずらわせること」、「悩」の方は「心をなやませること」と記されています。これもその違いを始めて知りました。

(写真は、ナルコユリです)

 寺の駐車場から境内につながる道に咲いていました。右の写真が全体の姿で花の写真も撮ったのですが、これがピンボケだったことに後で気づきました。それで、左の花の写真は2004年に奈良県の吉野町で撮ったものを使いました。

 名前を漢字で書くと「鳴子百合」。並んで咲いている花の姿が、雀を追い払うのに昔使われていた鳴子に似ているところからこの名前になったのだそうです。

749.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(34):無碍の一道(7)

ドクダミ2  ドクダミ (2)s

 久しぶりに『唯信鈔文意』に戻ってきました。今回は、親鸞聖人が取り上げられた2番目の偈頌の第6句です。
 
 彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金

 不簡破戒罪根深 (破戒と罪根の深きとを簡(えら)ばず)

 聖人の御文と現代語訳を記します。

 「不簡破戒罪根深」といふは、「破戒」は上にあらはすところのよろづの道俗の戒品(かいほん)をうけて、やぶりすてたるもの、これらをきらはずとなり。「罪根深」といふは、十悪・五逆の悪人、謗法(ほうぼう)・闡提(せんだい)の罪人、おほよそ善根(ぜんごん)すくなきもの、悪業(あくごう)おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かやうのあさましきさまざまの罪ふかきひとを「深」といふ、ふかしといふことばなり。すべてよきひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひとを、無碍光仏(むげこうぶつ)の御ちかひにはきらはずえらばれずこれをみちびきたまふをさきとしむねとするなり。真実信心をうれば実報土(じつぽうど)に生るとをしへたまへるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。「総迎来」は、すべてみな浄土へむかへ率(い)て、かへらしむといへるなり。 

 (「不簡破戒罪根深」というのは、「破戒」とは、これまでに示したような出家のものや在家のものの守るべきさまざまな戒律を受けていながら、それを破り、捨ててしまったもののことであり、このようなものを嫌わないというのである。「罪根深」というのは、十悪・五逆の罪を犯した悪人、仏法を謗(そし)るものや一闡提(いっせんだい)などの罪人のことであり、総じて善根の少ないもの、悪い行いの多いもの、善い心が浅いもの、悪い心が深いもの、このような嘆かわしいさまざまな罪深い人のことを「深」といっているのであり、すなわち「深」は「ふかい」という言葉である。総じて、善い人も、悪い人も、身分の高い人も、低い人も、無礙光仏(むげこうぶつ)の誓願においては、嫌うことなく選び捨てることなく、これらの人々をみなお導きになることを第一とし、根本とするのである。他力真実の信心を得れば必ず真実の浄土に生まれると教えてくださっていることこそ、浄土真実の教えの本意であると知らなければならないというのである。「総迎来」とは、すべてのものをみな浄土へ迎えて連れて行き、法性の都にかえらせるといっているのである。)

 この第6句について聖人が記された御文は、二つの部分に分けられるとされています。

 前半の「ふかしといふことばなり」までの部分で、聖人は、阿弥陀さまのお救いは、破戒の人も、罪根深いひとも嫌わずにすべての人々に向けられていると説かれます。
 前回の部分で、聖人は教えを聞き信じる多聞の人も、戒律を正しく守る人も、そのことではなく、他力の信心をいただくことによって阿弥陀さまのお浄土に救われることを示されました。今回の部分では、さらに進んで、一旦受けていた戒律を破り捨てる人や大罪を犯した人、仏法を謗る人、正法を信じずさとりを求める心もない人、など罪業の深い人でも、阿弥陀さまはお捨てになることはない、とされます。

 そして、「すべてよきひと、」以下の部分で、聖人は第2句から今回の第6句までについて、改めてその総意をお伝えいただいています。人の善悪、貴賤を問うことなく、阿弥陀さまのお救いの力は誰一人残すことなく私たち一人一人に向けられているということを再度記しておられます。

 これまでの4つの句頭に使われている「不簡」という言葉が気になっていました。「えらばず」と読まれるのですが、「簡」を「えらぶ」と読むことを今回初めて知りました。「簡」の字は、普通だと「簡易」や「書簡」の「簡」のイメージです。
 手元の漢和辞典で「簡」をひくと、「ふだ」、「てがみ」と「えらぶ」の読み方が記されていました。竹(たけかんむり)が意味を表し、間(閒:かん)が発音と「隙間がある」という意味を表すのだそうです。さらに、「揀(かん)」に通じて「えらぶ」という意味にも用いられるようになったということが説明されていました。

(写真は、ドクダミの花です)

 ドクダミもちょうど今頃咲いています。独特の香り(臭気)がありますが、昔これを焼いて吹き出物などの「治療」に使っていた記憶があります。

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746.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(33):無碍の一道(6)

20210521薬師堂  20210521薬師堂2

  今回は、親鸞聖人が『唯信鈔文意』に取り上げられた2番目の偈頌の第5句を学びます。

 偈頌の全体です。今回は、太字の部分です。

 彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金

 不簡多聞持浄戒 (多聞と浄戒をたもてるをえらばず)

 聖人が記された御文と現代語訳です。

 「不簡多聞持浄戒」といふは、「多聞(たもん)」は聖教(しょうぎょう)をひろくおほくきき、信ずるなり。「持(じ)」はたもつといふ、たもつといふは、ならひまなぶこころをうしなはず、ちらさぬなり。「浄戒(じょうかい)」は大小乗のもろもろの戒行、五戒・八戒・十善戒、小乗の具足衆戒(ぐそくしゅかい)、三千の威儀(いぎ)、六万の斎行(さいぎょう)、『梵網(ぼんもう)』の五十八戒、大乗一心金剛法戒(いっしんこんごうほうかい)、三聚浄戒(さんじゅじょうかい)、大乗の具足戒(ぐそくかい)等、すべて道俗の戒品(かいほん)、これらをたもつを「持」といふ。かやうのさまざまの戒品をたもてるいみじきひとびとも、他力真実の信心をえてのちに真実報土(ほうど)には往生をとぐるなり。みづからの、おのおのの戒善(かいぜん)、おのおのの自力の信、自力の善にては実報土(じっぽうど)には生れずとなり。 

(「不簡多聞持浄戒」というのは、「多聞」とは、聖教を広く多く聞き、信じることである。「持」は、「たもつ」ということである。「たもつ」というのは、習い学ぶ心を失わず、散漫にならないことである。「浄戒」とは、大乗・小乗のさまざまな戒律のことであり、五戒、八戒、十善戒、小乗の具足戒、三千の威儀、六万の斎行、『梵網経』に説かれる五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒など、出家のものや在家のものが守るすべての戒律をいう。そしてこれたをたもつことを「持」というのである。このようなさまざまな戒律をたもっている立派な人々であっても、本願他力の真実の信心を得て、はじめて真実の浄土に往生を遂げることができるのである。自らの力によってそれぞれが戒律を守ることで得る善根、それぞれの自力の信心や自力の善根では、真実の浄土には生まれることができないというのである。)

 親鸞聖人は、今回の句を受けて、多聞の人、持戒の人が救われる姿を説かれます。聖人は、そのように聖教をたくさん聞き、信じる人、戒律を保つ人、一般に「立派な」人といわれる人は、そのことでお浄土に往生できるのではない、とされます。その人も、「他力真実の信心をえてのちに(本願他力の真実の信心を得て、はじめて)」真実のお浄土に往生を遂げることができるのだと記されます。
 そして、「みづからの、おのおのの戒善(かいぜん)、おのおのの自力の信、自力の善にては実報土(じっぽうど)には生れずとなり(自らの力によってそれぞれが戒律を守ることで得る善根、それぞれの自力の信心や自力の善根では、真実の浄土には生まれることができないというのである)とされます。

 どのような者であっても、お念仏一つでお浄土に往生できると説かれた法然聖人のみ教えは、聖覚法印を通して親鸞聖人に伝えられました。
 聖覚法印は今回の段で、名号は「阿弥陀」の三文字であるから「在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず」いつでもだれでも称えることができ、誰一人残すことなく救われるとされました。親鸞聖人は、これを受けて、私たちが救われるのは、自力の信心や自力の善根ではなく、信心をいただき阿弥陀さまのお救いにお任せする、他力の道以外にはない、のだと説かれました。

 今回の段をお読みして、聖人が「浄戒」として多くの行について記されていることに驚きました。
 梅原真隆師は『唯信鈔文意講義』で、この様々な戒行の内容について記されているのですが、それはその本の4ページにも亙るものになっています。

 例えば、最初の五戒は「不殺生戒、不偸盗戒、不邪婬戒、不妄語戒、不飲酒戒」であり、八戒はこれに「不坐高広大床戒、不著花鬘瓔珞戒、不習歌舞戯楽戒」の3つ(普賢師によります。他のものを入れる場合もあるようです)を加えたもので、五戒の方は在家の信者が日常的に守るべき戒、八戒の方は日を限って出家者と同様に受持する戒だとされています。
 五戒の内容は字を追ってみると理解できるように思いますが、あとの3つの戒は「高くゆったりした寝台に寝ない」「装身化粧をしない」「歌舞を視聴したり習ったりしない」という内容なのだそうです。この8つの戒だけでも、これは大変だなあ・・と思いますが、まだまだ続くのです。

 小乗の具足戒というのがありますが、これは比丘(男性出家者)の250戒、比丘尼(女性出家者)の350戒を指します。この比丘の250戒を行・住・座・臥に配列すると1,000戒、さらにこれを過去・未来・現在の三世に繰り返すとき3,000(三千の威儀)になるのだと、梅原真隆師が記しておられます。

 聖人は、このように驚くような多数の戒を記され、伝統的な仏教で大事にされて来たこれらの戒を保つことができる稀有な(立派な)人でも、そのことでは往生を遂げることはできないのだと示されました。
 私などは、最初の五戒のところでこりゃいけません、となりそうですが、そのような私でも、阿弥陀さまのお力で救っていただける、と聖人はお示しいただいたのです。
 
(写真は、前回ご紹介しました薬師堂の仏像(左)と仏像を安置してある場所の格子戸(右)です)

 仏像は傷みが見えますが、右が阿弥陀さま、左が薬師如来です。右の写真の格子戸の間から写したものです。

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745.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(32):無碍の一道(5)

20210517薬師堂s

 今回は、親鸞聖人が取り上げられた2番目の偈頌の、3句目と4句目について学びます。該当の句は太字の部分です。
 (聖人が取り上げられた2番目の偈頌は全体で8句なのですが、これまでそのうちの6句しか記しておりませんでした。今回初めて気づきました。引用する際に原文からコピーをするのですが、その際に抜けてしまっていたようです。お詫び申し上げます。)

  彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
  不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
  不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
  但使回心多念仏 能令瓦礫変成金

  不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才(貧窮とまさに富貴とをえらばず 下智と高才とをえらばず)

 以下に、ご文と現代語訳を記します。

 「不簡貧窮将富貴」といふは、「不簡(ふけん)」はえらばず、きらはずといふ。「貧窮(びんぐ)」はまづしく、たしなきものなり。「将(しょう)」はまさにといふ、もつてといふ、ゐてゆくといふ。「富貴(ふき)」はとめるひと、よきひとといふ。これらをまさにもつてえらばず、きらはず、浄土へゐてゆくとなり。 
 「不簡下智与高才」といふは、「下智(げち)」は智慧あさく、せばく、すくなきものとなり。「高才(こうざい)」は才学(さいかく)ひろきもの、これらをえらばず、きらはずとなり。 

 (「不簡貧窮将富貴」というのは、「不簡」とは、選び捨てない、嫌わないということである。「貧窮」とは、貧しく、苦しみ困っているもののことである。「将」は「まさに」ということであり、「もつて」ということであり、連れて行くということである。「富貴」とは、裕福な人、身分の高い人ということである。これらの人々を、まさに選ぶことなく、嫌うことなく、浄土に連れて行くというのである。
 「不簡下智与高才」というのは、「下智」とは、智慧が浅く、狭く、少ないものというのである。「高才」とは、才能が豊かで学のあるもののことであって、これらの人々を選ぶことがなく、嫌うことがないというのである。)

 聖人は、前回の第2句で「総迎来」という言葉で、阿弥陀さまが誓われた、衆生を残すことなく救うという第十八願は、あらゆる人々に向けられていると説かれました。そのことを、今回の第3句以降で具体的に示されます。
 第3句では、貧しい人も富める人・高貴な人も、第4句では、智慧の浅い人も才学の広い人も、だれも選ばず嫌わずに取り残すことなく救われるのだとお伝えいただいています。

 聖人は、「将」という字には、「まさに」「もつて」「率てゆく」という3つの意味があると記されています。
 これらの意味を踏まえて聖人は、「これらをまさにもつてえらばず、きらはず、浄土へゐてゆくとなり。(これらの人々を、まさに選ぶことなく、嫌うことなく、浄土に連れて行く)」と釈しておられます。

 この「将」の字について漢和辞典を調べてみますと、たくさんの意味があることが分かりました。手元の大修館発行の『新漢和辞典』では、35もの字義が挙げてありました。

 その最初に、「ひきいる」と読まれる例が取り上げられています。
 これには、「将軍」などの言葉が該当するものでしょう。聖人が「率てゆく」と説かれた部分に当たります。だれも漏らすことなくお浄土に「連れて行く」という阿弥陀さまのお救いの姿を述べられています。

 辞典では次に「まさに」と読まれる例が記されています。漢文で再読文字と呼ばれていますが、「まさに・・(せんと)」とか「まさに・・し」という形で使われ、動作が起ころうとする状態を表したり、後者では「当」と同義で、そうすべきだという意味を表すとされています。前者の例では「将来」という言葉がその意味を表しています。

 聖人が解された「もつて」の字義は、漢和辞典では「以」と同じとされている字義だと思われます。
 このように、聖人は「将」の字義を用いて、阿弥陀さまのお救いは、貧窮と富貴とを選ばず下智と高才とを差別することなくあらゆる衆生に向けられたものだとお伝えいただいています。

(お知らせです)

 以前、ご案内していました5月16日開催予定の「スクール・ナーランダvol.6」のプレイベントは、コロナウイルス感染拡大を受けて、6月30日に延期となりました。

(写真は、宇部市芦河内(あしがわち)にある「薬師堂」と呼ばれている建物です。)

 この建物は応永元年(1394年)の建立とされ、阿弥陀如来の立像を始め薬師如来立像、毘沙門天立像など室町時代の像が安置されています。県内にあるお堂のなかでも整った姿をしているとされ、県の有形民俗文化財に指定されています。 
 ことし3月に約20年ぶりに茅葺屋根の葺き替えが行われ、新しい姿になりました。ちょうど通りかかったときに、田植えが終わった田にその姿が映っていました。

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