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655.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (66):下巻補(10)

三代宗主ss

 前回までで、奥書も含めて『御伝鈔』と「伝絵」について学んできました。

 本願寺第3代宗主の覚如上人は、永仁3年(1295年)にこの『御伝鈔』を詞書とする絵巻「本願寺上人伝絵」を制作されました。この年は、親鸞聖人が亡くなられてから33年に当たる年です。
 その後上人は、内容に手を加えられ、最初の伝絵から48年後、康永2年(1343年)に制作された「康永本」がその最終版となりました。現在多くの浄土真宗寺院に伝えられる御絵伝は、この「康永本」を基本として描かれたたものです。
 
 覚如上人は、覚恵上人のご長男として文永7年(1270年)にお生まれになりました。覚恵上人は親鸞聖人の末娘覚信尼公のご子息になりますので、覚如上人は親鸞聖人の曽孫に当たります。若くして天台の教えを学び、その後弘安10年(1287年)には慈信坊善鸞氏(以前学びましたように親鸞聖人のご子息ですが、聖人から義絶された人です)の子息の如信上人に会われて親鸞聖人のみ教えを学ばれました。
 また伝絵制作に先立って、上人は父上の覚恵上人とともに関東の親鸞聖人の聖跡を巡られて、同地の門弟方から聖人の事跡について学ばれたと伝えられます。

 そのような体験を通じて、覚如上人は親鸞聖人のみ教えを承継するというご自身の立場を明確にしていかれました。
 その過程では、以前少し触れましたが上人の叔父に当たる唯善氏との留守職をめぐる争いや、上人に距離を置いていた関東の門弟方との関係の修復などの課題に対処されました。また、親鸞聖人の廟所であった大谷廟堂を真宗門徒の中心と位置づけられ、対外的にも「本願寺」を寺院として確立されました。

 一昨年の7月から66回にわたって「御絵伝に見る親鸞聖人の御生涯」について学んできました。
 覚如上人は伝絵の制作を通じて、親鸞聖人が師である法然聖人のみ教えを正しく受け継がれ、大変なご苦労を重ねられながらそれを守り伝えられたことを示されました。さらに、親鸞聖人の廟所を礎とする本願寺が真宗門徒の中心寺院であること、上人ご自身がその法灯を継承することを示され、現在に続く真宗教団の基礎を確立することに尽力されたたことを学ぶことができました。

(図は、右から親鸞聖人、如信上人、覚如上人です。)

 この図は、2017年4月に伝灯奉告法要に団体参拝した際にいただいた冊子からお借りしました。
 覚如上人は、親鸞聖人を御開山、如信上人を第二代、ご自身を第三代の宗主とされました。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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653.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (65):奥書(3)

廟堂の推移s

  『御伝鈔』に付された3番目の奥書です。御文は次の通りです。

 「康永二載癸未十一月二日筆を染めをはりぬ。 
                   桑門 釈宗昭 
                   画工 大法師宗舜 康楽寺弟子」

 平松令三氏による訳です。
 「康永二年(1343)十一月二日筆をとって書き終わりました。
                   僧 釈宗昭
                   画工 康楽寺弟子大法師宗舜」 

 ここで、覚如上人はこの奥書を前回の第二の奥書の4年後に記されたことが分かります。
 こうして見ますと、覚如上人は1295年、26歳の時に初めて絵巻を制作され、その44年後の1339年に焼失した原本の写しをもとにして制作し直されました。そしてそのさらに4年後にもう一つの絵巻を制作されたことになります。この時、上人は74歳になっておられました。

 この最後の伝絵は制作年から「康永本」と呼ばれ、東本願寺に伝わっているものです。上人はその後伝絵を制作されなかったとされますので、伝絵の最終決定版であり、浄土真宗の寺院に伝えられる四幅の御絵伝はこの「康永本」を基本にして描かれたものです。
 この康永本について平松氏はその絵巻の紙幅について述べておられます。それによりますと、原本である専修寺本や西本願寺本が幅32~33センチであるのに対して、康永本の幅は41.8センチと10センチ近くも大きいのだそうです。これは、覚如上人が本願寺という寺院の地位を明確にしようという意思が現れているのだとされます。
 覚如上人は、大谷廟堂を寺院化して真宗門徒の中心とすることに注力された方でした。上人の晩年、そのご意志が実現していったという喜びと誇りもこの最後の伝絵に現れているとされます。

(図は、伝絵に描かれた廟堂の姿です。右から順に「西本願寺本」「専修寺本」「康永本(東本願寺本)」「弘願本(西念寺本)」です。)

 『真宗重宝聚英』にこの4枚を比較した記事がありましたので、図をお借りしました。
 廟堂の内部を見てみますと、西本願寺本では石塔だけが、専修寺本では親鸞聖人のご影像と石塔、康永本では正面を向かれたご影像、弘願本ではご影像が斜め向きに、見えます。

 これもみ教えとは別の話になるのですが、この絵相の違いから西本願寺本と専修寺本の制作時期の前後が論じられているのだそうです。その場合、廟堂内部の様子は画工が自分の判断で描けるものではなく、制作者の指示によるものであり、またそれは伝絵制作当時の廟堂の姿を伝えるものだ、ということが前提になっているようです。
 
 西本願寺本が専修寺本よりも古いとする立場からは、創建当時の廟堂には石塔だけが置かれていて、その後ご影像が安置されたのが専修寺本の姿だとされます。
 一方、専修寺本の方が先に描かれたとする立場からは、廟堂には最初から石塔とご影像が安置されていたのですが、ある出来事によりそのご影像が失われたというのです。それは、覚如上人と上人の叔父にあたる唯善氏との間に廟堂の管理権について争いが生じ、遠慶2年(1309年)に唯善氏がご影像を奪って関東に逃げるという事件が起こり、西本願寺本はその事件の後に描かれたので、ご影像がない絵になっているという説です。

 その時に、廟堂も破壊されたのですが、その後1311年に復旧され、それもまた前回記しましたように1336年に焼失しました。さらにその2年後1338年に古い仏堂が移設されたのだそうです。その時には石塔も失われていて、弘願本や康永本に描かれているように、その後に安置された親鸞聖人のご影像だけが描かれているということになります。

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650.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (64):奥書(2)

 
20200622西念寺s   20200622金刀比羅宮s
 『御伝鈔』に付されている「奥書」の2回目になります。今回は第二の奥書の内容を学びます。

 御文は次の通りです。
 「暦応(れきおう)二歳己卯四月二十四日、ある本をもつてにはかにこれを書写したてまつる。先年愚筆(ぐひつ)ののち、一本所持のところ、世上に闘乱のあひだ炎上の刻(きざみ)、焼失し行方知れず。しかるにいま慮(おもんぱか)らず荒本(こうほん)を得て記し、これを留むるものなり。」

 平松令三氏の訳文を載せます。
 「歴応二年(1339)四月二十四日、ある本によって、これを書写しました。実は先年(永仁三年)草稿を作って書き、一本を所持しておりましたところ、世間に戦乱が広がり、本願寺も兵火で炎上した際に、焼けてしまったようで行方知れずになりました。しかしこのたび、粗雑なひどい本ですが、思いがけず一本を手に入れましたので、それを基にして制作し、後世に残すことといたします。」 

 この奥書は、歴応2年(1339年)上人が70歳の時に記されたものです。
 それによりますと、覚如上人は、永仁3年(1295年)に最初の伝絵を制作された際、一本を手元に持っておられたようですが、その一本が戦火の中で焼けてしまったと言っておられます。平松氏によれば、この戦火というのは、建武3年(1336年)足利尊氏が湊川の合戦で楠正成の軍を破り、京都に侵入してきた時の戦火で、この時本願寺が炎上したことを指すということです。その時、覚如上人は近江の国に避難しておられたと伝えられています。
 上人が持っておられた一本は焼失したのですが、原本を写して作られた絵巻を入手することができて、それを元にして後世に残すことにした、と記されています。

 本願寺出版社から刊行された、現代語版『御伝鈔 御俗姓』では、巻末の付録で「伝絵」の本願寺本、東本願寺本、専修寺本の詞書の同異が対比してあり、奥書についてもその異動が分かります。
 それによりますと、西本願寺本と専修寺本にはこの第二の奥書がないようです。この両本は最初に制作されたもので、東本願寺本は、この第二の奥書のさらに後に覚如上人が制作された最後の版でしたからそのようになったのだと思われます。

 それともう一つ、この本で、前回漢字でパソコンの字典で見つけることができなかった字(ごんべん+「比」)は、西本願寺本と専修寺本では「紕」という字になっていることが分かりました。これなら、パソコンにもありました。手元の漢和辞典でも「ごんべん」の方は見つけることができなかったのですが、この「紕」はありました。それによりますと、「紕(ひ)」は「あやまり、まちがい」の意味があるようで、「紕謬」という言葉もあることがわかりました。

(図は、これまで取り上げた以外の「伝絵」下巻第七段の図です。)

 左は茨城県笠間市の西念寺に伝わるもの、右は香川県琴平の金刀比羅宮に伝わるものです。

 以前ご紹介しましたように、笠間の西念寺は、親鸞聖人が庵を結ばれた稲田の地に建立されたお寺です。西念寺に伝わる伝絵は、「弘願本」と呼ばれています。絵図の出入りからみて、弘願本は、西本願寺本や専修寺本の最初期のものと東本願寺本との中間の形態を持っているとされているようです。このことからも、覚如上人は、伝絵を最初に制作された後も手直しをしておられたことが窺えます。

 金刀比羅宮にも伝絵が伝えられているということは、知りませんでした。
 以前にもご紹介したことがありますが、『真宗重宝聚英』という全集の第5巻は「親鸞聖人伝絵」となっていて、多くの「伝絵」を見ることができます。この本の解説は平松令三氏が書いておられるのですが、平松氏によれば、この金刀比羅宮に伝わるものは、江戸時代末期の大和絵の巨匠冷泉為恭(れいぜいためちか)の手になる模写だということです。平松氏は、彼が親鸞聖人の伝絵も模写していたということに注目しておられました。
 図は東本願寺本と同じで、薄紙を当てて模写したものだと言われているようです。面白いのは、伝絵の詞書の部分は、それぞれの段の書き始めと書き終わりの部分だけが記されているということです。つまり、もっぱら絵図を模写することが目的だったということが分かるというわけです。

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649.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (63):奥書

20200619東本願寺本s

 久しぶりに、御絵伝に戻ってまいりました。前回までで、『御伝鈔』の下巻第七段を学んできました。
 今回は、その後に記されている「奥書(おくがき)」について学びたいと思います。

 御文です。
 「奥書にいはく 
  右縁起図画(えんぎずえ)の志、ひとへに知恩報徳のためにして戯論(けろん)狂言のためにあらず。あまつさへまた紫毫(しごう)を染めて翰林(かんりん)を拾ふ。その体(てい)もつとも拙(つたな)し、その詞(ことば)これいやし。冥(みょう)に付け顕に付け、痛みあり恥あり。しかりといへども、ただ後見賢者の取捨を憑(たの)みて、当時愚案の*謬(ひびゆう)を顧みることなきならんのみ。 
  時に永仁第三の暦、応鐘(おうしょう)中旬第二天、晡時(ほじ)に至りて草書の篇(へん)を終(お)へをはりぬ。
                   画工 法眼(ほうげん)浄賀 号康楽寺」

 (文中の(*)の部分は「ごんべん」に「比」という字なのですが、パソコンにありませんでした)

 現代語訳です。平松令三氏によります。
 「右のように、親鸞聖人ご生涯の伝記を絵巻に制作した趣旨は、ただただ聖人の御恩に報いようというためであって、芸能や遊びのためではありません。絵を描き、文章を綴りはしましたが、その体裁は拙劣で、文体も程度の低いものです。仏・菩薩に対しても、この世の心ある人びとに対しても、恐縮で、恥ずかしいものです。しかしこれを見ていただく賢明な方がたが、取捨選択していただくのにまかせて、自分勝手な誤りのあることを気にかけないであえて公開いたします。
  永仁三年(1295)十月十二日午後四時ごろ、ようやく草稿を完了しました。
                   画工は法眼康楽寺浄賀です。」


 この「奥書」といいますのは、「巻軸・写本などのおわりに、その来歴などをしるした書き入れ」のことで、今回の『御伝鈔』には、3つの奥書があるとされています。今回はその第一の奥書で、永仁3年、26歳の覚如上人が最初に『伝絵』を完成されたときのものです。
 上人はこの中で、この絵巻は親鸞聖人への報恩のために制作したものであって、決して遊び心によるものではない、と述べておられます。

 奥書の中で上人は、「絵は、康楽寺の浄賀という人の手になる」と記されているのですが、平松氏によりますとこの康楽寺がどこのお寺なのかということについては、まだ明確な結論が出ていないのだそうです。 

 そこで思い出したのですが、このシリーズの第1回目で、この康楽寺は長野市にある康楽寺のことで、浄賀師は同寺の第2世だという説をご紹介していました。なのですが、どうもこの説は怪しいもののようです。
 平松氏によりますと、同寺の寺伝でも同じことが伝えられていて一時期はそれが定説になっていたのだそうですが、その後の研究により、その伝承は後世の偽作ではないかという説が出されたのだそうです。かつて京都に康楽寺というお寺があって、ここで言われている康楽寺はそのお寺のことではないかということになっていて、平松氏もこちらの説の方が有力だとみておられるようです。
 2年前のことですが、ちょっと勇み足だったようで、お詫びします。

(図は、東本願寺本の伝絵です)    
 
 前回まで注目していました図の像で見ますと、廟堂の中には親鸞聖人のご影像と三具足が置かれてあり、覚如上人とされる僧侶が境内を掃除している姿が描かれていますが、回廊には人影が見えません。また、廟堂の屋根は檜皮葺で描かれています。
 この康永2年(1343年)に制作された東本願寺本が、覚如上人による伝絵の最終版とみなされ、その後広く伝えられる『御絵伝』のもとになっているとされています。

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642.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (62):下巻補(9)

20200525西本願寺本下巻第7段s

  今回は、『御伝鈔』には記されていませんが、聖人のご遺骨をお納めする廟堂の建立と本願寺の起源に関わることについて学びたいと思います。

 前回までで、親鸞聖人がご往生され、そのご遺骨を最初は大谷の地の墓所にお納めし、後に吉水の北辺りに仏堂を建ててここにご影像とともに安置されたことを学びました。以前にも記しましたように、この仏堂の建立には、聖人の末娘で聖人のご臨終にも立ち会われた覚信尼公が関わっておられます。覚信尼公は、関東の門弟方に墓所の移設、仏堂の建立を呼びかけられ、関東の門弟方はこれに応えられて支援を寄せられました。

 その仏堂を設けた吉水の地は、覚信尼公のご主人の小野宮禅念氏の持ち物でしたが、禅念氏は文永11年(1274年)にこの土地を覚信尼公に譲られます。その際に、禅念氏は、この土地は、子供に譲る譲らないも含め覚信尼公の意志によって取り扱うように、とされたのだそうです。覚信尼公の門徒方の中での立場を考えて、禅念氏はそのような配慮をされたのだと伝えられています。
 このようにして、大谷の仏堂は関東の門徒が建立したもの、その土地は覚信尼公の所有するもの、という形になりました。

 その後、建治3年(1277年)に、覚信尼公はこの土地を聖人の墓所に寄進されました。覚信尼公はその際、この寄進は「御はかをまたくせんため」(御墓を全くせんため:お墓を将来にわたって問題が生じないように)に行うのだと仰ったと伝えられています。自身の末裔が廟堂を恣意的に営むことがないようにする、という思いだったとされています。このことによって、大谷の廟堂は、その土地も含めて門徒が共同して所有するものとなったということができます。

 覚信尼公はその際、「この御めうだうあづかりて候はんずるあまがすゑずゑの物ども」(この御廟堂預かりて候はんずる尼が末々の者ども)とされ、自分の子孫がこの廟堂を預かり管理していく、とされました。この管理する役目は、「留守職(るすしき)」と呼ばれますが、大谷の廟堂の留守職は覚信尼公の子孫が勤める、ということを示されたことになります。
 しかし同時に、覚信尼公は、その留守職が門徒の意志に背いて祖廟に混乱を招くようなことがあった場合には、門徒は直ちにその者を留守職から追放する、ことも定められ、留守職の役は「預かる」のであって、その地位は門徒の意志に拠るということも示されています。

 このようにして、覚信尼公は廟堂を建立され留守職を設置されました。このことは、前者は後の本願寺の開基に当たり、後者はご門主にかかわる制度へとつながるもので、覚信尼公がその礎を築かれたことになります。

(図は、西本願寺本の伝絵です。)

 すでに掲載しました他の図(自坊の御絵伝、専修寺本の伝絵)と比較しますと、この西本願寺本には次のような特徴があることが分かります。
 ・廟堂の中には石柱だけが描かれています。専修寺本では石柱とご影像の両方、御絵伝ではご影像と三具足が描かれていました。
 ・回廊に僧侶の姿が描かれています。専修寺本では僧侶以外の人も描かれていました。一方、御絵伝では誰も描かれていませんでした。
 ・御絵伝と専修寺本には、覚如上人ご自身とされる僧侶の姿が描かれていましたが、西本願寺本では誰も描かれていません。
 ・屋根は檜皮葺ではなく瓦葺です。専修寺本でも瓦葺に、御絵伝では檜皮葺に描かれていました。

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