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718.歴史を訪ねる(26):講演会「プレイバック宇部100年」(2)

 
20210215新聞1号s  20210215新聞2号s 

 2月6日、「プレイバック宇部100年」の第3回講演会が開催されて、聴講することができました。
 当日は、「新聞が伝えた宇部市制ー宇部時報の記事から」と題して、宇部日報社の脇和也社長が講演されました。新聞の記事から宇部市制施行当時の社会状況を知ることができ、また現在の「宇部日報」の前身である「宇部時報」の歴史も知ることができる興味深い講演でした。

 その「宇部時報」は、1912(明治45)年7月15日に創刊された新聞です。
 今回初めて整理して理解することができたのですが、日本の新聞は大きく区分すると、全国紙、ブロック紙、県紙、地域紙といったように区分できるようです。全国紙というのは読売、朝日、毎日、日本経済、産経の5紙、ブロック紙以下を宇部市地域で言いますと、中国新聞(ブロック紙)、山口新聞(県紙)、宇部日報(地域紙)ということになります。

 この「宇部日報」の前身が「宇部時報」で、上記のように1912年に紀藤閑之介氏が創刊されました。
 日本の新聞が創刊された時期を調べてみますと、全国紙の中では「毎日新聞」の前身「東京日日新聞」が1872(明治5)年と一番早く、「産経新聞」以外は1879年まで、いわゆる自由民権運動の時代に創刊されていたことが分かります。ブロック紙としての「中国新聞」の創刊が1892(明治25)年、県紙の「山口新聞」は戦後の1946(昭和21)年となっています。

 そのような中でスタートした「宇部時報」は、当初は月刊紙で現在のフリーペーパーのように購読料、送料などすべて無料で、紀藤氏が費用を負担して発行されていたということです。

 講演の中で創刊号の記事が紹介されていました。
 1面の最初に「御製」として「世の中は高きいやしきほどほどに 身をつくすこそつとめなりけれ」という明治天皇御製の歌が掲げられ、続いて次の創刊の辞が掲載されています。
 「国を知らざるは忠良の民にあらず、村を知らざるもの果して善良なる村民と云ふを得るか」と書き起こし、当時の宇部村に関する公私の情報を集めたがこれを一人だけのものにせず共有するために「宇部時報」を創刊した、ということが述べられています。
 続いて発行された第2号は大正元年8月15日付けと年号が変わりました。ちょうど明治から大正へと時代が変わる時だったということになります。

 創刊の前後から昭和時代の宇部地区について見ますと、1889(明治22年)宇部村誕生当時の人口が6.5千人、渡辺祐策氏が沖の山炭鉱を創業した1897(明治30)年を経て新川地区は人口の急増を見ます。「宇部時報」が創刊された1912(明治45)年の人口(時報第1号で上記の創刊の辞に次いで「宇部村本籍者数」として明治44年末の人口の情報が掲載されています)12.3千人と20年余りで倍増していることが分かります。その後、炭坑の周辺の事業が活発化し工業都市化が進み、宇部市制が施行された1921(大正10)年に4万人、1929(昭和4)年に6万人、1940(昭和15)年には10万人を数えたと当日いただいた資料にありました。

 そのような地域の急速な発展を背景にして、宇部市制が求められ実現しました。その動きを新聞の記事に見ることができます。

 1916(大正5)年6月の「宇部時報」に町制に移行すべきだとする記事が掲載され、1919(大正8)年6月には市制を目指すべきだと変わります。1920(大正9)年7月には宇部実業会が市制施行の嘆願書を提出したという記事が掲載され、翌年には当時の国吉村長が「市制論」を掲載するなど、「宇部時報」は市制移行への機運の盛り上げに大きく貢献したことが分かります。

 その間、国吉村長が達聰会に市制移行に関する照会書を送り、これに対して達聰会は議論の上総会で市制施行を決議し村長に答申書を提出しました。それを受けて村議会は満場一致で市制を決議し内務大臣と知事に答申するという形で、市制施行が決したことが記されています。
 そのような過程を経て1921(大正10)年11月1日宇部市制が施行されることになったのですが、市制施行に対して反対する動きがあったことも新聞の記事から伺うことができます。

 1919(大正8)年の記事には、渡辺祐策氏(当時の達聰会の会長でした)が、町制よりも市制を目指すべきだとしながらも、一般村民の声にも耳を傾ける必要がある、とされたという談話が掲載されています。村内の農業を主体とした地域の反発や、前年に勃発した米騒動の経験も踏まえた意見だったようです。
 講演会では、1921(大正10)年7月15日に開催された達聰会の総会(3回目の総会)での議論の様子を伝える新聞記事が紹介されました。その記事からは、農村部の会員から市制に加わらずに分村するという主張がなされ、伯仲した議論が戦わされたことが知られます。それに対して渡辺会長が破顔一笑「もう決めようではないか」と提案し決議することとなったようです。その結果、全会一致とはいかなかったものの、「大多数」の賛成を得て「市制施行の必要を認む」と決議したことが記されていました。
 7月15日ですから、市制施行のわずか3カ月半前、ということになります。

 このように、「宇部時報」の記事は宇部市の市制施行の経緯を知ることができる貴重な資料ということができます。

(図は、「宇部時報」の第1号、及び第2号の1面の記事です。)

 市立図書館で縮刷版を見ることができました。
 第2号には紀藤氏の「告白」という記事が掲載され、次のように記されています。
 「嚮(さ)きに第一号を頒布するや、幸いに読者多数の同情を得、口に筆に或は次号の発刊を迫るあり、或は期日を問ふあり、或は定期に永続すべきを勧告せらるるあり、」と次号以降の継続定期発刊を望む多数の声が寄せられたことが紹介されています。
 これに対して、氏は「定期」という言葉は耐え難い「苦痛」だとしながらも、読者諸氏の同情にも答えなければならない、として定期発刊とすることにした、とされています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください) 
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710.歴史を訪ねる(25):講演会「プレイバック宇部100年」

20210118チラシs  

  1月16日、「プレイバック宇部100年」という講演会が開催され、聴講することができました。
 この講演会は、宇部市制100年を記念する行事の一環として、宇部地方史研究会および宇部市教育委員会が主催、宇部市文化創造財団と宇部日報社の後援により開催されたものです。全体で5回連続の講演会となっていて、今回はその第1回目となるものでした。

 当日、会場の宇部市文化会館に約80名の方が集まっておられました。
 講演者は宇部地方史研究会の会長で宇部フロンティア大学の特命教授でもある内田鉄平氏でした。以前にもご紹介しましたように、内田氏は古文書読み解き会でご指導いただいている方でもあります。
 演題は「宇部市誕生の前夜」で、宇部市が誕生した背景についてお聞きすることができました。

 宇部市は大正10(1921)年11月1日に成立したのですが、それ以前は宇部村という「村」でした。このように「村」から「町」を飛び越していきなり「市」に昇格するというのは珍しい(戦前には4件のみ。宇部市は佐世保市に次いで2例目)事例だったようです。そのような展開が可能になったのは、宇部地区の炭坑が急速に発展したことによります。
 以前、このブログで内田氏の著『石炭都市宇部市の起源』をご紹介しましたが、この炭坑の発展が社会的にどのような影響を与え、それが宇部市の誕生につながったのかという観点からお話を聞くことができました。

 上記の著書にも記されていますが、石炭採掘は最初は船木村や有帆村で盛んだったということです。それは、この地域の炭層が地表近くにあり採掘しやすかったことによるのだそうですが、地下の炭層を採掘するのに必要な排水技術が進歩することにより宇部地区の深い炭層や海底の炭層も採掘が可能となり、宇部地区に中心が移っていったのだそうです。

 そのような背景により、明治20年代に宇部村の炭坑が一気に増加します。そして明治30(1897)年に、渡辺祐策氏の尽力により沖ノ山炭坑が開山します。沖ノ山炭坑は採掘量を伸ばしていき、他の炭坑とともに宇部地区に活気をもたらしたのだということです。
 多くの炭坑が立地することになった新川地区はもともとほとんど人家のない地域だったそうですが、炭坑の発展とともに炭坑で働く人々が増え、人口が急増していきます。この地区を含めた宇部村の人口はもともとは6,000人程度から明治40年頃には10,000人を大きく超えるまでに増え、さらに増加していきました。

 炭坑業の発展に伴い、その周辺の電気事業、軽便鉄道、銀行、鉄工、レンガ製造、製材、精錬、紡織などの事業が始まり、あるいは発展し、この時期に宇部は石炭産業を核として工業都市の基礎を築いたことになります。

 そのような中、大正7(1918)年8月に米騒動が発生します。
 第一次世界大戦後に日本は好景気の時期を迎えるのですが、米などの物価が高騰し、富山で発生した騒動が全国に広がり、宇部地区にも影響を及ぼすことになります。宇部での騒動はそれまでの炭坑従業者が抱えていた不満がベースにあるもので、実態は労働争議で、軍隊まで出動し死者が生じる事態となりました。
 このように、当時の宇部は急速に膨らんだ居住者、インフラの整備が追い付かない環境、労働条件に対する不満などが渦巻く不安定な社会でした。

 この騒動を通じて、宇部村を主導していた人々は、治安の維持、インフラの整備、社会教育の拡充、娯楽の提供などの対策を進めていくのですが、その中で、市制の施行が必要だとする市制推進論が浮上してきました。新川地区への「一極集中」に反発する農村部からの反対もあったのだそうですが、宇部村として市制に移行することを決し、大正10(1921)年11月1日に市制が施行されることになりました。

 その過程の面白いエピソードが紹介されていました。
 当時は、市制を施行するためには年間を通じて40,000人の人口が必要だったのだそうです。ところが、大正9年10月に実施された第1回の国勢調査の結果では、予想に反して人口は38,000人強でした。それで宇部村では再度調査を実施し、その結果は40,000人を超えるということが確認され、それにより市制への移行を果たしたのだそうです。

 今回の講演で、これまで宇部村の宇部市への移行は、人口が増加したことから「可能になった」程度の理解しかしていなかったことに気づきました。市制施行に先立つ、社会環境の変化、米騒動などの激動があり、さらにその根底に宇部地区の炭坑の発展があったという構造について理解できたように思います。

(図は、連続講演会のパンフレットです)

 第2回目以降のテーマは、次の通りです。いずれも興味深いテーマで、楽しみにしています。

 「ひろばと街と彫刻と」、「新聞が伝えた宇部市制ー宇部時報の記事から」、
 「宇部炭田の歴史と日本初の石炭記念館」、「宇部市の歴史からふりかえる市制100年」

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590.歴史を訪ねる(24):真宗高田派本山専修寺


 先にご報告しましたように、念仏奉仕団の3日目は、長島一向一揆に関わるお寺の桑名市長島の願証寺にお参りした後に、津市にあります真宗高田派の本山専修寺にお参りしました。
 真宗高田派は、先に学びましたように親鸞聖人が常陸国におられた頃の有力な門徒集団であった高田門徒にその起源持っています。

 高田門徒は、聖人の高弟であった真仏師を中心として高田(現在の栃木県真岡市高田です)の地に形成された門徒集団でした。
 最初、高田の地に念仏の道場「専修寺」が建立されました。1225年といいますから、親鸞聖人が『教行信証』の草稿を完成された翌年になります。本尊には長野の善光寺に由来する一光三尊仏(一つの光背を背に阿弥陀さまを中心に観音菩薩、勢至菩薩の三尊をいただいた像です)を迎えられ、これが今も高田の専修寺の本尊として伝えられています。

 その後、「その門下は関東から東北地方、東海地方に及び、初期浄土真宗の中心的な位置を占め、大谷廟堂の護持にも尽力した」(『浄土真宗辞典』)有力な浄土真宗の門徒集団となりました。

 専修寺の第10代法主、真慧(しんね)師は、東海、北陸方面に教線を広げた「中興の祖」とされる方で、津の一身田に伊勢国の中心寺院として「無量寿院」を建立されました。文明年間とされていますので、1469年から1487年の頃ということになります。
 その後、戦国時代に高田の専修寺が戦火で焼失したこともあって、一身田の無量寿院が高田派の本山とされるようになりました。これが現在の「本山専修寺」で、一方の高田の専修寺はその後再建され「本寺専修寺」として継承されています。

 その間、本願寺と高田派(高田門徒)との間では、一向一揆の中で敵味方に分かれて戦ったり、勢力争いを繰り広げたりと、様々な経緯がありましたが、現在では真宗教団連合(真宗の十派の連合)として共に親鸞聖人のみ教えを広げる活動を行っています。

 念仏奉仕団のメンバーは、本山専修寺のご担当の方に境内や建物の中を案内していただきました。
 山門を入りますと、広い敷地の右手に親鸞聖人の木像を安置する「御影堂(みえいどう)」、左に阿弥陀さまの木像を安置する「如来堂」が配置されていました。本山専修寺の伽藍も二度の火災に見舞われたのだそうですが、再建された両堂は2017年に国宝に指定されています。
 境内や両堂を案内していただき、伽藍建築のご苦労や見どころについて、時にユーモアも交えて説明をいただきました。

 御影堂、如来堂に向かってそれぞれ切石を敷いた通路がありました。その石の縦の列が、御影堂では18列、如来堂では17列になっていると説明がありました。それぞれ四十八願の第十八願、第十七願にちなんで設けられたのだそうです。

 また、以前にもご紹介したことがありますが、善光寺との関わりを示しているとされる「高田の一本松」を拝見することができました。仏花にかわるものとして、大きな花瓶に大きな松が一本だけ生けてありました。案内の方は「花を生ける必要がないから簡単そうに見えるかもしれませんが、これも大変なのです。」と言っておられました。そのために松を栽培しているのだそうです。

 親鸞聖人は1232年頃には京都にお帰りになりましたが、京都に戻られてからも、関東の門弟方にお手紙を送り、あるいは書写した書物を送るなどして引き続きみ教えをお伝えになりました。そのようなことから、多くの聖人直筆のお便りや書物が高田派に伝わっています。それらは境内の宝物館に収められているのですが、残念ながら現在は工事のために閉館されていて拝見することができませんでした。

 次の写真、左は如来堂の内陣、右は如来堂の外観です。いずれも専修寺さんのHPからお借りしています。
 左の写真に「高田の一本松」が写っています。右の写真では、複雑な組物を見ることができます。

    20191118専修寺4     20191118専修寺3

(最初の写真の左は御影堂、右は如来堂です。写真は自身でも撮影したのですが、よい写真がなくネットからお借りしました。)

 切石の列を数えると、確かに18列、17列になっています。
 御影堂は1666年に、如来堂は1748年に完成しました。如来堂の建設に当たっては、軟弱な地盤に苦労され、建設資金にもご苦労があったと逸話をお聞きしました。

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584.歴史を訪ねる(23):長島願証寺(2)

20191028長島地図  20191028長島地図2  20191028長島地図3

 10月21日~23日に実施されました念仏奉仕団の本山での奉仕活動は22日の午前中で終わりました。
 昼食を摂った後、参加者一同はバスで三重県方面に向かい、桑名市長島町の「なばなの里」でベゴニアガーデンを見学の後「ガーデンホテルオリーブ」に宿泊しました。

 翌23日には、同じ長島町にあります浄土真宗本願寺派の願証寺さんにお参りしました。この願証寺さんは、このブログでも取り上げました長島一向一揆の拠点となったお寺です。もともとあった願証寺さんはこの一揆の敗北によって破却されましたが、その後現在地に再建されました。

 当日はご住職にバスまで迎えに来ていただき、ご案内をいただきました。
 このブログでご報告していましたように、長島一向一揆と願証寺さんについては今回の念仏奉仕団の「しおり」を作成した際に資料をまとめる機会がありましたので、概要については理解をしているつもりでおりました。しかし、実際にその戦いが行われた地に立ってみると、単なる知識だけでは及ぶことができない実感をもって当時のことを感じることができたように思います。

 ご住職から、一揆の当時使われていたという一本の槍を見せていただきました。手に取ってみるとズシリと手ごたえを感じるものでしたが、これは当時織田信長の軍勢が使っていたものと比較すると非常に短いものだったのだそうです。長島の地で行われる戦ですから、長い槍では生え茂った芦などの中では動きがとれないということになります。同じように足元がぬかるんだ地では、重い甲冑などで足をとられて動きがとれず信長勢は苦労した、などこの地形を生かした戦い方で信長勢に抵抗した様子を聞かせていただきました。
 当日いただいた資料にも、一揆勢は長島の輪中(集落を洪水から守るための堤防に囲まれた地域のことです)地帯の地形を生かして、信長軍をいったん輪中の中に引き入れて夜陰にまぎれて堤防を切り濁流の中に閉じ込める、といったゲリラ戦法を用いたことが記されていました。

  当日、宿から願証寺さんに向かう途中に、稲刈りが終わった田に水が「張ってある」ように見えるところがたくさんありました。これから耕作するために水を張ったのだろうか、と話しながらバスで移動したのですが、後でお聞きしたら以前の雨の水がまだ引かずに残っているということでした。海抜とほぼ同じ高さの地ですから、このような困難も抱えているということを知りました。
 長島全体を囲っていると思われる堤防が遠くに見え、輪中の間の利益の相克、同じ輪中の中での上流と下流の争いなどがあったという情報もあり、この地区が海抜ゼロメートル地帯にあって押し寄せる水と戦いながら、あるいは折り合いをつけながら存在してきたのだということを感じることができました。

 願証寺さんはまじかに住職継職の法要を控えておられ、本堂も工事中という慌ただしい中で、貴重なお時間を割いていただきました。ユーモア溢れるお話しも交えて印象に残るひと時をいただきました。厚くお礼申し上げます。

(写真左2枚は当日本堂に置かれていた地図、右は当日いただいた資料の一部です)

 左の2枚はいつの時代の地図なのかよく分かりませんでしたが、時代によって島の姿が変わっていることが分かります。あるいは、洪水が発生するたびに島の姿が変わるくらいに水の力が大きかったのかもしれません。

 右は「信長と長島一向一揆」というタイトルの資料で、長島町から発行されたものです。
 今回「しおり」に使いたいと思って、ネットで「長島」「地図」をキーワードに検索して見つけた地図は、この地図だったようです。

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572.歴史を訪ねる(22):黒五郎氏の墓

20190916黒五郎氏墓碑  20190916黒五郎氏墓碑2

 9月11日、寺の近くにある「黒五郎氏の墓」を訪ねました。

 そのきっかけは、須子正実さんという方がこの黒五郎氏の墓を訪ねられる、とお聞きしたことによります。
 須子さんは、万倉校区だより「なすの花」のいう月刊の広報誌に「万倉ものがたり」という地元の歴史を紹介する連載記事を書いておられる方です。先日、この記事に寺のことを取り上げたいと訪ねてこられて、その時にこの「黒五郎氏の墓」も話題に上りました。
 
 寺の住所は宇部市大字奥万倉字黒五郎といいますが、この字名は、今から約400年前にこの地を開拓したと伝えられる黒五郎氏の名前から来ています。
 以前、日高実夫氏が著された『寿福寺とその里』という書をご紹介しましたが、黒五郎氏はその中でも取り上げられていました。日高さんによりますと、岩﨑黒五郎と名乗っていたその人は、武士を棄ててこの地の開拓に尽くされた人だということです。

 そのお墓ですが、日高さんの記されるところでは、寺から信田の丸の城山に向かう古い道があって、その傍らの小道に何も記されていない高さ130センチメートル、幅50センチメートル、厚さ30センチメートルの傾いた自然石があったのだそうです。これが「黒五郎の墓」と呼ばれていたそうで、「触ると罰が当たるぞ」と大人から脅された記憶がある、と日高さんは書いておられます。
 大正12年頃、墓の主の黒五郎氏はこの里の開拓者で恩人なのだから墓を立て直そうという話になって、東西の黒五郎の人が共同して台石を運び込み少し離れた場所に墓碑を立て直されたということです。

 この東西黒五郎というのは、当時黒五郎は小さな小川を境に、行政区が東は吉部、西は万倉と分かれていたことを示しています。山の尾根を境界にすることが自然なように思うのですが、ここでは小さな川が境界になっていたのです。この境界に従って、目の前の家でも川のこちらとあちらでは通う小学校が違ったりするというようなこともあったいう話は他の場所でもお聞きしたことがありました。
 日頃は別々に行動していた東西の黒五郎の人は、このお墓の改修は共同でやろう、ということになったのだそうです。墓碑の改修後は、毎年8月7日に東西の黒五郎の人が集まってお勤めがなされていたと日高さんは記されています。

 当日は、寺のすぐ近くの岩﨑昌彦さん(寺の総代さんでもあります)に案内していただいて3人で出かけました。
 城山につながっていたという道から少し下りたところ、竹藪の中に墓碑はありました。

 碑の表には、 四百年前/開祖 黒五郎氏の墓
 碑の裏には、 大正十三年四月/東西黒五郎中建之 (/の部分は改行を示しています)
 と、私の祖父顕道が書いた文が刻まれています。

 黒五郎の方々が黒五郎氏に寄せておられた敬愛の思いを感じることができる碑でした。

 須子さんのお話しでは、黒五郎という名前は、もとは九郎と五郎の二人の兄弟だったのだということです。これは初めてお聞きする話ですが、確かに黒五郎という名前は妙だなと思ったこともあり、なるほど、というお話しでした。黒五郎の近くに笛太郎という地名があります。これもこの地区に縁のある人の名前だとお聞きしたことがありますが、この笛太郎氏の姓は須子氏だったとのこと、これも初めて知りました。ただし、「それは自分の家系ではなかった」と須子正実氏のお話しでした。

 墓碑のある場所に往き帰りする途中で、「ここは○○(門名です)の家があった所」という話が出ました。かつては寺の周辺のお宅のほどんどが岩﨑という姓で、通常はお互いを門名で呼んでいたとお聞きしていました。「しんや(新家)」「ふるや(古家)」「えき(駅)だろうかと子供の頃思っていたのですが(浴)かもしれません」など私も覚えている門名もありましたが、初めて耳にするものもありました。
 かつて黒五郎に住んでおられて今は宇部や小野田、厚狭などに移っておられる方が多くあります。このような人がこの黒五郎の地に住んでおられた、ということも消えてしまいそうで、それを記録に残しておくことも必要だと思いました。
 また昔は山を越えて隣の地区に通じる道が多くあったそうですが、ほとんどは今では通れなくなっています。これも、できれば一度実際に歩いてみて、記録を残しておく必要があると思いました。

(写真左は岩﨑昌彦さん、須子正実さん、右は墓碑のおもて面です)

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