FC2ブログ

447.『阿弥陀経』を読む(70)「弥陀経讃(5)」

20180706フジウツギ  20180706フジウツギ2


 「第5首」 五濁悪時悪世界 濁悪邪見の衆生には 弥陀の名号あたへてぞ 恒沙の諸仏すすめたる

 「訳文」 釈尊は、さまざまな濁りと悪に満ちた時代の中で、よこしまな考えにとらわれているものに、阿弥陀仏の名号をお与えになり、数限りない仏がたは、その教えをお勧めになっている。

 親鸞聖人は、私たちは五濁悪時悪世界に生きている、濁悪邪見の存在だと示されます。
 『浄土真宗辞典』をたずねますと、「五濁」は悪世においてあらわれる避けがたい劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁の5種のけがれ、のことでした。「悪時」はさまざまな濁りに満ちた悪い時代、「悪世界」はさまざまな濁りに満ちた悪い世界、を表します。私たちは、どのようにしても逃れることのできない穢れた時代と世界にいて、なおかつ煩悩に取りつかれて正しい見方などとてもできない、そのような存在なのだといわれます。
 お釈迦さまは、そのような私たちを救おうと南無阿弥陀仏の名号をお与えいただき、諸仏はお釈迦さまのみ教えが間違いないものだと称讃されお勧めになっているのだと、聖人は讃嘆されています。 
 自分のはからいではなく、この阿弥陀さまのお救いの力に気づきお任せするとによって私たちはこの五濁の世界で煩悩に満ちた生き方から救われる、いや、私たちにはその道しか残されていない、のだと聖人は私たちに示されています。 

 瓜生津師は、この第5首は、「禨法二種の真実を示して信をすすめる」もので、『阿弥陀経』の要諦がまとまられた和讃だとされ、「禨は如来の救いの対象である私たち凡夫のこと、法は衆生の救いを誓われた阿弥陀仏の本願のことですから、私たち凡夫が無明・煩悩にみちた存在であることと、その凡夫を如来の本願が絶対に救いとることをさしている」と記されています。

 これまで続けてきました「『阿弥陀経』を読む」も今回が最後となりました。
 昨年1月に始めましてちょうど70回になりましたが、お経を通じて、お釈迦さまは、お浄土のすばらしさを説かれ、阿弥陀さまのお救いのはたらきと私たちが救われる姿を示され、信心をもってお念仏申しあげるようお勧めいただきました。
 「舎利弗よ、舎利弗よ」と(私たちに)何度も何度も呼びかけられるお釈迦さまの声をお聞きしながら生きていくことの大切
さを改めて心にとどめたいと思います。

(写真は、フサフジウツギです。)

 名前に「ウツギ」が入っていますが、フジウツギ科に分類される植物です。園芸品としても人気の植物で、属名のブッドレヤという名前でも呼ばれています。良い香りと蜜を持っていて蝶などの昆虫が集まっているのをよく見かけますが、植物そのものは有毒だそうです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

スポンサーサイト



442.『阿弥陀経』を読む(69)「弥陀経讃(4)」

20180618ハコネウツギ2  20180618ハコネウツギ3

 「第4首」 諸仏の護念(ごねん)証誠(しょうじょう)は 悲願成就(じょうじゅ)のゆゑなれば 金剛心をえん人は 弥陀の大恩報ずべし

 「訳文」 あらゆる仏がたが念仏するものをお護りになり、その教えが真実であると証明されるのは、大悲の願が成就したことによるのであるから、決して壊れることのない信心を得ている人は阿弥陀仏の大いなるご恩に報いるがよい。

 前回の第3首で、親鸞聖人は、十方の数限りない仏がたがお釈迦さまのみ教えは間違いないものだとされ、それを信じるようににとお勧めになるとお伝えいただきました。聖人は、その念仏を信じる心は、私たちの力で起こるものではなくて、阿弥陀さまが誓われた「大悲の願」が成就したことによるのだと説かれます。

 この「大悲の願」は48願のうちの第17願にあたります。第17願では次のように誓われています。
 「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ)して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」
 (わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みなわたしの名をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開きません)
 (「咨嗟」という言葉も余りなじみがありませんが、『浄土真宗辞典』にたずねますと、「讃嘆の意で、ほめたたえること」とあります。)

 この願が成就されて、私たちの疑う心を取り除いていただき念仏を信じる堅固な心をいただいたのだから、私たちは阿弥陀さまのご恩をこころにいただきそれに報いるようにするべきだ、と示していただいています。
 この「金剛心」という言葉にたいして、親鸞聖人は次の左訓を付しておられます。
 「コムガウハヤブレズタダレズウゲズ(金剛は破れず爛れず穿げず)」
 ダイヤモンドのように堅固で破壊されない信心、阿弥陀さまからいただいた信心のことを指しておられます。

(写真は、ハコネウツギの花です。こちらも今時分に花期にあたる植物です)

 前回ウツギが登場しましたが、今回はハコネウツギという植物です。名前からすると近い仲間のように思われますが、前回のウツギはアジサイ科、今回のハコネウツギはスイカズラ科と科も違う間柄ということになります。
 このハコネウツギの特徴は、最初は白い花がだんだんと赤く変わっていくところです。
 たまたまこの土曜日のNHKの「チコちゃんに叱られる」という番組でこのハコネウツギが取り上げられていました。花の色が変わるのは、受粉を済ませた花は赤くなり、昆虫の注意を白い受粉の済んでいない花の方に向けるという子孫を残す戦略だったようです。初めて知りました。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください) 

440.『阿弥陀経』を読む(68)「弥陀経讃(3)」

20180611ウツギ   20180611ウツギ2

 親鸞聖人が『阿弥陀経』に説かれたみ教えを讃嘆された「弥陀経和讃」の3首目になります。

「第3首」 十方恒沙(ごうじゃ)の諸仏は 極難信(ごくなんしん)ののりをとき 五濁(ごじょく)悪世(あくせ)のためにとて 証誠(しょうじょう)護念せしめたり

「訳文」 すべての世界の数限りない仏がたは、自力では信じることができない他力の教えを説き示し、さまざまな濁りと悪に満ちた世のもののために、その教えが真実であると証明し、信じて念仏するものをお護りになっている。

 親鸞聖人はこの第3首で、ガンジス河の砂にたとえられるほどの多くの仏がたが、お釈迦さまの教えを間違いないものと証明し、念仏するものをお護りになるという、『阿弥陀経』の「諸仏証誠の段」を取り上げられます。

 お釈迦さまは現実の世界を「五濁悪世」と表現されています。五濁とは、社会悪がはびこり、思想が乱れ、煩悩は盛んになり衆生の質が低下する世でした。
 これは私たちが生きている現在の姿そのものだといえます。お釈迦さまは2500年前すでに私たちの姿を見通しておられました。そして、そのような五濁悪世の中で私たちが救われる道は、阿弥陀さまのお救いのお力にお任せするほかない、とお示しいただいたのです。私たち自身のいかなる努力やはからいをもってしても、私たちの根源的な迷い、苦しみから逃れることはできないとお示しいただきました。

 阿弥陀さまに全てお任せするという道は難しいことではないのですが、自分の力で、自分の努力で・・と考えてしまう私たちの思いがあることによって、そのたやすい道が困難な道になってしまう、これがまさに「難信」とされる所以でした。
 たとえが適切ではないかもしれませんが、水泳で水に浮こうと努力している姿を思い浮かべました。水に浮こうと体に力を入れてもがいていると体は沈んでしまうように感じたことがあります。力を抜いて水の浮力に任せることが分かってくると体は自然に浮いてくる(のだそうです。私は水泳が苦手で、とうとうそのことを実感することができなかったのですが)ということに似ているのかもしれません。

 昨日、山口別院でお勤めされた永代経法要でのご講師安方哲爾師のお話しが思い出されます。

 ご講師は、阿弥陀さまのお救いの力を、ビル火災で20階建ての屋上に追い詰められた人にたとえてお話しされました。
 私たちが考えてしまうお救いというのは、地上にマットを敷いて絶対に安全で大丈夫だからここに飛び降りなさい、と呼びかけられるようなものだとご講師は言われます。絶対に大丈夫だと言われても、地上に小さく見えるマットに向かって飛び降りるのは怖いこと、本当に大丈夫かと疑わしいことです。ここでは、ことは私の判断に任せられています、お救いに身をゆだねる決意を行い、実行するのは私たちなのだといわれます。
 一方、阿弥陀さま本当のお救いの姿は、この場合レスキュー車が梯子を伸ばして、レスキュー隊員が私たちを抱きかかえて救っていただく姿なのだといわれます。
 私たちが望むから救われるのではありません。救わずにはおれない私たちの姿があるから、阿弥陀さまは時には逃げようとまでする私たちを抱きかかえてお浄土にお連れいただくのだと、ご講師はお示しいただきました。

 親鸞聖人はこのご和讃によって、十方の仏がたがこの阿弥陀さまのお救いの力を間違いないことだと証明され、それをお護りされている、とお伝えいただいています。

(写真は、ウツギの花です)

 ちょっと花期を過ぎたところですが、初夏に白と緑のコントラストをヤマボウシと競っているという感じでしょうか。漢字では「空木」。茎が中空だというところからこの名前になったのだそうです。別名はウノハナ(卯の花)。童謡の「夏は来ぬ」にはこちらの名前で登場します。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
 

434.『阿弥陀経』を読む(67)「弥陀経讃(2)」

20180521バイカモ   20180521バイカモ2

 今回は、親鸞聖人が『阿弥陀経』に説かれたみ教えを讃嘆された「弥陀経和讃」の2首目になります。

 「第2首」 恒沙(ごうじゃ)塵数(じんじゅ)の如来は 万行(まんぎょう)の少善(しょうぜん)きらひつつ 名号不思議の信心を ひとしくひとへにすすめしむ

 「訳文」 数限りない仏がたは、さまざまな行を修めて得られるわずかな功徳を退けて、思いはかることのできない名号のはたらきによる信心を、みな同じく、ひとえにお勧めになる。

 仏教は私たちがさとりを開いて仏にならせていただく教えなのですが、その道のりについて様々なものが説かれます。しかし、親鸞聖人は、信心をいただいて南無阿弥陀仏の名号一つを称えること以外のすべての行は、私たち自身の力に頼む自力の修行であると、退けられます。
 「万行の少善」について、『注釈版聖典』の脚注では「念仏を多善根多功徳というのに対し、その以外のあらゆる行(万行)を少善とする。」と説明されています。

 この和讃をお読みすると、『阿弥陀経』の中でお釈迦さまが「舍利弗・不可以少善根・福德因縁・得生彼国」(舎利弗よ、わずかな功徳を積むだけでは、とてもその国に生まれることはできない。 )と説かれたところ、『阿弥陀経』を読む(44)、を思い出します。
 この「少善根」は「量的にわずか」ということ以外に、「劣った」という意味もあると学びました。我が力に頼る自力の行もまさしく「少善根」でした。
 
 このように親鸞聖人は、ガンジス河の砂の数ほどの多くの仏方が、口をそろえて少善根の諸善万行を捨てて、大善根である名号を称えるようにと、勧められている、と私たちに説かれています。

(写真は、バイカモという植物です。)

 前回、真宗出雲路派の本山毫摂寺さんをご紹介して思い出した植物です。
 毫摂寺さんの近くを流れる冷水の清流でこのバイカモ(キンポウゲの仲間です)の花を見ることができます。水中でも花を咲かせる植物です。バイカモは冷たい流水の中でないと生育できない植物で、水温の高い西日本ではごく限られた川でだけ確認されているのだそうです。
 会社の工場に「ばいかも寮」という独身寮がありました。最初はてっきり「バイカモ」という名前の鴨があるのだと思い込んでいましたが、お聞きしたら「梅花藻(バイカモ)」で、大笑いでした。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

430.『阿弥陀経』を読む(66)「弥陀経讃 (1)」

20180507モクレン2   20180507モクレン

 前回までで『阿弥陀経』を学んでまいりました。
 今回から、親鸞聖人が『阿弥陀経』のみ教えを讃嘆されて記された「弥陀経和讃」をお読みしたいと思います。

 親鸞聖人は、漢文ではなく和語をもって当時の今様と呼ばれる様式で『三帖和讃』をお書きになり、み教えを讃嘆されました。『三帖和讃』は蓮如上人が編纂出版された「文明本」では、『浄土和讃』118首、『高僧和讃』119首、『正像末和讃』116首の合計353首からなるものです。

 その『浄土和讃』のなかに、「『弥陀経』の意(こころ)」(「弥陀経和讃」)という5首があります。この5首を通じて、親鸞聖人が『阿弥陀経』をみ教えをどのように受け止められておられたのか、を学びたいと思います。

 今回はその第1首です。訳文は本願寺出版社の『浄土真宗聖典 三帖和讃(現代語訳)』を使わせていただきました。

「第1首」 十方微塵(じっぽうみじん)世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取(せっしゅ)してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる

「訳文」  数限りないすべての世界の念仏するものを見通され、摂(おさ)め取って決してお捨てにならないので、阿弥陀と申しあげる。

 親鸞聖人は、私たちをだれ一人として残すことなく救いとりたいとされる方こそ阿弥陀さまなのだとお伝えいただいています。阿弥陀さまは、私たちだけではなく、東西南北、上下を含めたあるゆる世界の数限りないすべての衆生を救い、決して捨てることはない、と誓われたかたで、阿弥陀さまのお力によって、あらゆる衆生はこの世の命が終わるとき、直ちにお浄土へむかえられる、と聖人は説かれています。

 親鸞聖人は、和讃に「左訓(さくん・ひだりがな)」と呼ばれる注記を記しておられます。本文の左側に語句の説明や漢字の読み方を示されたものですが、この和讃の「摂取」という言葉には次の左訓が記されていると伺いました。
 「オサメトル ヒトタビトリテナガクステヌナリ セフハモノノニグルヲオワエトルナリ セフハオサメトル シュハムカエトル」
 (摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへとるなり。摂はをさめとる、取は迎えとる)
 この和讃で聖人は、阿弥陀さまは、苦悩から逃れることができずにいる私たちを救われるだけではなく、真実から目を背け逃げ出そうとする私たちをも追って救いとろうとされている、そして決してお捨てにならない方なのだとお伝えいただいています。
 この1首によって、聖人はお浄土のすばらしさとそこにおられる阿弥陀さまの限りない功徳、について私たちにお伝えいただいています。

 この和讃は、親鸞聖人の750回大遠忌法要に当たって制定された『宗祖讃仰作法』音楽法要の和讃として使われたものです。和讃は合わせて6首が使われていますが、その一番最初にうたわれるもので、その言葉とともに今でもその響きが思い出されるような、印象深い和讃でした。

(写真はモクレンの花です)

 最後になりましたが、モクレン属のいわばご本家、右はハクモクレンと呼ばれる白花の品種です。
 大型の花を咲かせて、庭木としても人気の花のようです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
カウンター
カテゴリ
検索フォーム
リンク
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR