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372.「平和に関する論点整理」への意見集約(3)

20171020アメリカフヨウ   20171020モミジアオイ

 前回に続いて、「平和に関する論点整理」に対して出された意見について考えてみたいと思います。
 本日は、その第3回目で最終となりますが次の項目です。
 
 5.現場に立って、見る、聴くことの重要性
 6.具体的な取り組みの可能性について
 7.当面の結びとして

 「5.現場に立って、見る、聴くことの重要性」の中で、「論点整理」の公聴会では沖縄について多くの意見が出されたと報告されています。
 それは、沖縄の方々からは「沖縄のことをもっと知ってもらいたい」という声であり、沖縄以外では「沖縄の人の苦悩を理解すべき」という声に集約されるものです。沖縄は、現在の日本で、安全保障のあり方や隣国との関わり方、自衛権など、まさに「戦争と平和」の最前線の現場です。考えてみますと、私たちは私たちが今いる場に足を置いてその場からの発想で考えているのかもしれません。
 「戦争と平和」の問題が最も鋭く問われている現場である沖縄の地に立ってものを考えることの重要性について気づかされた思いです。

 「6.具体的な取り組みの可能性について」では、公聴会の中で宗派に対して出された要望が次の7点にまとめて報告されています。
 (1)声明を出してほしい
 (2)議論をする場を設けてほしい
 (3)少数民族への活動を行ってほしい
 (4)宗派を超えた対話を進めてほしい
 (5)沖縄のことを知ってほしい
 (6)戦時教学の歴史を学ぶ活動を進めてほしい
 (7)念仏者の具体的な平和活動を示してほしい
  これらは、宗派への要望を聞かせてもらいたいという問いかけに対して出された項目だと思われますが、このような要望を行うと同時に、私たちは、自分がどのように考え行動するのかということを自身に問いかけ続けることも必要だと思います。

 「7.当面の結びとして」、次の3つの項目が提起されています。これは以前、山口別院で行われた説明会のご報告で記載していたものです。
 その一、平和創造の基礎づくりとして国の内外に仏教の意義を伝えること
 そのニ、「平和の定義」を「宗制」前文の視点から見直すこと
 その三、多様な平和貢献活動の中から念仏者にふさわしい活動について検討し進めること

 その一、について、以前に次のコメントをいただきました。
 「[平和創造の基礎づくりとして国の内外に仏教の意義をつたえること]と、ありますが、これは、「仏教の宣伝・布教活動」ととらえられてしまい、敬遠されると思います。仏教者の側にも、布教活動をすることだと思う人が出てきます。多種多様の宗教観を是認したうえで活動することが必要だと思います。」

 私も、「仏教の意義を伝えること」というのは、ただちに「仏教の宣伝・布教活動」ということではないと思います。仏教で説かれていることが仏教の言葉によらなくても、他の宗教に帰依している人にも理解され共有されることが可能であれば、それは素晴らしいことだと思っています。
 そのように思った最近のきっかけは、前回にも触れましたが、オバマ前大統領の広島でのスピーチを読んだことによります。
 オバマ氏は、スピーチの中で、太古の昔から「支配、征服を欲する本能という同じ根本から戦争は起きてきました。」と述べ、戦争の根底には、支配し征服したいという本能があって、それは現在も克服されておらず、そのような私たちが科学技術を飛躍的に向上させ、自分を滅ぼすことができるほどの力を身につけてしまったのだと、言います。それゆえに「原子を分裂させた科学の革命は私たちに道徳的な進歩も要求しています。」とし、私たちはこのような私たちの本能に気づき、私たちが変わらなければならないと説きます。
 この「支配、征服を欲する本能」というのは、自己中心にものを考え、むさぼり、怒る「煩悩」そのものだと感じました。
 私たちが、個別の宗教を超えてこの「支配、征服を欲する本能」(=煩悩)に気づき、そのことを共有することが、戦争に対する内面的な抑止力となるのではないかと思います。

 そのニ、では、「平和」というものを単に「戦争がない状態」だとするのではなくて、「自他ともに心豊かに生きることのできる」状態だとして、その実現を目指すことが必要だとしています。そうすると、「平和貢献活動」の内容も多様なものになってきます。
 それは、その三、に記されているように、平和は「力の論理」だけで維持されているものではなくて、実際には「意見集約」に挙げられているように「国連等の平和活動」や「戦争の否定と非暴力・平和の発信」「構造的暴力の克服(自由・平等などの人権の尊重や飢餓・格差・差別の克服)」「宗教的寛容の推進」「戦争の歴史についての教育」など多様にな活動によって下支えされていることに重なります。
 このことは、個別の問題を取り上げるに従って意見が分かれる可能性のある「戦争と平和」という課題についても、仏教者・念仏者として具体的に取り組むことができることが多くある、ということを示していると思います。

 9月14日の説明会の当日、この平和への「貢献策」として総合研究所より次のような項目が提示されていました。
  (1)合掌のすすめ
  (2)経済格差・貧困の克服へ
  (3)美しい沖縄から平和のメッセージを
  (4)自死問題を通じて東アジアの相互対話と信頼の醸成を
 今後、その具体的な活動が検討されるものと思います。

(写真左はアメリカフヨウ、右はモミジアオイの花です)

 この2種のフヨウ属の植物は、前回登場した交配種のタイタンビカスの両親ということになります。
 アメリカフヨウは、高さ150㎝前後、7月から9月頃にかけて直径30cmにもなる大きな花をつけます。一方のモミジアオイは赤い花を咲かせモミジのように切れ込みの入った葉を持っています

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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371.「平和に関する論点整理」への意見集約 (2)

20171016タイタンビクス2   20171016タイタンビクス

 少し間が空きましたが、引き続き「平和に関する論点整理」に対して出された意見について考えてみたいと思います。
 今回は「意見集約」で取り上げられた、次の2つの論点です。

 3.具体的な論点について
 4.議論にならなかった論点

「3.具体的な論点について」では、「論点整理」に対して意見が出された次の論点が取り上げられていました。
  (1)近隣諸国との緊張関係
  (2)個別的自衛権・集団的自衛権の問題
  (3)宗教の右傾化という問題
  (4)憲法問題

 これらの論点について出された意見をみてみると、「戦争と平和」の問題にどのように対応するのかという課題は、検討する場合の前提条件が具体的になればなるほど、意見が分かれてくるものだということを改めて感じました。
 北朝鮮の問題や中国との関係の問題、個別的自衛権や集団的自衛権の問題、米軍基地の問題などがその典型だと思います。
 これらの現実に存在している問題に対して、「武力の行使は認められない、自衛権も認められない」とする立場をとるのであれば、割り切った判断(現実的かどうかは別にして)ができると考えられますが、そうでない場合は、念仏者としてあるいは教団として下す判断、とるべき行動は非常に難しいものになります。
 「論点整理」にも挙げられていた、「国や地域の価値の共有」や「宗教的寛容の推進」「人的交流」などの非軍事的な活動が、錯綜した利害関係の中で一歩ずつでも望ましい状態に近づいていく手段となるのは間違いないことだと思われます。
 また、仏教という宗教は日本固有の宗教ではなく、アジアの地域に広く信者を持つ宗教であり、「平和」を中心的な価値にしているところから、近隣諸国と宗教的なネットワークを構築することが近隣諸国との間の平和実現に有効だということも指摘されていました。

 意見集約の中で、右傾化した宗教の活動が顕著になっている、という意見が出されたようです。
 これは、「意見集約」でも触れられているような「宗教右派」が政治を動かすようになっているという、問題意識が背景にあるようです。
 また、9月14日の説明会の当日、会場から中島岳志氏の著書『親鸞と日本主義』をひいて宗教の右傾化についての意見が出されました。それは、先の大戦で宗門が戦争に向かっていく流れを止めることができず、それを推し進めることとなったことは、帰依する対象が天皇に置き換えられた、あるいは置き換えてしまった、のではないか、という中島氏の問題意識につながるものです。
 現在、中島氏の著書を読んでいるところですが、戦争へと傾斜していく時代の流れの中で、苦悩しながら、あるいは「苦渋の選択」として対応する姿を想い浮かべました。時代の流れの中で正しく判断し行動することの難しさを強く感じますが、そのような困難の中で正しく判断し行動できるかどうかは、結局のところ私自身にかかってくることなのだと、改めて思います。

「4.論議にならなかった論点」では、意見が出されなかったけれども重要と思われるとして、次の論点が取り上げられていました。
 (1)煩悩の問題
 (2)「平和」の概念規定

 「論点整理」の第Ⅰ章で、煩悩や愚かさが争いを生むという問題提起がなされていたのですが、この点に対してはほとんど意見が出されなかったようです。
 戦争を始め様々な争いの根底には、自分中心にものを考え、むさぼり怒る私たちの煩悩があり、私たちはこの煩悩から逃れることは難しいことだとされます。しかし、たとえ煩悩から脱することは難しいとしても、私たちはこのような自分の姿を認識することはでき、そのことによって、争いを避ける方策を模索することも可能になるのではないかと思います。
 ここでも、昨年広島を訪問したオバマ前大統領の言葉を思い出します。オバマ氏は、人類は、「支配、征服を欲する本能」は太古のままでありながら、世界を破滅させるほどの科学の力を手にしていると指摘し、私たちは私たちが手にした力にふさわしい進化をしなければならないと説いていました。
 今回の「意見集約」の中では、「仏教や浄土真宗の世界観や人間観の立場から平和構築の可能性について発信をしていくことも私たちにとって重要な課題ではないでしょうか。」と述べられています。
 オバマ氏の言葉を思い起しますと、宗教の違いを超えたところでも、私たちの姿について共通の認識を持ち、煩悩や欲望をコントロールする方向に向かうことができるのではないかと思います。仏教やキリスト教といった個別の宗教の言葉ではなく、共通の言葉として共有することができ、それによって問題に対処するという道があるのではないか、という希望を持ちたいと思います。
 
(写真は、タイタンビカスの花です。山口市宮野で撮影しました)

 タイタンビカスは、先日から登場していますフヨウ属のアメリカフヨウとモミジアオイとの間で作られた交配種です。大きな花を咲かせ、高さは2メートルにもなります。ハイビスカスのような南国風の花を持ちながら、北海道のような寒冷地でも地植えが可能なほど強健な生育力を持っているということです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください。)

367.「平和に関する論点整理」への意見集約

IMG_2920.jpg   IMG_2925.jpg

 9月14日に山口別院で開催されたご消息披露に続く公聴会で、「平和に関する論点整理」について出された意見集約の報告がなされました。以前その内容をこのブログでご報告しましたが、今回はこの「意見集約」の内容についてもう少し見てみたいと思います。
 前回の記事では、この「意見集約」の中では、様々な意見が出されたことと、それも踏まえて、平和を考える場合に必要なこととして「当面の結び」の3項目が提示された、ということだけをご報告していました。

 この出された様々な意見についても、私たちは考えてみなければならないと思いますし、「当面の結び」として提示された事項についても考えてみる必要があるように思いました。
 それと、そのブログの記事についてコメントをいただいていまして、そこで提起されたことについてもご一緒に考えたい、と思い今回取り上げることにしました。
 (コメントをいただきありがとうございました。コメントに気づくのが遅れて申し訳ありませんでした。)

 9月14日の当日「『平和に関する論点整理』をテーマとした公聴会の意見集約」という浄土真宗本願寺派総合研究所が作成された16ページの資料(「宗報」の今年8月号に掲載されたものの抜刷です)が配布されました。その構成は次のようになっています。
 1.「意見集約」について
 2.「論点整理」という手法について
 3.具体的な論点について
 4.議論にならなかった論点
 5.現場に立って、見る、聴くことの重要性
 6.具体的な取り組みの可能性について
 7.当面の結びとして

 この2.「「論点整理」という手法について」の中で出された意見として次のものがあげてありました。
 (1)「戦後問題」検討委員会答申が踏まえられていない
 (2)中立的な立場では「真俗二諦論」になる
 (3)政治的な問題に深入りしすぎている
 (4)しっかりと活用してほしい

 この論議の中にあるのは、具体的な政治問題(たとえば安保法制の問題)に対して、私たちは、あるいは宗門はどのように対応するべきなのかという問題です。
 この「意見集約」にも記されているのですが、この問題に対しては大きく分けて二つの立場があると考えられます。

 その一つは、仏教の基本思想である「不殺生」などを通じて平和を教えの立場からのみ伝えるというあり方です。
 もう一つの立場は、現実の問題に対してその是非を積極的に表明し、具体的に行動するという立場になります。

 それぞれの立場について、次のような問題が想定されます。
 後者の立場に対しては、具体的な問題に踏み込めば踏み込むほど、同じ宗門の中でも構成員の間で意見の違いが表面化してくるという問題が想定されます。特に宗門として行動する場合には、その意思決定の手続きをどのようにとるのかということも含めて、積極的に行動することが適切なのかという問題が当然に生じてきます。
 その点、前者のように、平和の理念を説き、教義の上からそれを伝えることであれば意見の不一致も起こりにくいと考えられます。しかし、そのような姿勢は現実に進みつつある政治情勢に対して、結果としては何もしないこととなり、それを容認することになりはしないか、という重要な指摘があります。

 このように具体的な政治問題に対してどのように対応するのか、という問題は、宗門としても個人としても非常に難しい内容を含んでいて、対応の難しい問題です。
 これからこの問題を考えるに当たって、どのような立場をとるにしても次のような点は忘れてはならないと思います。

 その一つは、先の大戦にあたって宗門として戦争に向かうことを止めることができず、それに協力することになったということ。
 さらに、私たちは、この「戦争と平和」の問題について考える場合に、宗門がどうするのかを問う以前に、私たち自身の問題としてこれらの問題について考えなければならないということ。
 そして、これは「論点整理」の中でも触れられていたのですが、「殺生してはならない」という教えと、現実の世界情勢の中でどのように安全を確保するのかという課題に典型的に表れているように、私たちは常に矛盾の中で生き、判断していかなければならないということ。そのような場合に、安易に一方の立場に身を置くことで、この矛盾は解決したと考えないこと。

 上記の(4)「しっかりと活用してほしい」という意見は、「戦争と平和」の問題を考える際に「論点整理」に取り上げられた論点(様々な立場から提出されている論点があります)について考えて行きたい、ということを言っているのだと思います。

(今回は、「意見集約」の1.と2.の部分について考えてみました。残りの部分についても、引き続き考えていきたいと思います。)
 
(写真は、キツリフネの花です)

 ツリフネソウの仲間で黄色の花を咲かせるところからキツリフネ(黄吊船)と呼ばれます。
 「万倉の大岩郷」から寺へ向かう道の美祢市と宇部市の市境あたりに群生しています。例年、花期の前に草刈りが行われると、その年には花に会えないということで、ここ2,3年は見られなかったのですが、今年は美祢市側の草刈が遅くなって(?)見ることができました。
 船を吊ったような花形がなんとも面白いのです。花店で売られているインパチェンスやホウセンカも同じ仲間です。
 
(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください。) 

224.「平和に関する論点整理」(11)


20160520ユズ2
   20160520ユズ

 ご一緒に学び考えてきました、「平和に関する論点整理」も最終となりました。
 そのⅩ.(10)章には次の一文が記されています。

Ⅹ.念仏者の具体的行動とは?
 「念仏者には、どのような具体的な平和の実現のために、どのような具体的な行動が可能でしょうか?」

 本文では、仏教の教義から求められる殺生や戦いを否定する立場と、複雑な国際関係の中で我が国だけが全ての軍事力を廃絶することはできないという現実、のはざまで私たちはどのような行動をとることができるのかという問いが発せられています。

 そして、「仏教の真理観に照らして言えば、個人の心の平和を築いていくと同時に、あらゆる国々が自国の自己中心性を克服していこうという文脈で考えられるべきでしょう。更に言えば、世俗の中で矛盾を抱えながら生きる念仏者ならではの役割は、世間で常識とされている価値の転換をうながすところにあるとも言えます。」とされています。

 私は、この「論点整理」を通じて重要な点は、私たちが、矛盾を抱えながら生きなければならない存在である、ということなのだと改めて実感しました。この点を判断の出発点にすることが必要なのだと思っています。

 戦争と平和の問題だけではなく、現実の私たちはお釈迦さまが説かれた教えとは矛盾しながら生きています。そうせざるを得ないというのが現実なのです。
 そこで、この状態に対する対応は基本的には二通りとなるように思います。
 その一つは、この矛盾から目をそらせて一方だけに足場(現実の生活のことを考えると、足場はお釈迦さまの教えとは違った方に置かれることになるでしょうが)を置いて矛盾はなくなったとし、さらにはそれがお釈迦さまの教えに従ったものだとする対応です。いわば矛盾を「解消」してしまうということになります。
 もう一つの対応は、私たちは矛盾の中で生きることを逃れることはできない、という自覚、あるいは慙愧の念を持ち続けることだと言えます。お釈迦さまの教えは常に時代の価値観に転換を求めるものであり、私たちは常に時代に対して矛盾を感じながら生きることが求められています。

 後者の、矛盾を自覚し続ける立場からは、次のような行動が可能になるように思います。
 ・時代の大勢、風潮に安易に迎合しないという姿勢を持ち続けること
 ・私たちが属しているのとは別の、互いに利害が衝突するグループの中で同じような矛盾を感じながら生きている人びと(それは仏教徒に限られるものではなく、多くの宗教者が含まれていると思います。宗教というものは本質的にこのような矛盾を内に持ちながら生きることを要請するものですから)に働きかけること
 ・自分のみが真理だという思い込みを避けて、他者の主張に耳を傾けること

 このようなことを通じて、今後想定される緊張状態の中で「後戻りできない一点」を超えてしまうことに対する抑止力となることができるように思います。

(写真は、ユズの花です。)
 
 昨年のちょうど今頃、荒滝山の登山口で咲いていました。

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221.「平和に関する論点整理」(10)


20160509ヒメシャガ1
  20160509ヒメシャガ2

 「平和に関する論点整理」は、Ⅸ(9)章になります。

Ⅸ.日米亜安全保障条約と念仏者の立場
 「日米安全保障条約(抑止力も含む)と自衛隊による安全保障政策によって戦後日本の平和が保証されてきたという考え方がある中で、そうした平和を享受しつつ安易に武器なき平和をとなえるのは、真俗二諦(しんぞくにたい)的な生き方になっているのではないでしょうか?」
 ・「真俗二諦」の使い方には注意が必要である。
 ・世俗権力に対して無批判な態度が、戦争への加担となった。
 ・軍事力に守られていながら、非戦平和を説くのは矛盾ではないか。
 ・矛盾を忘れて生きることと、矛盾を自覚して生きることは異なる。
 ・安易な現状肯定に陥らず、現実を相対化する生き方が求められる。


 今回の論点は、現実の国際情勢の中で我が国が日米安全保障条約による米国の軍事的な保護のもと、自衛隊という軍事力とによって平和を維持しているという現実と、殺生を禁じ、武力を否定する仏教の教えとをどのように整理するのかという問題です。

 「論点整理」の中で「真俗二諦」という言葉が取り上げられていて、「その使い方には注意が必要」だとされています。
 「論点整理」の本文でも説明されていますように、「真俗二諦」の本来の意味は、真如そのものを示すのが「真諦」、それを世間で理解されるように表現したものが「俗諦」だとされています。私たちの分別、認識を超えた存在である真如(真諦)を私たちに理解できるように仮に説きあらわされたものが俗諦であって、両者は根本では同一のものと考えられます。
 ところが、真宗にはこの「俗諦」を国王・王法(時代の権力、時代の法)と理解してきた歴史があると、「論点整理」で述べられています。このような解釈が、時代の権力、風潮を受け入れることは仏教の教えに背くことにはならない、という理論につながり、先の大戦においても戦争を肯定し、推進する背景となったとされています。
 宗門が置かれた厳しい環境があったことと思われますが、仏教の徹底した平和主義と現実の戦争遂行とは矛盾するものではない、とする「真俗二諦」の解釈が戦争を止めることではなく、戦争を容認し推進することにつながりました。

 そのことを踏まえて、軍事力によって支えられている平和というものの中にいる私たちは、どのようにして念仏者としての立場を維持していくことができるのでしょうか?あるいは、念仏者としてこの現実の中でどのように考え、行動することができるのでしょうか?
 このことを考えることこそが、この「論点整理」の最大の課題、最終の目的なのだと思います。

 「論点整理」でも示されているように、平和の問題に限らず、私たちは現実の生活の中で念仏者として矛盾を感じながら生きなければならないということはたくさんあります。
 例えば、私たちが生きていくためには多くの命を奪わなければなりません。そのことをいつも自覚して生きていくことと、そのことから目を背けて生きていくこととは全く違います。私たちの命が他の命を奪いながら維持されていることを常に思うことは、そのことに感謝の念を持ち、私たちの命の一瞬一瞬を大切に生き続けることにつながります。
 そのような自覚を持たない命は、他の命だけではなく結局自分の命をも粗末にしていることになります。

 「論点整理」では、現実の中で「矛盾を忘れて生きること」と「矛盾を常に背負っていることを自覚し生きていること」には大きな隔たりがあると述べられています。私たちが武力によって保たれている平和の中にあるという現実の矛盾を常に自覚していることによって、重要な局面で時代の大勢、時代の風潮に対して疑問を持ち、適切な行動をとることが可能になると考えられます。

 また、「論点整理」では、私たちが自己の中にこのような矛盾を抱えていることを自覚することにより、正義を振りかざし他者を攻撃することを避けることができ、他者を許容することにつながるという指摘もありました。
 このことこそ、矛盾を自覚した念仏者の行動が戦争を避けることにつながる姿だと思います。

 ここでも、以前取り上げました吉野弘さんの「祝婚歌」の次の一節が思い出されます。
 「互いに非難することがあっても 非難できる資格が自分にあったかどうか あとで 疑わしくなるほうがいい」
 「非難できる資格」とは、内部に矛盾を抱えた私自身の姿のことをいっているのだと改めて思います。

(写真は、ヒメシャガの花です。)

 昨年もご紹介したご門徒さんの志賀英治さんの奥さんが育てておられます。昨年は花期を少し外れていましたが、今年は満開の時期に遭うことができました。
 ヒメシャガ(姫射干または姫著莪)は同じアヤメ属のシャガよりも一回り小さな植物です。花色はシャガよりも濃いようで、シャガは常緑で葉は冬も枯れずに残りますが、ヒメシャガの葉は冬には枯れるという違いもあります。自生しているものは、環境省の準絶滅危惧種に指定されています。

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