FC2ブログ

149.仏教の歴史(3):東アジア

20150831地図

 「仏教の歴史」としてこれまで、インドと東南アジアでの歴史を学んできましたが、今回は仏教が中国に伝わり、朝鮮半島を経て日本に伝えられた歴史の概要を学びたいと思います。
 この中国を経て日本に伝えられた仏教は、前回の南方(南伝)仏教に対して北方(北伝)仏教と呼ばれます。

 仏教がいつごろ中国に伝えられたのかという点については、様々な説があって確定されていないのだそうです。
 そのもっとも早いとされているのは、前漢末期の紀元前に中国に伝えられていたとするもの、次に古いのは後漢時代(紀元65年頃)にはすでに仏教が王族の間で尊崇されていたとするもの、あと一つは同じ後漢の紀元67年に都の洛陽に着いた二人の外国僧によりもたらされたとするもの(これが「仏教の公伝」とされています)などがあります。
 いずれにしても、紀元前後には仏教は中国に伝えられていたと考えられます。

 仏教が中国に伝えられた経路は西域を経由するいわゆるシルクロードでした。シルクロードの困難な旅を経てインドや西域の僧が仏典を伴って中国に入りました。
 また、その後この道を西行して中国から西域やインドに向かう僧もありました。法顕(東晋:337~422年)や玄奘三蔵(唐:602~664年)といった方々で、現地で学びその後多くの経典を携えて中国に戻られました。
 このようにしてもたらされた経典が漢語に翻訳されるのですが、その経典はインドにおける仏教の歴史の中で時には対立しながら成立したものが混在した形でもたらされたという点に特徴があるといわれています。
 
 朝鮮半島に仏教が伝えられたのは4世紀の後半とされています。
 当時の朝鮮半島は三国時代と呼ばれる時代で、北に高句麗、南に新羅と百済の三国が覇を争っていました。仏教は最初に中国の東晋から高句麗に伝えられたといわれています。372年のことでその約10年後には百済に、新羅に少し遅れて5世紀前半にもたらされました。

 仏教は日本にはこの百済から伝えられました。
 欽明天皇の時代で、百済の聖明王が釈迦仏金銅像や経典、仏具を朝廷に奉献したことによります。これが仏教の公伝(こうでん)で538年のことです。
 ただ、仏教はこの公伝以前に中国や朝鮮半島からの渡来人によって民間で信奉されていたということですが、いずれにしても仏教は6世紀には日本にもたらされました。

 このように、インドでお釈迦さまが開かれたみ教えは、約1000年の時と西域、中国、朝鮮半島を経由する遠い道のりを経て日本に伝えられました。それからさらに約1500年、現在の私たちにまでにみ教えをお伝えいただいた方々のことを改めて思い起こしたいと思います。

 (写真は、今回の「仏教の歴史」に登場した国々の地図です。朝日新聞出版社の『日本・世界地図帳2011-2012年版』の地図を使わせていただきました。)

 インドは日本から直線距離で約6100キロメートル、飛行機でも直行便で約10時間という遠隔の地です。
 この地図をみていますと、日本は仏教圏の東の端に位置していることが分かります。
 お正信偈の中で親鸞聖人は「真宗教証興片州(真宗の教証、片州に興す)」と法然聖人を讃えられました。この「片州」とは仏教を奉じる国々の「片隅の小さな国」という意味で日本のことを指しますが、「片州」という言葉で、遠く離れた小さな日本で法然聖人によって阿弥陀如来の本願が明らかにされたのだ、とよろこんでおられるように思われます。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

続きを読む

スポンサーサイト



148.仏教の歴史(2):東南アジア


20150828バイシャリ
  20150828遺跡

 前回は、お釈迦さまの入滅後のインドの仏教の歴史を学びました。
 仏教は、紀元前3世紀頃アショーカ王の時代にインド全域に広まりましたが、教団では分裂が繰り返され、その中で大衆の救済を目指す大乗仏教が新しい動きとして成立しました。
 しかし12世紀の後半のイスラム教徒のインド征服により、仏教はインドでは消滅することになりました。

 このように仏教はインドでは消滅しましたが、お釈迦さまの開かれたみ教えはセイロンや東南アジア、西域、中国、朝鮮半島そして日本に伝えられてそれぞれの地域で継承され発展し、キリスト教、イスラム教と並ぶ世界宗教として現在に至っています。
 この中国から朝鮮、日本に伝わった大乗仏教を中心とした仏教を北方仏教(北伝仏教)、セイロンや東南アジアに伝わった上座部仏教を中心とした仏教を南方仏教(南伝仏教)と呼んでいます。

 そのうち、今回は南方仏教の歴史を概観したいと思います。

 セイロン(現在のスリランカです)は現在も国民の70%以上が仏教徒という仏教国です。
 セイロンの仏教は、アショーカ王が王子マヒンダを仏教の伝道使として派遣したことに始まります。以後セイロンの歴代の王は仏教を保護し多数の寺院が建立されました。当初マヒンダが伝えた仏教は大乗仏教ではなくいわゆる上座部仏教でしたが、その後3世紀には大乗仏教も伝えられ双方が互いに競い合う関係が続いたとされています。
 その上座部仏教がセイロンからビルマやタイに伝えられて、東南アジアの仏教の基礎となります。
 セイロンではそれぞれの時代の王朝の政策により仏教が弾圧されたり、異民族や異教徒の侵入による断絶もありましたが、その後ビルマやタイから仏教が逆輸入されるなどの経緯を経て、現在に至っています。

 東南アジアのビルマやタイ、カンボジアも仏教国です。
 ビルマ(現在のミャンマーです)にはアショーカ王が伝道使を派遣したのが仏教の初伝だろうと考えられていますが、明確に確認はできていないようです。紀元前後にはインドとの交流が盛んになり、大乗仏教やヒンドゥー教がビルマに伝えられました。
 その後ビルマの歴代の王朝は仏教を保護し、セイロンから伝えられた上座部仏教が主流となって現在に至っています。ビルマも国民の90%が仏教徒という仏教国です。

 現在のタイに当たる地域には、11世紀中ごろから上座部仏教が信仰されていたということで、これが現在のタイの仏教の基礎となっています。タイ族の王朝は14世紀にはインドシナ半島最大の勢力となり、その勢力下の各地に仏塔や寺院を建設しました。また、18世紀にはタイの仏教がセイロンに伝えられるということもありました。タイは国民の95%が仏教徒です。

 カンボジアには1世紀の末にインド人が勢力を伸ばして、大乗仏教がヒンドゥー教とともに伝えられたとされています。仏教は国王の庇護を受けて発展しましたが、その後14世紀には上座部仏教の国タイの侵攻を受け、その影響でカンボジアも上座部仏教の国となりました。
 1976年に成立した民主カンプチア政権の元では、仏教は活動を禁止され多くの寺院や施設が破壊されるという苦境に陥りましたが、その後、信教の自由が確保され(憲法上では仏教が国教とされています)、現在では国民の90%以上が仏教徒です。

 このように、インドで滅亡した仏教は東南アジアで大きな勢力となり、人びとの生活の基礎をなしていますが、その仏教はいわゆる上座部仏教(大乗仏教から「小乗仏教」とも呼ばれています)が中心となっています。

(写真はインドのバイシャリにある仏教遺跡と遺跡を描いた切手です)

 この写真は、僧院跡とアショーカ王柱と呼ばれているものです。アショーカ王はインドのほとんどの地域を統一し、多くの仏教遺跡を残した王ですが、王柱で当時の姿を伝えているのはこのバイシャリの王柱だけだといわれています。
 今後、周辺の広大な遺跡の発掘調査が進められるということでした。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

147.仏教の歴史(1)


20150824ナーランダ遺跡
  仏教遺跡1

 少し間があきましたが、これまでお釈迦さまのご生涯と開かれたみ教えを学んできました。
 今回は、お釈迦さまがおなくなりになられて以降、私たちの浄土真宗にまでつながる仏教の歴史の概略を学びたいと思います。そのうえで、中断していました「お正信偈」の依釈段に戻りたいと思います。
 最初にお釈迦さまが亡くなられた後のインドの状況です。

 お釈迦さまは80年のご生涯を通じて、自らお開きになられた法を説かれてクシナガラの地にておなくなりになられました。このお釈迦さまが亡くなられた年については、紀元前480年頃とする説と紀元前380年前後とする説とがあって、約100年の開きがあるようです。

 お釈迦さまがなくなられた後ほどなくして、み教えについて様々な見解が提示される事態が発生したと伝えられています。お釈迦さまを中心とした集団であった仏教教団は、お釈迦さま亡き後誰かが中央で統制するといった性格の集団ではなく、いわば必然的にそのような事態になったのだと想像されます。
 そこで、約500人のお弟子さんが集まって、お釈迦さまの教法と戒律について統一してまとめるための会議が持たれました。これを第一結集(けつじゅう)とお呼びしています。ここで、お弟子さんの中で記憶されていたお釈迦さまのみ教え(教法と戒律)が持ち寄られ内容が確定されました。

 その後、教団の中では保守的な考え方を持つ長老グループと進歩的な考え方をするグループとの対立が表面化します。
 これを受けて、保守的な長老約700人が集まり、戒律を中心とした経典の編集会議である第二結集を開きます。お釈迦さま滅後約100年のことと伝えられます。
 これに対して、この結集の内容に不満を持つ進歩的な比丘たちは、長老派に対抗するグループを結成し独立を宣言する事態になりました。
 これにより、お釈迦さま以来一つであった仏教教団は大きく二つに分裂することになりました。これを根本分裂と呼んでいます。その後紀元前1世紀に至るまでに更に分裂に分裂を重ねることになり、多くの部派が形成されました。これを枝末分裂と呼んでいます。

 このような動きが生じた背景には、もちろんお釈迦さまがなくなられたことにより教団が寄るべき柱を失ったということもありますが、教団が置かれた環境の変化による面も大きかったように思われます。
 仏教教団は当初はお釈迦さまを中心にした限られた比丘の集団だったのですが、その後み教えが広まり、教団の成員も増えました。また、紀元前3世紀にインド大陸のほとんどを統一したアショーカ王が仏教を守護し、各地に仏教を広めたことにより地理的にも仏教は拡大をしました。その結果、多数の成員が広い地域に分かれて存在するという実態になり、それまでの統一した教団の姿を保つことが難しくなりました。貨幣経済の進展などの環境変化も影響したともいわれていますが、教団の拡大発展が教団の不安定の因となったといえそうでう。

 また教団はその後、社会生活とは切り離された場で教理を研究するだけの学問中心の集団になっていったとも言われています。そこでは、お釈迦さまが目指された人々の救済という大切な目的が見失われたといえます。このような傾向に対して、お釈迦さまの基本精神に戻ろう、一切の大衆を救済することを目指そう、とする動きが形成されることになりました。この新しい運動は「大乗仏教運動」と呼ばれることになります。大乗とは「大きな乗り物」という意味で、自分自身が悟りを得るだけでなく、すべての人々を救うということを表しています。大乗仏教は、紀元前2世紀頃から大きく広がることになりました。
 紀元前後から数百年の間に多くの大乗仏教の経典が成立し、龍樹菩薩(2世紀)や天親菩薩(4世紀)という、親鸞聖人が七高僧として大切にされた方々もみ教えを伝えられ、大乗仏教は思想的に深化し発展しました。
 これに対して、出家者が自身の悟りを目的として修行に励む教えを「小乗仏教」と呼ぶようになりました。(この「小乗」は「小さな乗り物」という意味で、大乗仏教の立場から批判的に見下した呼称だといわれています)

 大乗仏教が深化していったということは、学問的に精緻なものになったという面があったとしても、他面一般の人々には分かりにくいものになったということでもあり、その結果として社会から遊離するものになり衰退の道をたどり始めるということにもつながりました。
 7世紀中頃から、仏教はヒンドゥー教などの民衆固有の信仰とも結びつくことにより活動する時代もあったようですが、このことによって仏教としての本質を失うことになりました。
 その後、12世紀の後半にインドはイスラム教徒により征服されました。インドにあった仏教寺院はすべて破壊され、僧侶はチベットやネパールに逃げ出すという事態になり、ここにインドにおける仏教教団は滅亡しました。

 現在、仏教発祥の地インドでは仏教徒の割合は1%にも満たないという状態のままにあります。
 
(写真は、インドのナーランダ大学の遺跡と遺跡を描いたインドの切手です)

 ナーランダ大学は5世紀の初めに設立された大規模な仏教研究の施設ですが、イスラム教徒の征服により12世紀末に破壊されました。最盛期には学生数1万人を数え、中国からも多くの僧が学びに訪れたということです。
 多数の学生と教授陣を収容する施設も完備されていた広大な遺跡で、これからも発掘整備がされるようです。
 ヒンドゥー教、イスラム教国インドでは永く仏教遺跡は荒廃のままおかれていたのですが、近年調査発掘、整備が進められているということです。観光資源として見直されたという面もあるようです。
 遺跡には焼け焦げた色があちこちに残り、破壊のすさまじさを想像させるものでした。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
カウンター
カテゴリ
検索フォーム
リンク
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR