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140.仏教のことば(3):三法印(3)


20150731ヒオウギ1
   20150731ヒオウギ2

 今回は、三法印の最後「涅槃寂静印」です。

 『浄土真宗辞典』では、「涅槃寂静とは、煩悩の火が吹き消された状態(涅槃)は究極の安穏の世界(寂静)であるということ。」とされています。

 つまり、「煩悩を克服した涅槃の境地が私たちが求めるべき究極の寂静の世界である」とすることが仏教の3つ目の大事な旗印だということになります。
 先の「諸行無常印」、「諸法無我印」においてあらゆるものは生滅変化してとどまるところがなく、またあらゆるものには固定した永遠不滅の実体もない、ということが示されましたが、そのような中で私たちが求めていくものを示していただいたのがこの「涅槃寂静印」です。

 私たちは 貪欲、瞋恚、愚痴という3つの代表的な煩悩(三毒)に囚われ迷いから抜け出すことができずにいますが、この煩悩を対治して再びそれに煩わされないような絶対安住の境地に達すること、これが仏教が掲げる理想の旗印であり、第三の法印とされる所以でもあります。 
 先に、「四諦」の項で見ましたように、お釈迦さまは私たちの苦悩の内容(苦諦)とその原因(集諦)、目指すべき状態(滅諦)とそのための実践事項(道諦)をお示しいただきました。
 その「滅諦」はまさしく、「人生の苦を滅した境地が、涅槃であるという真理」であり、私たちが目指すべき境地であり、そのために実践すべき道として八正道を示していただいたことになります。

 このお釈迦さまが示された「涅槃」については、その後時代と地域により異なった理解が示されるようになったということですが、あらゆるものが生滅変化しとどまるところを知らない現実の中で、煩悩を克服することが苦悩を脱して涅槃に至る道だと示され、その正しい道筋を四諦と八正道の形で示されたのがお釈迦さまだったのです。

(写真は、ヒオウギです。昨日秋吉台で出会いましたが、鮮やかな橙色の花が印象的な植物です。)

 ヒオウギは漢字で書くと「檜扇」、重なった葉を扇に見立てたそうです。このヒオウギの葉は祇園祭を迎える京都の町家の玄関に飾られます。剣の形をした葉が魔よけの役割を果たすと考えられたということです。
 ヒオウギは真っ黒な実をつけるのですが、これは「ぬばたま」と呼ばれていて、「黒」や「夜」にかかる枕詞として使われる「ぬばたま」です。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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139.仏教のことば(2):三法印(2)


20150727コオニユリs
   20150727オニユリs

 今回の三法印は、前回の「諸行無常印」についで「諸法無我印」です。

 「諸法無我」の言葉を『浄土真宗辞典』で調べますと、「すべてのもの(有為法・無為法)は永遠不変の実体(我)ではない、すべてのものに永遠不変の実体は存在しないということ。」とあります。

 ここでいう「有為(うい)」とは「さまざまな因縁(原因と条件)によってつくられた生滅変化するもの」であり、一方「無為(むい)」は「生滅変化を超えた常住不変の真実のこと」とあって、現在私たちが使っている有為、無為とは随分違った内容を持っております。
 先の「諸行無常」の諸行は有為のものを指すのですが、諸法の方は有為と無為を含めた「全てのもの」ということになります。つまり、諸法には因縁によって生滅し私たちの感覚で認識できるものの他に、因縁にかかわりなく厳然として存在しているもの(真理、法性)も含むということになります。

 これら諸法の全てが「無我」だということですから、全てのものに「我が無い」ということになります。
 この場合の「我」は一般的に私たちがいう「我」とは違って「永遠不滅の実体としての自我・個我・自己のこと」(『浄土真宗辞典』)とされています。「無我」とはこのような「永遠不滅の実体はない」ということを表します。

 お釈迦さまの当時のインドのバラモン哲学者は、身体や精神は変化するがそれにもかかわらず、私たちの中には何か永遠に変わることのない不生不滅の固定的な実体があるという風に考えていたということです。しかも、そのような「我」がこの世だけではなく死後までも変わらずに輪廻する、つまり「不滅の霊魂がある」と考えており、これが当時の思想のいわば常識だったということです。

 第一の法印で諸行が無常であるとされたお釈迦さまは、この「我」だけが生滅変化しないとするのはおかしいとされ、インドの伝統的で正統の「魂が不滅である」という思想を覆されたのです。
 このことは当時の思想界において極めて画期的なことだったと思われますが、2500年後の現在に至るまで仏教の(最も)大切な柱であり続けた思想だと思います。

 このように諸法が無我であるという認識は、私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか。『仏教要説』の北畠典夫先生は次のように仰っておられます。

 まず、無我を認識するということは、ものには固定した体(本体)や性(性質)がなく限りなく変化しており、私たち自身も社会も一切のものは他と無関係に存在することは許されない、ということを認識することになり、無我を認識することの実践的な意味は、「無所得」と「無碍(むげ)」の2面から考えられるといわれます。

 「無所得」とは、所得の否定であり執着しないということです。私たちは私たちの周りのものに対してそれを所有し、所有し続け、さらにそれを増大させたいと願い、それに執着します。これは、私たち自身と所得の対象となるものとがいずれも固定常在のものであると誤認して、それに執着する姿だということになります。これに対し、無我の理を得ることができれば、自ずとその執着や囚われから自由になることができるといわれます。

 「無碍」とは障碍(さまたげ)が無いということで、自由自在ということです。自由自在といってもこれは決して自分勝手でいいということではなくて、法(真理)にかなった姿で自己についても自己の所有についても執着し囚われるところがない、つまり「無所得」が完成した姿であり、これが目指すべき姿だということになります。

 私たちは「無我」を認識することを通して自他の対立を否定し利己主義を排除する生活を実践すること、それが「無我」の実践的な意味だとされます。

(写真は、先日秋吉台で出会ったオニユリの仲間です。鮮やかな橙色が印象的でした。)

 左はコオニユリ(小鬼百合)、右はオニユリ(鬼百合)と呼ばれ、よく似ていますが別の種とされています。写真ではちょっと見えにくいのですが、オニユリは葉の付け根に黒色のムカゴとよばれるものを持っていますが、コオニユリにはそれがありません。
 当日目にしたのはほとんどがコオニユリで、オニユリはこの1株だけでした。

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137.仏教のことば:三法印(1)


20150720カキラン1
  20150720カキラン2

 これまで学びましたように、お釈迦さまは今から約2500年前にインドの地でさとりを開かれ、真実の法をお説きになられました。その後、このお釈迦さまが説かれたみ教えは各地に伝えられて、多くの民族や国家を超えて人びとに受け入れられ「世界宗教」となりました。
 そのみ教えは遠く時代と距離を隔てた日本にも伝えられて、現在、多くの宗旨、宗派の仏教が見られるようになりました。それぞれの宗旨、宗派が説いている教えの間には、時として矛盾や対立があるように思われることもありますが、同じ「仏教」としてお釈迦さまが説かれた法に基づいた共通のものがあります。
 それが三法印(さんぽういん)と呼ばれているものです。

 法印とは「教法の印(しるし)」のことで、お釈迦さまが説かれた法の根本をなすものです。つまり、多くの「仏教」に共通してある「真理の旗印」であり、それはまた仏教であるか否かを判断する基準ともなるものです。

 その三法印として、つぎの3つが示されています。

  諸行無常印(しょぎょうむじょういん)
  諸法無我印(しょほうむがいん)
  涅槃寂静印(ねはんじゃくじょういん)
 これに「一切皆苦印(いっさいかいくいん)」を加えて四法印とされる場合もあります。
  
 今回は最初の法印「諸行無常印」について学びます。

 ここでの「諸行」とは「一切の現象」を指すと伺いました。
 仏教では一切の現象は、全て「因縁」によって出来上がったものだとされます。あらゆるものは原因(因)と条件(縁)によりその結果(果)として生じたものであり、それゆえに一切のものは生滅変化、流転してとどまることがないとされます。
 
 自然界の現象、社会の現象、肉体も精神も、一見安定していて盤石に見えるものもすべてが常に変化、変質していて定まることがないとされます。これが「無常」とされるところです。

 私たち自身を見ても、体の何億という細胞は一定の期間(一説では7年間で)に全て入れ替わるのだそうです。それでいて一定の姿を保持しているので、一見安定しているようにみえますが、この安定は猛烈な速度の変化の中でようやく保たれている姿だと考えることが妥当だとされています。

 『方丈記』の最初の次の一節が思い起こされます。
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。」

 お釈迦さまは、私たちが置かれたこの不安定な現実を示され、それへの対応についてお示しいただいたのです。

 『仏教要説』というテキストのなかで、北畠典生師は私たちがこの「無常」に思いをいたすことによって次のような訓戒あるいは実践的な意味をえることができると仰っておられます。

 ○自己が相対的な存在であることに気づき、絶対的な価値を志向し、自己を深く反省し環境や他との調和を目指すことができる
 ○再び取り戻すことのできないという人生の一回性に気づき、精進努力する、日々を精一杯いきることの重要性に気づく
 ○人生の虚仮不実の相を正しく認識することによって、物心にわたるすべての所有物に対する執着の心を捨て、真実に生きようとする生活態度を感得することができる

(写真は、カキランの花です。)

 昨年撮ったものですが、鮮やかな色彩が印象的でした。ちょうど今頃秋吉台で見られる花なのですが、今年はまだ出会うことができずにいます。

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83.浄土真宗のことば(2):真実五願


20150112六甲霧氷

 浄土真宗に「真実五願」という言葉がありますが、今回はもう一度「お正信偈」の御文を離れてこの「真実五願」について見てみたいと思います。

 『浄土真宗辞典』には「真実五願」について次のように説明があります。
  「四十八願のなか、第十七・十八・十一・十二・十三の五願のこと。親鸞は『教行信証』の「教巻」「行巻」「信巻」「証巻」「真仏土巻」において、これらの五願にもとづいた真実の教・行・信・証と真仏土を明らかにしている。」

 前回の記事で、第十八願が阿弥陀仏の本願です、と申しましたが、親鸞聖人はこの本願(第十八願)に誓われている「行」(十念の念仏)、「信」(至心・信楽・欲生の三心)、「証」(衆生の往生)、「真仏土」(阿弥陀仏の成仏)をそれぞれ第十七願、第十八願、第十一願、第十二・十三願に対応させられました。この5つの願を「真実五願」とお呼びしています。
 聖人は、本願の第十八願を展開して他の4つの願も含めた五願に対応させられたということになります。

 この五願のうちすでに見ました第十八願以外の願を見てみますと、次のようになります。

 第十七願(諸仏称名の願)たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称ぜずは、正覚を取らじ。
 「わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みなわたしの名をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。」

 
 第十一願(必至滅度の願)たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。
 「わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が正定聚に入り、必ずさとりを得ることがないようならわたしは決してさとりを開きません。」

 第十二願(光明無量の願)たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ。
 「わたしが仏になるとき、光明に限りがあって、数限りない仏がたの国々を照らさないようなら、わたしは決してさとりを開きません。」

 第十三願(寿命無量の願)たとひわれ仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下百千億那由他劫に至らば、正覚を取らじ。
 「わたしが仏になるとき、寿命に限りがあって、はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。」

 個別の願については別に見ていきたいと思いますが、第十八願、それを開いていえば真実五願によって成就された阿弥陀仏のご本願の力が、私たちを残すところもなく救わずにはおれないと、私たちに向けられているということになります。

(写真は、2008年1月の六甲山の風景です)
 この季節の写真を探したのですが、寒そうな景色で申し訳ありません。でも、この霧氷はみごとでした。

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82.浄土真宗のことば:本願

 
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 今年最初の「お正信偈を読む」は一旦お経文から離れて、「本願」について学びたいと思います。

 本願という言葉は、私たちの浄土真宗ではよくお聞きする言葉です。本山も「本願寺」とされていることからもこの言葉がとても大切な言葉だということがわかります。

 『浄土真宗辞典』という辞典でこの「本願」を見てみますと次のように記されています。(  )の部分は私の添え書きです。

 「仏が因位の菩薩であったときにおこした因本の願の意。この願には、それが完成しなければ仏にならないという誓いをともなっているので誓願といわれる」(因本の願)
 「また、衆生救済のための根本となる願の意で、阿弥陀仏の四十八願中、特に第十八願を指していう」(根本の願)

 この「因本の願」には「総願」と「別願」の2種類があると教わりました。
 総願はたくさんの菩薩方が共通してたてられた願であり、別願はそれぞれの菩薩に固有の願とされています。到達する目標は共通でも、そこに至る道筋がそれぞれの菩薩によって違うのだと教えていただきました。
 阿弥陀仏が法蔵菩薩のときにたてられた願が四十八願で、これが阿弥陀仏の別願ということになります。

 また、「根本の願」は阿弥陀仏のたてられた48の願のうち、第十八願をもっとも大切な根本をなす願とするものです。
 『無量寿経』にこの第十八願は次のように記されています。
 「設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚、唯除五逆、誹謗正法」

 これを読み下しますと、次のようになります。
 「たとひわれ仏(ぶつ)を得たらんに、十方の衆生、至心信楽(ししんしんぎょう)してわが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至(ないし)十念(じゅうねん)せん。もし生ぜずは、正覚(しょうがく)を取らじ。ただ五逆(ごぎゃく)と誹謗(ひほう)正法(しょうぼう)とをば除く」

 その内容は次の通りです。
 「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗(そし)るものだけは除かれます。」

 この第十八願は「至心信楽の願」と呼ばれていて、法蔵菩薩が「あらゆる衆生が、信心と念仏とによって浄土に生まれることができなかったならば、私はさとりを開かない」と誓われた願であり、あらゆる人々を一人残らず救わずにおれないと誓われた阿弥陀仏の根本の願ということで、「本願」とお呼びしているのです。

 ここで、第十八願の最後の部分「唯除五逆、誹謗正法」について触れておきたいと思います。
 これをそのまま読むと、「五逆(父や母を殺すなどの5つの重い罪)や誹謗正法の罪を犯した者は、阿弥陀仏の救いの対象から外れて救われることはない」と読まれそうです。
 これについて親鸞聖人は『尊号真像銘文』というご文の中で、「「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」と述べておられます。
 聖人は、ここではこれらの罪の重さを示してその罪を犯すことのないようにと示されたと受け止められておられます。また、すでにこれらの重い罪を犯した者に対してもなおあわれに思われて、そのような者も救おうとされているのが阿弥陀仏のお救いなのだと示されました。

(写真は、2008年8月10日の伊吹山山頂の夜明けです)
 伊吹山は滋賀県と岐阜県の県境にあり、豊富な高山植物があり夏には夜間登山もできる山として人気のある山です。

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