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711.ご紹介します(25):「市制百年 宇部市の誕生」


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  前回の記事でご紹介しました講演会の講師の内田鉄平氏が書かれた、『市制百年 宇部市の誕生』という本をご紹介します。昨年の9月に宇部日報社から発行されたものです。

 内田氏は、このブログでもご紹介しました『石炭都市宇部の起源』という書で、石炭の採掘が江戸時代から始まり、明治維新とその後の進展の中で発展してきたことを後付けされました。今回の書では、この石炭産業の発展が100年前の宇部市の市制施行とどのように関わっていたのかということについて記されています。

 前回ご紹介しました内田氏の講演に沿ってこの間の流れを見てみます。
 長州藩の永代家老の福原家の領地である宇部村地区では、幕末期より石炭の採掘が盛んになりました。明治維新により禄を失うことになる福原家の家臣は、「宇部炭坑会社」を設立し石炭採掘を管理することで、この事態に対応しようとします。次いで、明治19(1886)年にその後継組織として「宇部共同義会」を創設します。
 明治20年以降、宇部共同義会のもとで、旧の福原家領内に多くの炭坑が開山されます。明治30年には沖ノ山炭坑が開かれ、宇部の石炭業は大きな成長期を迎え、それに合わせて炭坑の周辺事業として多くの事業が誕生、成長していきます。
 このような産業の急速な発展により、元々はほとんど人家のなかった新川地区に多くの人々が住むようになりました。人口6,000人程度だった宇部村は明治40年には10,000人を超え、大正9年の第1回国勢調査では40,000人に届こうかというように急増します。
 このような社会環境の急変に伴って、様々な問題も発生するのですが、それらへの対処も含めて市制への移行が必要だと考えられ、大正10(1921)年、宇部村から「町」を飛び越して一気に宇部市制施行となります。

 このような急速は発展、拡大が可能になった要因は何だったのだろうか、という目で『市制百年 宇部市の誕生』を読みますと、対外、対内の両面で旧宇部村が一体となって対処できたからではないかと感じられます。
 それが可能になった背景には、この地区がかつての福原家の領地に当り、旧の領主、家臣、村の人が明治維新を超えても一体感を持ち続けることができたことがあるのではないかと思います。

 その一つ、対外的な関係では、同書で「宇部モンロー主義」という言葉で紹介されていますが、外部に頼らず独自に課題に対処する姿勢にあります。宇部地区の炭坑は、筑豊地方の炭坑に比べて規模が小さく、大きな外部の資本からは注目されなかったのだそうです。それで、やむを得ずに自身で資金を調達(寄付や出資を募るなど)して事業を展開していきました。その場合も、資金を募る対象は宇部村内の人びとに限ったようです。

 もう一つは、対内的にも地域一体になって対処できたということです。
 炭坑事業の急速な発展を推進した組織として、先に挙げた明治19年設立の「宇部共同義会」があります。この組織は社会事業を行う部門と炭坑の管理を行い収益をあげる部門とを持った組織となっていて、経済的にこの地域を支える機能を持っていました。
また、明治21年に「宇部達聰会」という組織が創設されます。この組織は、共同義会を支援するとともに、村会議員の推薦を行うなど、村内の世論醸成を支える機能を持ったもののようです。この組織の運用にかかる費用は共同義会が負担していたようです。
 これらの組織の他、村政にも旧福原家の家臣が多くかかわっていました。このように、旧福原家の関係者が共同義会、達聰会、行政の要職を占め、その三者が三位一体となって宇部の急速な発展を推進していったものと思われます。そしてその中心は、経済的な支えとして機能していた共同義会ということになるようです。

 その他、この宇部地区の発展について、世論を喚起し時には批判していたものとしてマスコミがあったことも知りました。現在は宇部日報社となっていますが、かつての宇部時報社の設立の経緯や記事も紹介されていて、当時の熱気を感じることができました。

 このように、行政、経済、世論が一体となって産業発展に邁進していった姿が浮かび上がってきます。それが、宇部では外部からの関与を必要とせずに行われたところに特徴があるように思われます。「モンロー主義」とされる所以でしょうが、一方で排他的な方向に向かう可能性もあったのではないかと想像しますが、それもうまくコントロールしながら現在の宇部市の姿になったものと思われます。

(図は、同書の表紙、裏表紙です)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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644.ご紹介します(24):「人は、なぜ他人を許せないのか?」

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  今回ご紹介しますのは、中野信子さんという方が書かれた「人は、なぜ他人を許せないのか?」というタイトルの本です。
 帯には、「すべての人の心に潜む「正義中毒」という快楽を最新の脳科学が解き明かす!」とあり、さらに「自分は絶対正しい」「他人の言動が許せない」という二つのフレーズも記されています。

 この帯の言葉だけで、この本を読んでみたいと思いました。
 ちょうどいま、新型コロナウイルス感染拡大に対応して外出自粛の呼びかけが行われています。その中で、他の人の行動を批判する過剰な行動やネットへの書き込み、医療従事者への差別の問題が表面化しています。また、木村花さんという女性のプロレスラーが亡くなりましたが、ネット上で彼女で対する執拗な非難が行われたことがその背景にある、という報道がなされていました。

 私は、以前から私たちは過剰に正義を求めすぎているのではないか、と感じていました。特に自分以外の人に対して、正しくあることを求め、少しでもそれと違うことを目にし、耳にすると居丈高にその人を非難してしまって、寛容性が狭まってきたなあ、と感じることが多くありました。

 著者の中野さんは、そのような傾向、行動は人間にとって当たり前のことなのだ、「そもそも人間の脳は誰かと対立することが自然であり、対立するようにできています。」と言います。私たちの脳そのものが、そのように外に向かって攻撃的になっているのだといわれるのです。哺乳類のうちの多くのものは個体の弱さを克服するために集団を形成するのですが、この集団同士は対立する関係に陥るのだそうです。そうなると、「自己の所属している集団が集団であり続けることこそが正義」だということになります。
 この生き延びるために形成された集団は、その置かれた環境によって性質がすこしずつ異なってくるのだそうです。日本の集団が置かれた環境というのは、狭い島国で、地震や火山の噴火、台風などの厳しい自然環境の中で生き延びなければならなかったという特徴があり、そのような環境では、まとまって行動できる集団の方が生き延びる可能性が高かったのだ、と中野さんは言います。様々な意見が出され、中には突拍子もない者がいてもそのような存在を包含しながら方向を決めるというような余裕もない、そんな環境だったと言えるのでしょうか。そうして生き延びてきた私たちの遺伝子には、集団に依拠して生きるという知恵が組み込まれてきた、ともいえるようです。
 そのような集団の中では、突出した個性を持ち、自分の価値観を前面に出していく構成員は、集団のまとまりを壊す存在だとして排除されることになると中野さんは言います。

 このような見方で、現在起こっている現象を見てみると、「そんなことをするなんて許せない」としてバッシングに走り、中野さんの言葉をお借りすれば「間違ったことが許せない」「間違っている人を、徹底的に罰しなければならない」「私は正しく、相手が間違っているのだから、どんなひどい言葉をぶつけても構わない」ということになります。しかも、そのように「他人に「正義の制裁」を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物資であるドーパミンが放出され」るのだそうです。
 この私たちの行動傾向は、ネットでの「書き込み」が匿名で可能だということで先鋭化し、さらに新型コロナウイルス感染などのストレスのなかで増幅され、「正義の履行」が止まらなくなったのが現在の姿なのだということが分かります。

 お釈迦さまは、私たちが逃れることができない八つの苦の一つとして「怨憎会苦」をあげられました。怨み、憎む相手と出会わなければならない苦、です。お釈迦さまは、私たちの外にそのような相手がいるのだ、と言っておられるのではなく、私たち自身がそのような対象を作り出してしまうのだ、逃れることのできない煩悩を抱えている私たちがそうしているのだ、ということを教えていただいています。そして、現在の脳科学は、これは私たちが生き延びるために身につけた資質なのだ、ということを示している、ということになります。

 以前ご紹介しました、「二人が睦まじくいるためには」という本のことを想い出しています。吉野弘さんは、「祝婚歌」という詩の中で次のように言われていました。
 「互いに非難することがあっても 非難できる資格が自分にあったかどうか あとで疑わしくなるほうがいい
  正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい
  正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気付いているほうがいい」

 私たちは、脳の働きでもって他者に対して攻撃的にならざるを得ないにしても、そのような存在であることを認識し、少しでもそれを抑制できるように努めることはできると、自分に言い聞かせることはできると思います。

(図は、本のカバーです)

 今回、たまたま時間があって、ぶらりと書店に入ってこの本に出合いました。このようなことは最近少なくなったような気がします。まず、ぶらりと入るような書店が近くになくなっています。そして郊外にできた大型の書店は、コミックや参考書、趣味の本などの置き場が広くなって、落ち着いて本を眺め、立ち読みするという気分になりにくいです。
 そんなことから、書評で気になった本や誰かから勧められた本を、ネットで注文するというパターンが多くなってしまいました。ぶらりと書店に入って、豊かな(?)時間を過ごすという習慣も大事だな、と改めて思います。

 もう一つ気づいたのですが、前回の「トリセツ」と今回の本、どちらも女性の脳科学者が書かれた本です。どちらの本も、私たちの行動が私たちの脳(や遺伝子)から重要な支配を受けているということを、分かりやすく説明する内容になっているという共通点があります。
 
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610.ご紹介します(23):「妻のトリセツ」

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  今日ご紹介しますのは、「妻のトリセツ」というタイトルの本です。著者は、黒川伊保子さんという人で、この本は40万部も売れたベストセラーになっているのだそうです。

 「トリセツ」というのは「取扱説明書」の略ですが、この本はややこしくて理解できない(?)妻の取り扱い方のポイントを男性に教えてくれるというものです。著者は「はじめに」の部分で次のように記しています。
 「本書は、脳科学の立場から女性脳の仕組みを前提に妻の不機嫌や怒りの理由を解説し、夫側からの対策をまとめた、妻の取扱説明書である。(中略)プロの夫業に徹することで、その結果、妻から放たれる弾を10発から5発に減らそうというのが、本書の目的である。」

 黒川さんによりますと、夫婦(だけではなく男女一般)の間に生じるすれ違い、感覚の違いは女性脳と男性脳の違いからきているのだそうです。この男性脳、女性脳というのは、太古の昔から引き継がれてきた男性、女性の固有の役割からする固有の思考、行動パターンで、狩りに出かけ獲物を持って帰る役割の男性と、誕生したか弱い嬰児を時間をかけて育てていく女性という機能に由来する特徴だ言われます。
 
 男性脳にとっては、置かれた状況を判断し獲物を得るという「事実」が大事になります。一方、女性脳の根底にあるのは「心」だと黒川さんは言います。女性同士の会話で、「そうそう」「わかるわかる」という言葉が多く使われている(そうですが)ように、共感する「心」が、共同して子供を育てるということにつながり、子孫を残す有効な手段になるということです。そして、女性脳にはこの「心」の通信線と「事実」の通信線があってその「心」の方で相手につながろうとする一方、男性脳では「事実」の通信線が強く働き、女性脳からの「心」の通信を受け止めることができずにいることが様々な「トラブル」の根底にあるのだと黒川さんは言います。

 黒川さんが具体的な事例として本書で取り上げていたのは次のような会話です。
 妻から「〇〇(子どもの名前)が、寝かせると泣くから、ずーっと抱っこしていて、腰が痛くなった」と訴えられたとする。その場合になんと答えるべきか。
 ①「抱き癖がついたんじゃないか。泣いても抱くのをやめたら」
 ②「明日、病院に行って、腰を診てもらえよ」
 このどちらもだめと黒川さんは言います。夫は妻から言われたことに対して解決法を提示していますが、妻が求めているのは解決法(事実の通信線)ではなくて、共感(心の通信線の方)なので、正解は「一日中、抱っこしてたの?そりゃ腰だって痛くなるよ。本当に大変だったね」です。

 さらにこのような会話は、言った夫の方は忘れてしまうことが多いのですが、出産から育児期にかけて「満身創痍」状態の奥さんの方にはネガティブな記憶として強く残されて、後で夫からすれば「なんで今頃・・」というようなときに出てくるのだということです。

 私たちは様々な場面で行動し言葉を発します。それが自分本位で相手のことを考えたものでない場合は論外ですが、「相手のために」良かれと思って行ったことが通じていない、場合によっては相手の「地雷を踏む」(本書の中の言葉です)結果になったという経験をすることがあります。この場合本人には相手のことを考えた上だという意識がありますから、行った本人は「なんで?」と極めて不本意、ということになります。
 上記のような男性脳、女性脳の違いというものを知ると、なるほど通信線が合致していなかったのか、と思い当たります。またこのようなことは、相手が女性であろうと男性であろうと生じ得ることだということにも思い至った次第です。いわば通信線が通じていない状況で、相手がどのような状態にあるのかということも考えずにとった「善意による」行動も、そのまま伝わらないこともあるということです。
 自分中心の行動はもとより、相手のことを考えた行動もこの通信線を合わせたものでなければならない、ということを改めて認識した次第です。

 それともう一つ、黒川さんも言っておられましたが、多様性の確保も大事だということです。太古の昔から男性と女性はそれぞれ特徴ある能力を強化発揮して生き延びてきました。その意味では、男性脳、女性脳それぞれがしっかりと発揮されることがこれから人類が生き延びていくために必要なことだと思われます。黒川さんが言われるのも、両方の脳はその違いも含めて強化しつつも、途切れてしまいがちになる通信線はしっかりと確保することが必要だということなのでしょう。

(図は、本の表紙と裏表紙です)

 帯にある「読者から感謝・納得の声が殺到しています!」の中にこんな声が紹介されていました。( )内は私の声です。
 「ただいま”座右の書”として活躍中。でも30年前に本書に出会えていればよかった」・・男性60歳代
 (ご同輩、同感ですなあ)
 「おかげさまで、結構な確率で妻の地雷をかわせるようになりました」・・男性30歳代
 (お若いの、間に合ってよかったねえ)

 この本に興味を持ったのは、『週刊文春』に連載されている対談「阿川佐和子のこの人に会いたい」に黒川さんが登場されていたことによります。
 同じ著者による『夫のトリセツ』も最近出版されているそうでが、当初『夫のトリセツ』の方は売れないだろうとされていたようです。対談の中でも、「妻から夫を見ると「私の取扱いが悪いからじゃなくて夫がポンコツだから」と故障した車のトリセツを誰が買いますか、」(この部分には笑ってしまいましたね)と不安視されていたことが紹介されていましたが、あにはからんや発売1カ月半で11万部が売れたとのことで、こちらも面白そうです。(廃車にならんようにせねば)

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562.ご紹介します(22):「空と湖水」

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 今日は、植松三十里さんという方が書かれた「空と湖水」という書籍をご紹介します。7月5日に発行されたところです。

 この本は、三橋節子さんという日本画家の生涯を描いた本です。実は同じ節子さんについて昭和52年に発行された「湖の伝説」という本がありました。もう40年以上前に梅原猛氏が書かれた本なのですが、私はこの本を読んで受けた驚きと感銘について今も記憶しています。
 今回節子さんについて描かれた本だということで、植松さんの本を興味をもって読み、また梅原氏の本ももう一度図書館から借りてきて読みなおしました。以前梅原氏の本も手元にあったのですが、こちらに帰る引っ越しの際に置いてきたようで、図書館から借用ということになりました。

 三橋節子さんは昭和14年3月京都に生れました。京都市立美術大学日本画科専攻科を修了、日本画家としての歩みを始められ、その後多くの賞を受賞するなど順調に日本画家としての地歩を固めておられました。
 ところが昭和48年34歳の時に、以前から感じていた右肩の痛みについて診察を受けたことろ、痛みの原因は鎖骨腫瘍で手術により右腕を切断することが必要だということが分かります。同年3月、節子さんは画家にとって命ともいえる利き腕の右腕の切断手術を受けられます。手術の後、節子さんは残された左腕のリハビリに取り組まれるのですが、専門家も驚くほどのスピードで左手の能力を獲得され左手による制作を始められました。
 その後も手術以前にもまして制作に取り組まれ、多くの作品が高い評価を受けました。しかし、48年12月がんが左肺に転移していることが分かり、肺の手術を受けられますが、がんは肺全体に広がった状態で手術による回復は絶望的であることが判明、その結果は節子さんの両親やご主人に告げられます。
 翌昭和49年1月に節子さんは退院、その後も体調のよくない中、残された時間を惜しむように精力的に制作に取り組まれていました。しかし、病気は確実に進行、翌年昭和50年2月節子さんは転移性肺腫瘍で亡くなられました。35歳の若さでした。

 節子さんが描かれた絵を集めた「三橋節子画集」という本があります。昭和55年3月に梅原氏が責任編集者として出版されたものです。その中に、ご主人の鈴木靖将氏がまとめられた「図版目録」があり、節子さんの画業を一覧できるようになっています。
 その目録を見ますと、節子さんが手術の半年後昭和48年9月に百号(縦162センチ、横130センチ)の大作を2点、そのうちの一つが「三井の晩鐘」なのですが、を完成させて毎年出品されていた「新制作日本画展」に出品されたことが分かります。その12月に再手術を受け翌年1月の退院の後、亡くなるまでの約1年間に描かれた作品として13点があげられています。2度の手術の間の体調も万全ではなかったものと思われます。そのような中で、ものすごい集中力で制作に取り組まれたことがよく分かります。

 2冊の本の表紙に取り上げられている絵を観賞したいと思います。

 最初の写真、左、植松三十里氏の本の表紙にとりあげられているは「三井の晩鐘」という昭和48年9月の作品です。
 節子さんの作品には近江の伝説に取材したものが多いのですが、この「三井の晩鐘」も民話をもとにした作品です。
 「昔、近江の里に若い漁師がいたのですが、見知らぬ美しい娘と結ばれます。子供もできたのですが、あるとき妻は夫に、自身が琵琶湖の龍神の化身であってもう湖に帰らなければならない、と言って引き留める夫を振り切り湖に戻ります。残された夫は夜になると乳飲み子を抱え浜に出て妻を呼びます。すると妻が表れて子供に乳を与えては湖に帰っていくというようなことが繰り返された後に、妻は自分の右の目をくりぬいて、これを子どもになめさせてください、と告げます。子供はその目を口にすると泣きやんだのですが、右目がなめ尽くされ今度は妻は左の目を与えます。妻は、両方の目がなくなって私は方角が分からなくなりました、これから毎晩子供を抱いて三井寺の鐘をついてください。そうしたらその音であなた方の無事を確かめることができます、と言い、それから毎晩三井寺で晩鐘をつくことになった」という民話です。

 この絵には、手前に目をなめている子供、その後ろにもう一つの目を手にして龍をまとわりつかせている盲目の女性、左に大きな鐘が描かれています。
 節子さんは、同じ日本画家のご主人との間に、男の子(草麻生:くさまおう)と女の子(なずな)を授かっていました。この絵は節子さんが右腕を切断した6か月後、再発が分かる3か月前の9月に描かれました。医師から再発の可能性について告げられていた節子さんには、再発への恐れやその場合に子供たちを残していかなければならないことなどが胸一杯にあったと思われます。  
 そうして見ますと、この龍女は節子さんの自身の姿であって、大切な子供に何か残しておいてやりたい、という痛切な思いが描かれていると思われます。
 手術後に驚くべき回復力で能力を獲得して描かれたたくさんの絵も、節子さんが子供たちを始めたくさんの人びとに残したいと願い描かれたものだといえます。

 右、梅原猛氏の本の表紙は、「花折峠(はなおれとうげ)」と題された絵で、昭和49年9月の作品です。花折峠という美しい響きのこの峠は京都から若狭に行く街道の途中に実際にあります。かつて訪ねたことがありますが、山間を縫う峠で、この峠についても次のような民話が伝えられています。
 「昔、やさしくて誰にも好かれる娘と、反対に何かにつけて評判のよくない娘の姉妹がいました。二人は一緒に花を頭に載せて遠くの里に売りに出かけるのが常でした。そんな二人でしたから優しい娘の売り上げがいつもよくて、もう一人の娘はそのことを恨んでいました。そんなある日、大雨になりました。こころ優しい娘は持ってきた雨具を二人で使いながら帰っていましたが、急流にかかっていた丸木橋のところで、評判のよくない娘は優しい娘を橋から急流に突き落とします。優しい娘は急流に飲み込まれて流されていきました。突き落とした娘は急いで里に帰るのですが、すると優しい娘が何事もなかったのかのように鼻歌交じりで夕飯の準備をしています。驚いた娘が丸木橋のところに戻ってみると、その辺り一面に茎の折れた花が散らばっていました。その後この場所を花折峠と呼ぶようになった」という民話です。

 この絵の中央右上から左下に向けて川が流れています。その川に一人の娘が浮んでいて、その左上には花籠を頭上に持った娘が描かれています。そしてこの絵の右下部、半分以上を占める部分にたくさんの種類の花が白い色彩で描かれているのが印象に残ります。しかもその花の茎はほとんどと言っていいほど全てが途中で折られているのです。前記の民話を節子さんが絵にしたもので、川に浮かんでいるのが心優しい娘だと考えられます。
 節子さんがこの絵を描いたのは、肺のがんの治癒が絶望的だということが分かり、そのような中でも制作に集中していた時、亡くなる5か月前です。
 梅原猛氏はこの絵を「花好きの節子がかいた自らの涅槃図である」と記されています。「節子も花売娘と同じく、何一つ非難さるべき所のない女であったが、残酷な運命に襲われた。しかし彼女も、その運命を、決してうらんだりせず、釈迦の如く安らかに、今、死につこうとしている」
 節子さんは、その二人の子供さんに植物の名前をつけるほど植物を愛しておられたそうです。後に残される子どもたちや、ご主人、家族のことを思いながら、それでもたくさんの花に囲まれて死を受け入れているそのような姿が見えます。梅原氏の言葉で思い起されるのですが、たくさんの動物に囲まれたお釈迦さまの涅槃図が浮かんできます。

 私がこの節子さんの生涯を知って、驚き感銘を受けたのは二つの点です。
 その一つは、がんに侵され利き腕の右手を切断するという、普通の人間ならば絶望して全てを投げ出してしまうような状況に直面しながら、驚異的なスピードで残された左手の能力を獲得し、制作に没頭し、優れた多くの作品を作り出したことです。右腕切断の手術の後、そして肺の手術の後とさらに加速するようにたくさんの作品を残されました。
 死が間違いなく近くにある、という感覚を持った時に、私たちはこのような力を発揮できるのだろうか、ということを考えさせられます。近くにあるかどうかは別にして死が間違いなくあるのだと、私たちは口にはします。しかし本当に、これではいけないと思い、残された時を節子さんのように力の限り生きているのだろうか、といつも自身に問いかけなければならないと改めて思います。

 その二つ目は、節子さんがこのようないわば理不尽な厳しい状況のなかでも、周りの人に感謝の気持ちを持ち続け、決して自身の不幸を嘆くことがなかったということです。
 節子さんがこのように厳しい状況の中で制作に取り組むことができた背景には、ご主人や、ご自身のご両親、嫁ぎ先のご両親の支えや励ましがありました。そして二人の子供さんの存在も大きな力になりました。梅原氏は、節子さんを力づけたご主人の言葉を紹介されています、「右手は無くなっても、俺の手と合わせて三本あるじゃないか」と。
 このような多くの力に支えられ、残された時間を思い、子どもたちのことを思い、節子さんは制作に向かわれました。そして父の三橋時雄氏の文では、最期のとき、苦しい息づかいの中から「ありがとう、幸せやった」という言葉を残されたそうです。

(左は「空と湖水」の表紙、右は「湖の伝説」の表紙です)

 それぞれ「夭折の画家三橋節子」「画家・三橋節子の愛と死」という副題が付されています。


(以下は、2019年9月20日追加分です)

 梅原猛氏の「湖の伝説」の本は引っ越しの際に置いてきたようだ、と書いていたのですが、こちらに持って帰っていたことが分かりました。なぜそうしたのか記憶がないのですが、いつも使っている本棚とは別の本棚にあったのです。気に入った本でしたから、見つけることができて喜んでおります。
 それで、以前置いていた本(宇部市立図書館からお借りしたものでした)の図を今回「発見した」本の図に置き換えました。そして図書館の分は、こちらに移転です。といっても、図書館の蔵書であることを示すラベルがちょっと見えるだけの違いなのですが・・・・

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559.ご紹介します(21):「秋吉台で出会った花」

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 今日ご紹介するのは『秋吉台で出会った花』という本で、著者は中沢妙子さんという方です。

 この本は、私にとっては愛読書というよりは常備本とでもいう存在です。
 梅雨が明けて、先日から天候と時間を見て(時々)山歩きをするようにしています。最近は秋吉台を歩くことが多いのですが、この本はいつもリュックの中に入っていて、途中で見かけた植物について調べる時に重宝している本なのです。

 この本には、秋吉台で見られる植物792種が取り上げられていて、写真と説明文で紹介されています。
 ご本人の言葉によれば、中沢さんは「もともと植物については全くと言っていいほど無知だった」そうですが、お住いの山口からくじゅう(久住・九重)に通って花の写真を撮ることを楽しみにされていました。その後、知人から「遠いくじゅうまで行かなくても秋吉台に行ってみては」と勧められて秋吉台に通われるようになったのだそうです。

 それからもう20年以上もの間、ほとんど毎日のように秋吉台を歩き、植物を観察し記録して来られました。「たこさんの秋吉台日記」というHPを持っておられますが、その記事によればその間に観察した植物は1554種にもなるのだそうです。
 それらの中には、植物学の定説に修正を加えるようなこともあったということです。その例として、アキヨシアザミの分類に関する文章がこの本にあります。アキヨシアザミは秋吉台に固有の植物なのだそうですが、従来はモリアザミというアザミの仲間の変種だとされていたのだそうです。しかし、中沢さんの観察結果も含めてアキヨシアザミは秋吉台特産の独立した種だという見解も出されているということです。

 中沢さんがインタープリター(解説者)として案内される植物観察のツアーが催されています。これは4~5時間で、中沢さんから植物についてお話しを聞きながら散策するという楽しいツアーで、一時はよく参加していました。
 そのツアーでのやり取りで今も覚えていることがあります。
 秋吉台のカルストロードのそばでハマヒルガオの群生を見つけたことがありました。元々は海岸に分布しているこの植物がなぜこのような高地の秋吉台にあるのだろうと不思議に思っていて、ツアーに参加した時にそのことを中沢さんに尋ねたことがありました。それに対して中沢さんから即座に答えが返ってきました。「それは海岸で採取された砂が工事に使われ、その中にハマヒルガオの種子が紛れ込んでいたのでしょう」その答えは私にとって思いもつかないものでしたが、なるほどと深く納得できるものでした。それまでの疑問が一気に疑問が解消された思いで、今もそのことを思い出します。

 この本の初版に秋吉台科学博物館名誉館長の庫本正さんが、「秋吉台の植物に憑かれた人」と題して次のように紹介文を寄せておられます。
 「秋吉台の植物熱中人がいよいよ皆様の前に現れて、体験された草花とのやりとりを語り始めたのです。この本は写真も文章も中沢さんの渾身の表現です。秋吉台の自然を歩く際、ポケットに入れておき、植物図鑑とすると同時に植物の世界の魅力を知るバイブルにしてください。」
 (ポケットにいれるにはちょっと重いかもしれませんが、全く同感です。また観察ツアーにも参加しましょう。)
 
(左は『秋吉台で出会った花』の改訂版、右がその初版です。)

 初版は2010年12月10日に発刊されました。私は2013年4月にこちらに帰ってきてこの本が欲しいと探したのですが、書店では既に売り切れとなっていました。それでやむなく必要なときには図書館で借りていました。というようなことで、こちらの版は手元にはなく、今回は厚狭の図書館から借りてきました。
 その後2014年4月1日に改訂版が出されて、求めたのが左です。ポケットならぬリュックに入れて持ち歩きましたので、擦り切れております。

 改訂版の外見は初版と同じように見えますが、内容では、取り上げられている植物に入れ替わりがあるほか、大きな違いは植物を初版とは違った分類体系で分類し直しておられる所です。植物の分類体系は、遺伝子解析の技術を取り込んで大きく変わりましたが、改訂版ではその新しい体系に従って分類されています。中沢さんは新しい体系でまとめる苦労について記されていますが、改訂版発行にはそのようなご苦労もあったことが分かります。

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