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555.歴史を訪ねる(17):一向一揆

20190719吉崎御坊跡   20190719蓮如上人像

 前々回の記事でご報告しましが、今年10月に計画されている念仏奉仕団の参加者にお配りする「しおり」に掲載する「長島一向一揆・長島願証寺」の記事を担当することになりました。1ページの記事なのですが、以下収集した情報の一部をまとめておきます。

 長島一向一揆は1570~1574年の間、伊勢長島(現在の三重県桑名市)を中心に戦われた一揆のことを言いますが、最初に、「一向一揆」とはどういうものだったのでしょうか。

 『浄土真宗辞典』では「一向一揆」は「本願寺門徒を中心とした一揆のこと。文明年間から天正年間にかけて、畿内・東海・北陸各地で勢力を持ち、当時の政治・社会に大きな影響を与えた。」とされ、加賀一向一揆(文明6年・1474年~)に始まり、永正3年(1506年)の畿内や北陸などでの一揆、天文元年(1532年)前後の畿内での一揆、元亀元年(1570年)からおよそ10年に及ぶ石山戦争や、それに呼応して蜂起した伊勢国長島一向一揆などがある、とされています。

 「一向一揆」の「一向」は「一向宗」という言葉から来ています。この「一向宗」について『浄土真宗辞典』に尋ねますと、「元来は本願寺などの真宗諸派を含む浄土系諸宗派の包括的通称であったが、蓮如の頃には本願寺教団の呼称として広く用いられるようになった。」とされています。第8代宗主蓮如上人(1415~1499年)の頃には本願寺教団を指す言葉となっていたようです。
 ただ、蓮如上人は『御文章』(1帖目15通)で、親鸞聖人はその教えを「浄土真宗」と名づけられ「一向宗」と名乗るようにとは定めておられず、「一向宗」という名は当方から言い出したことではない、と記しておられます。従って「一向宗」という呼称は、本願寺教団を外部から呼んだ呼称だということになります。

 上記の文明年間から天正年間(1469~1593年)という時代は、応仁の乱(1467~1477年)から室町幕府の滅亡(1573年)、豊臣秀吉による天下統一(1590年)に至る戦乱の時代にあたります。
 (防長の歴史でみますと、大内義隆公が陶晴賢に討たれた「大寧寺の変」が1551年ですから、ちょうどこの時代に当たります。)
 それまで権力を維持してきた勢力や新たに台頭してきた勢力が衝突し、権謀術数を繰り広げ、血で血を洗う戦いの時代でした。本願寺教団もそのような社会情勢の中で、各地で抗争に巻き込まれあるいはその当事者となり多くの門信徒に影響を与えることになりました。

 そのうち加賀一向一揆は、文明5年(1473年)蓮如上人(当時は越前国吉崎御坊におられました)の時代に、当時の加賀国(石川県の南部に当たります)の守護富樫家の内紛に関わる形で戦が始まりました。長享2年(1488年)には一揆勢は、対抗することになった富樫政親を滅ぼし、以後約100年の間加賀国を実質的に支配していました。しかし天正8年(1580年)織田信長の配下の柴田勝家により一揆は制圧されました。

 石山戦争(大坂戦争)は、元亀元年(1570年)第11代宗主顕如上人の時代に織田信長に抗して始まった戦です。防長の毛利氏を始め織田信長に対抗する勢力の支援も受けて戦われましたが、天正8年(1580年)織田勢と和睦することとなり、本願寺は石山の地を退去し鷺森(現和歌山市)に移ることとなりました。

 このように、「一向一揆」は、本願寺教団を中心に僧侶、武士、農民、商工業者などによって形成された勢力、自治組織、自治地域、戦闘だったのですが、最後は織田信長との抗争の末に歴史上からその姿を消したものです。

(写真は吉崎にある蓮如上人に関わる遺跡です。現在吉崎には本願寺の吉崎別院があります)

 写真左は吉崎御坊跡、右は御坊跡の蓮如上人の銅像(彫刻家の高村光雲氏の作で昭和9年に建立されたとのこと)です。
(左の写真はネットからお借りしました。右は2009年に私が撮ったものなのですが、イマイチの写真です。)

 京都におられた蓮如上人は、延暦寺などの勢力から執拗な攻撃を受け、文明3年(1471年)越前国吉崎(現福井県あわら市)に移られ、この地に吉崎御坊を建てられました。吉崎御坊は北陸の信仰の中心地となりましたが、富樫氏との戦いの中、文明7年(1475年)上人は吉崎を退去し若狭小浜を経て河内に移られました。その後京都山科に本願寺を移されましたが、その山科本願寺も破却を受け、明応5年(1496年)に大坂石山の地に石山本願寺を建立されました。この石山本願寺が後の石山戦争の舞台となります。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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554.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (33):下巻第二段


20190712下巻第二段自坊

 御絵伝の下巻第二段に入ります。4幅の御絵伝では3幅目の下らか5番目の絵です。
 以下、『御伝鈔』の御文と訳文を掲げます。下巻第二段の最初の部分に当たります。

 聖人(親鸞)越後国より常陸国に越えて、笠間郡稲田郷といふところに隠居したまふ。

 (親鸞聖人は、越後国(新潟県)から関東の常陸国(茨城県)へ移って、笠間郡稲田郷(いまの笠間市稲田町)というところに隠居せられました。)


 前回の下巻第一段の最後の部分に、聖人は勅によって罪を解かれたけれどしばらくの間越後にとどまっておられた、と記されていました。今回、その後聖人は関東に移られたと記されます。『御伝鈔』には記されていませんが、建保2年(1214年)に、聖人は奥様の恵信尼公や子供さんを伴われて関東へ移られたと考えられています。聖人42歳の時でした。

 聖人がなぜ越後から関東に移られたのだろうか、という点で様々な議論があったとお聞きしています。
 前回、京都に戻られなかったことについてその背景をみましたが、なぜ同じ越後で念仏の教えを弘めるのではなく関東に移られたのだろうか、越後もすでに念仏の教えがひろまっていたのになぜ越後を離れられたのだろうか、という点です。
 覚如上人は『御伝鈔』でその背景となることについては、全く触れられていません。

 平松令三氏の『聖典セミナー 親鸞聖人絵伝』やその他の資料によりますと、その背景として次のような説が出されたそうです。
 恵信尼公の実家である三善家の所領が関東にもあってその縁を頼って移られたとする説、聖人のご著書である『教行信証』を著すに当たって「一切経」を参照するに必要があり常陸国が至便の地であったとする説、さらには、聖人は越後の農民と共に常陸の国に移住されたとする説などです。
 また、平松氏によりますと、近年、親鸞聖人は善光寺の勧請聖(かんじんひじり:念仏を弘めつつ募財を行う僧)たちと共に関東に赴かれたという説も有力になっているということです。

 善光寺は長野市にあるいずれの宗派にも属さない単立の寺院で、創建は7世紀中頃だとされています。ちょうど越後から常陸に至る中間の地に位置していて、聖人が常陸に移られる途中で善光寺によられたとする説、百日間滞在されたとする説もあるということです。
 平松氏によりますと、善光寺の本堂にには大きな花瓶に松の木が1本生けられていて、その松は「親鸞松」と呼ばれているそうです。善光寺では、親鸞聖人が参詣されたときに献上されたことを受け継いでいこの様式にされているということです。
 さらに真宗高田派の専修寺(現在、本山は三重県津市にありますが、かつては現在の栃木県間岡市に創建されました)では、仏前にお供えする花は「高田の一本松」と呼ばれる松の木一本だけなのだそうです。善光寺の松と同じ形であり、このことも親鸞聖人と善光寺とのつながりを示すものではないかとされています。

 10月の団体参拝では専修寺にお参りする計画になっていますので、この「一本松」を見ることも楽しみにしたいと思います。
 
(図は、自坊の御絵伝下巻第二段です)

 画面には2つの場面が描かれています。
 右の図には、水辺を歩く3人の僧が描かれています。中央の白い帽子(もうす)を首に巻いておられる方が親鸞聖人です。
 この図については、越後での布教中のお姿とするものと、越後から関東に向かわれるお姿とするものとがあるようです。前者ですと水は海を描いたものということになり、後者ですと「室の八嶋」という景勝地や「霞ヶ浦」だとされているようです。

 画面中央の小さな橋を渡り、岩場(一節には筑波山と)を越えたところに稲田の草庵の様子が描かれています。ここでも聖人は白い帽子を着けておられます。

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553.宇部北組広報班、若僧会


20190712霧
  20190712霧2

 7月10日に吉部の常光寺さんを会場に、宇部北組の広報班の打ち合わせが実施されました。この広報班は、「御同朋の社会をめざす運動」宇部北組委員会の広報部門を担当する組織です。
 6名のメンバーで構成されていて、組のホームページの運用、組報「ご縁だより」の発行などを担当しています。

 当日は広報班の打ち合わせに先立って、宇部北組の若僧会の総会が開催されました。この若僧会は組内の(若手の)僧侶を構成員とするもので、研修や他の組との交流を行うなどの活動をしています。広報班の打ち合わせの前に開催されましたので、こちらにも出席をしました。
 若僧会の活動についてはこのブログの初期に一度ご紹介したことがありましたが、その後の情報は余り載せていませんでしたので、広報班と併せて当日のご報告をします。

〇若僧会
 1.2018年度活動報告、会計報告
  広島別院の秋季永代経法要に参拝した旨報告がありました

 2.2019年度活動計画、予算
  今年度の活動として、10月に予定されている団体参拝の参加者にお配りする「しおり」を作ることが提案されて、分担して作成することになりました。団体参拝参加者に晨朝のお勤めについての説明や、本山、大谷本廟についての情報、その他訪問先についての情報をお伝えする案内となるものです。大変良いアイディアだと思いました。
  私もその「しおり」の一部になる「長島一向一揆・長島願証寺」(参拝の後の3日目に訪問を予定しています)について記事を作成することになりました。

〇広報班
 1.ホームページ
  3月31日までの2018年度アクセス解析として、訪問者数2,392、ページビュー6,699だったという報告が行われました。今後、ツイッターやYouTubeといった情報発信の方法についても情報収集し活用について検討することになりました。

 2.組報「ご縁だより」第3号
  10月1日発行予定で準備を進めることになり、担当を確認しました

〇キッズサンガ
 宇部北組の子供会行事として9月23日に宝林寺さんを会場に開催されます。
 春に実施しました「花フェス2019」は、ご門徒さん以外も含め幅広い年代の方に参加していただく行事として開催しましたが、キッズサンガは小学生を中心にした子供さんを対象にしてお寺で実施し、お寺に親しんでもらうきっかけにしたいと考えて実施される行事です。
 当日は計画の概要の報告があり、担当などを確認しました。ボッチャというスポーツを楽しむ計画になっていて、これは楽しみです。

(写真は、7月11日の朝の境内の様子です)

 濃い霧が立ち込めていました。今年は梅雨に入っても雨が少なく、夏法座の日は晴天となり喜んだのですが、稲が心配だというお話しをお聞きしました。10日の夜まとまった雨になりましたが、少しは回復しましたでしょうか。

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552.夏法座をお勤めしました

20190707夏法座集合写真

 昨日7月7日、ご講師に中山和泉師をお迎えして夏法座をお勤めしました。梅雨に入っていましたが、快晴の天候に恵まれました。

 ご講師はお話しの中で、『教行信証』の総序の最初の次の御文を紹介されました。
「ひそかにおもんみれば、難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度(ど)する大船(だいせん)、無礙(むげ)の光明は闇(あん)を破(は)する恵日(えにち)なり」
(わたしなりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである)

 ご講師は、その後で、お母さんが外から帰ってきた子供さんに残された次のような書置きを紹介されました。当時はイモがおやつだったのでしょう。
 「おかえり、かあさんははたけにいます、(そこにある)イモをたべたらはたけにおいで」

 外から帰ってきた子供さんは、この書置きを読んでほっとした気持ちになったことと思います。子供さんは一人で外に行っていたのでしょうから、不安や寂しさがあったでしょう。帰ったらお母さんに会える、と駆けるようにして自宅に向かう姿が思い浮かびます。でもお母さんは自宅にはいませんでした。その代わりにこの書置きがありました。
 そこにはいないけれど、お母さんは自分のことを気にかけていてくれる、自分のことだけを思っていてくれる、そして自分のことを畑で待っていてくれる・・・・ひょっとしたら、家にお母さんがいたのよりもずっとお母さんが自分のことを大切に思っていてくれると感じたかもしれません。

 親鸞聖人が『歎異抄』に記されたお言葉、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」
(阿弥陀仏が五劫もの長い間思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞一人をお救いくださるためであった)
 も思い浮かびました。

 このお母さんが子供さんのことを思うように、阿弥陀さまも私一人を大切に見護り、見捨てることはない、とお誓いいただいたのだと、お聞かせいただきました。しかし、その私の方はというとどうでしょう。この子供さんがお母さんのことをいつも慕っているほどに阿弥陀さまのことをお慕いしているのだろうか、ともう一度振り返させられる思いがしました。
 
 午後には、7名の方と一緒に勉強会を持つことができました。
 当日はお斎がありませんでしたので、お握りを準備し井上愛子さんが作られたお漬物と一緒にいただきました。そのお握りのお米がおいしいくて、一同「これはうまい」から始まり、「どこの米がうまい」「うまいコメの見分け方」などと話が盛り上がり、キュウリやダイコンのお漬物と一緒においしくいただきました。
 それから、これも井上さんから差し入れしていただいた、吉部の伝統のお菓子「竿まんじゅう」も一緒に味わいました。以前もご紹介しましたように、この「竿まんじゅう」は「おいでませ吉部」で製造販売されている郷土のお菓子で、現在は毎月第一日曜日だけ販売されているそうです。ちょうど、当日がその販売日に当たったことになります。

 その勉強会は、今回から『仏説阿弥陀経』についてご一緒に学ぶことにしました。
 当日は、「お経とは?」「お経はどのようにして伝わった?」に続き、『仏説阿弥陀経』の概要について学び、最初の「如是我聞」の部分を学ぶことができました。

 勉強会の最後に皆さんにお願いをしたのですが、この勉強会を通じて、お経についての知識をつけるのではなく、お釈迦さまが私たちに伝えたいと説かれたことをお経から直接に聞かせていただきたいと思っております。

    20190708スモークツリー1     20190708タラヨウ1
 上の写真左は当日の阿弥陀さまの前のお花です。岩崎勉さんからスモークツリーとニシキギをご寄贈いただきました。有難うございました。
 右は勉強会で皆さんにご紹介したタラヨウ(多羅葉)の葉です。モチノキ科の植物で、先端が尖ったものを使って写真のように葉の裏に字を書くことができます。紙が貴重品だった時代には紙の代わりに使われたそうです。以前にもこのブログでご紹介ましたようにインドでお経を記した貝多羅葉(ばいたらよう)というヤシ科の植物があるのですが、用途がそれに似ているところからタラヨウという名前になり、「葉書」の語源だとされています。そんなところから別名は「郵便局の木」、小野の郵便局に植えてあった木から葉を3枚いただいてきました。

(写真は、恒例の集合写真です)

 好天のもと、明るい向拝で撮影することができました。

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551.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (32):下巻第一段(5)

20190705下巻第一段専修寺本20190705下巻第一段専修寺本1

 御絵伝の下巻第一段の5回目、最後の部分となります。『御伝鈔』の御文と訳文です。

 皇帝[諱守成、佐渡院と号す]聖代、建暦辛未歳、子月中旬第七日、岡崎中納言範光卿をもつて勅免。このとき聖人右のごとく禿の字を書きて奏聞したまふに、陛下叡感をくだし、侍臣おほきに褒美す。勅免ありといへども、かしこに化を施さんがために、なほしばらく在国したまひけり。

 そののち順徳天皇(諱は守成、号は佐渡院)の建暦元年(1211年)11月17日に、岡崎中納言範光よりご赦免の勅令が下りました。このとき聖人が右のように禿の字を姓として天皇に奏上されたところ、天皇は感嘆せられ、お側につかえる臣下たちもたいへんほめたたえた、といいます。そして赦免ののちも、その地の人びとを教化するために、なおしばらくの間そのまま越後にとどまっておられました。

 承元元年(1207年)朝廷の弾圧により、法然聖人のお弟子さんたちは死罪や流罪に処せられました。その後、建暦元年(1211年)朝廷は赦免の勅令を発し、法然上人は都に戻られます。当時も後鳥羽上皇が権勢を振るっていた時代ですので、この勅免も上皇の了解のもとに行われたものと考えられます。
 法然上人は都に戻られたのですが、その2か月後に80歳でお亡くなりになります。

 親鸞聖人も同時に赦免を受けられたのですが、今回の『御伝鈔』に記されていますように、越後に残られ都にはお帰りになられなかったようです。その理由として、平松令三氏は次のような点を挙げておられます。

 第一に法然上人がお亡くなりになったことです。親鸞聖人は法然聖人を敬い、慕っておられました。もう一度お会いしたいという思いを強く持っておられたことと思われますが、その師の示寂を知られて、親鸞聖人の中で京都に戻る意味が薄れていったのではないかとされています。
 また、法然聖人が在京の頃「自分の歿後に門弟たちが一か所の集まることがないように」とされていたことも親鸞聖人の判断の背景にあるのではないかとされています。門弟が集まると、どうしても内部に争いが生じること、また集団心理から過激な行動に走るものがあらわれそれが弾圧の原因となること、などを危惧されたものだとされています。
 さらには、1211年の3月に、親鸞聖人と恵信尼公の間に息男の信蓮房が誕生されています。乳飲み子を抱えて長旅をすることを避けるということもあって、直ちに行動を起こされなかったのではないかとされています。

 そのような背景もあって越後にとどまられた親鸞聖人ですが、聖人の越後時代の生活の様子を伝える資料はほとんど伝わっていないようです。お弟子さんの記録で越後時代のものとされるのは一人だけだということで、越後での教化の活動の様子もよく分からないのだそうです。

(図は、専修寺本の伝絵に描かれた越後の庵室です。)

 「越後国府の御下著の御庵室也」と記されています。

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