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538.ご門徒さん紹介(10):篠原光徳さん

20190520しのはらゴフク  20190520しのはらゴフク4

 今回のご門徒さん紹介は、篠原光徳さんです。

 「Jチャンやまぐち」という番組をご存知でしょうか。YAB(山口朝日放送)が月曜日~金曜日の18:15から放送しているニュースを中心とした番組です。その中に毎週水曜日「通りへいこう」というコーナーがあって、県内のあちらこちらの通りをぶらりと散策して、紹介するコーナーになっています。
 私はこのコーナーの(実はレポーターの津山奈穂子さんの)ファンで毎週見ているのですが、4月17日に放映された画面に篠原さんの姿が映ってびっくりしました。その回は下関市長府の「長府商店街」を訪問する回になっていて、篠原さんの店が紹介されたのです。

 「長府商店街」は長府の「忌の宮神社」前の通り(中浜通り)の商店街で、篠原さんは神社に上がる石段の正面で「しのはらゴフク」という店をやっておられます。「しのはらゴフク」は、光徳さんの祖父に当たる一弌(かずいち)さんが、生地の芦河内から出られて、商いを学ばれた後それまであった「伊藤呉服店」というお店を経営されたことから始まっています。
 この「伊藤呉服店」は古い歴史を持つ大きな店で、現在も敷地内に明治元年に作られたという立派な土蔵があります。広さは20坪以上ある大きなもので、昭和22年に発生した長府大火災にも耐え、周辺では唯一焼失を免れたものだということです。

 篠原さんは約30年前にそれまで勤めていた愛知県の流通部門の会社を辞められて長府に戻り、店の経営に携わることになりました。呉服店の商いが将来縮小することを予想し、呉服店をやめ店の経営方法を変えてこられました。

 現在の店は「40~80歳の年配の女性にターゲットを絞った」と篠原さんが言われるように、女性向けのそれも中高年女性を念頭に置いた商品構成になっているようです。
 大型の衣料販売店では、中高年女性向けの商品は「店が暗くなる」という理由で置かれにくいのだそうです。一方、購買する中高年女性から見ると大手の店は大きすぎて自分が欲しいものがどこに置いてあるのか分からない、尋ねようと思っても店員がいない、といった不満があるのだそうです。そのような実情から「しのはらゴフク」のコンセプトができているようです。
 お客さんの必要に応じて、熟年女性のコート、アウターからインナーまで、帽子から靴下、ソックスまで、更には女性向けの介護用衣料品まで揃っていました。ここにくれば手近に必要なものが手に入るという感じです。
 また、そのようないわば日常衣料品とは別に、「エスニック」と言っておられましたが、東南アジアの雰囲気をもった衣料品、あるいは日本で企画されインドで作られた製品など特徴のある品揃えもありました。このような製品を揃えている店は余りないそうで、固定したファンがおられるということでした。

 「しのはらゴフク」のチラシもユニークなものです。
 以前長府にいる友人から、「こんなのが入っていた」と教えてもらった店のチラシには、暖冬の影響で冬物の販売が前代未聞の不調で春物仕入れ資金にと(と内情を明かして)、「婦人服冬物を只々半額」「大損害の売り出しですが結構明るい”しのはら”です♥」とピンクの紙のチラシにありました。定期的に届けられるピンクの「しのはらゴフク」の広告は、お客さんからも楽しみにされているようです。

 そのテレビの取材の様子をお聞きして驚いたのですが、「いまから取材をしたいけどいいか?」と取材の直前に依頼があったのだそうで、事前に余裕をもって取材依頼があるというのではなく、文字通りのぶっつけ本番だったようです。
 で、レポーターの津山奈穂子さんですが、テレビの画面で見られる通り、明るく、元気な女性で、ユーモアあふれるやりとりだったということでした。それと、テレビで取材されたことで多くの人から「テレビを見たよ」という連絡があり、その反響の大きさには驚いたとも言っておられました。

 店の名前を「しのはらゴフク」とされたのは、「呉服」ではなく「互福」を目指したいという思いがあるからだと仰っておられます。城下町長府を散策されるときには、是非「しのはらゴフク」さんと「長府商店街」も訪ねてみてください。

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 上の写真、左は人気の「ピンクのチラシ」、中は土蔵の内部(りっぱな梁と厚い壁を持っています)です。右は津山リポーターの取材を受ける篠原さんです(写真は、番組のHPからお借りしています)。

(最初の写真左は、篠原さんと店内の様子。右は昭和4年当時の店の写真です)

 昭和4年に現在地に移転されたときの写真で、左から二人目が一弌さんだそうです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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537.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (29):下巻第一段

20190517下巻第一段自坊s

 今回から「御絵伝」は下巻に入ります。下巻の第一段は、4幅の「御絵伝」では、第3幅の下の4つの絵がそれに該当します。
 『御伝鈔』の書き出しの部分と訳文を記します。

 「浄土宗興行(こうぎょう)によりて、聖道門廃退(はいたい)す。これ空師(源空)の所為(しょい)なりとて、たちまちに罪科(ざいか)せらるべきよし、南北の碩才(せきさい)憤(いきどお)りまうしけり。」

 「浄土教の宗旨が盛んになったために、聖道門の教えがすたれてきました。そこで奈良や比叡山の学僧たちが、これは法然聖人のせいだと怒って、すみやかに処罰するべきだと訴えました。」


 「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えるだけでお浄土に往生できる、今の世の中ではそれ以外に往生できる道はない、と説かれた法然聖人の教えはそれまでの仏教の教えとは全く違ったものでした。それまでの仏教では、厳しい修行を修めることで初めて煩悩を脱し、さとりを得ることができるとされていました。しかしそれは、末法の世に不安を抱える多くの人びとには救いを与えるものではあり得ませんでした。
 そのような中で、念仏一つで救われると説かれた法然聖人の教えは、多くの人びとに広く受け入れられるものでした。しかし、そのように多くの人びとに受け入れられ急速に広まったことは、一方では旧来の仏教界から猛烈な反発を受ける原因となるものでもありました。
 また、法然聖人の門弟の中にも他の宗旨はみな間違いだと声高に非難するものや、阿弥陀さまが救ってくださるのだから何をしても構わないと悪行を働くものもあって、それが在来の仏教界を刺激したという側面もあったようです。

 そのようなことが背景となって、在来仏教から法然聖人に対して非難、攻撃が発せられました。
 元久元年(1204年)には、比叡山延暦寺からの非難に対して、法然聖人は門弟の中には逸脱した者がいることを認めて、その門弟に対して厳しく指導する旨の誓約書を比叡山に送られるということがありました。併せて、門弟たちを集めて今後は誤解を招くような言動を慎むようにいましめた「七箇条制誡(しちかじょうせいかい)」を示され、全員の署名を求められました。門弟190人がその署名をされたと伝えられていますが、親鸞聖人も「僧綽空(しゃくくう)」とその87番目に署名されています。
 親鸞聖人は32歳、法然聖人の門下に入られてから3年、『選択集』の書写の許可を受けられる前年のことでした。

 法然聖人はこのように問題を大きくしないように努力されたのですが、事態は容易に収まりませんでした。翌元久2年(1205年)に、今度は奈良の興福寺が先頭に立ち南都六宗と真言、天台を加えた八宗が朝廷に対して専修念仏の禁止を求め、その実施を執拗に迫りました。
 この在来仏教界からの訴えに対して、当初朝廷は中立的な立場をとり、法然聖人を糾弾するような動きを見せませんでした。それは、朝廷の重役の中にも九条兼実公のように法然聖人の教えに帰依する人や法然聖人に対する理解者もあり、朝廷を含めた三者の間に入って妥協点を求める動きがあったからだとされています。

(図は、自坊の「御絵伝」下巻第一段の4図のうちの2図です。)

 この4つの図は、「御絵伝」の中でも大きなスペースを占めています。このことは、この段、「師資遷謫(ししせんちゃく)」の段が親鸞聖人のご生涯でも特に重要な意味をもつことを示すものだと思います。

 下の図は、念仏が禁止された頃を描いたものとされています。
 中央下には念仏禁止を申し出る公卿が描かれ、左部分では検非違使(けびいし:当時の市中警護の警察官)の長が公卿から念仏禁止の指示を受けているところ、上右部分では検非違使に追われて逃げようとしている2人の人物が描かれています。そのうちの一人は僧侶のようです。

 上の図は、御所の中で6人の公卿が念仏停止の訴えについて評定(ひょうじょう)を行っている所です。描かれている御簾(みす)の中には天皇がおられるのですが、その姿は描かないというのが当時の約束事だったようです。
 画面左端に竹が描かれていますが、それはこの評定が御所の中央の仁寿殿(じんじゅでん)と呼ばれる建物で行われたことを示していると言われています。

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536.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (28):上巻第八段(3)

20190513第八段西本願寺本s  20190513鏡御影

 「御絵伝」の第八段の3回目となります。『御伝鈔』の御文と訳文です。

 「つらつらこの奇瑞(きずい)をおもふに、聖人(親鸞)、弥陀如来の来現(らいげん)といふこと炳焉(へいえん)なり。しかればすなはち、弘通(ぐずう)したまふ教行、おそらくは弥陀の直説(じきせつ)といひつべし。あきらかに無漏(むろ)の慧灯(えとう)をかかげて、とほく濁世(じょくせ)の迷闇(めいあん)を晴らし、あまねく甘露の法雨をそそぎて、はるかに枯渇の凡惑(ぼんわく)を潤(うるお)さんがためなりと。仰(あお)ぐべし、信ずべし。 」

 「つくづくとこの不思議なできごとを考えてみますと、親鸞聖人が阿弥陀如来の化身(けしん)であることはもう明らかです。ですから、聖人が弘められた教えは、阿弥陀如来の直接のお説法と言うことができましょう。濁り汚れのない智慧の灯火(ともしび)をはっきりとかかげて、欲望に汚染されたこの世の暗闇を遠いところまで照らし、すべての人びとの上に甘露のような法の雨を降りそそぎ、涸れ果てて死にそうになった凡夫に潤いを与えるものです。聖人の教えを仰ぎ信じましょう。」


 「伝絵」の制作者である覚如上人は、今回の部分で、これまでの出来事から親鸞聖人が阿弥陀如来の化身だということは間違いないことだとされ、聖人のみ教えを仰ぎ信じようと呼びかけられます。
 この第八段で「御絵伝」の上巻(ニ幅)は終わりとなります。

 3回にわたって学んできました「入西鑑察」の段ですが、この段については興味深いことが伝えられています。

 その一つは、伝えられている「伝絵」にはこの「入西鑑察」の段が入っているものと入っていないものがあるということです。
 前回掲載しましたように西本願寺本にはこの「入西鑑察の段」が入っているのですが、高田派専修寺に伝えられている専修寺本にはこの段が入っていないのだそうです。
 このことにより元々入っていなかった専修寺本の成立が古く西本願寺本はその後でこの段が追加されたのだ、という説や、専修寺本にもこの段が入っていたが、何らかの理由で除かれたとする説などがあるということです。

 また、その西本願寺本に入っているこの段は、覚如上人が最初に制作された「伝絵」では入っておらず、後から追加されたものだとされているようです。
 それは、今回載せました図で見えるように、前の「信心諍論」の段の絵の終わりの部分、上部の霞が尾を引いているところから次の詞書がもう始まっていることで示されているとされます。他の部分ではこのようなことはなくて、このことにより西本願寺本の「入西鑑察」の段は後で追加されたというのが定説になっているということです。
 「伝絵」全体の流れを見てみますと、西本願寺本はこれまでは時代の推移に従って記述されていました。しかし、ここでは親鸞聖人70歳の出来事である「入西鑑察」の段が突然に加えられているということになります。なぜこの場所に挿入されたのか、ということについては諸説があって、まだ定まっていないようです。

 さらに、この時に描かれた聖人の肖像はどのようなものだったのか、ということも論議されているということです。といいますのは、この段に記されたような聖人のお顔だけを描いた肖像は現在まで見つかっていないからです。
 このことについて、平松令三氏は西本願寺本の詞書の定禅法橋の夢について、次のような記述(『御伝鈔』ではこの部分は省かれています)があることを指摘しておられます。
 「定禅問云、如何可奉写、本願御房答云、顔ばかりを可写、ことごとくは予可染筆也、と云々」
 (定禅がどのように描きましょうかと問うたところ、本願御房は顔だけを描いてもらいたい、あとは自分が描くから、と言われた)
 このことから、平松氏は、この時聖人のお姿を描いた肖像と、本願寺に伝わる親鸞聖人の肖像画「鏡御影(かがみのごえい)」とが関連があるのではないか、という説もあったと紹介されています。
 この「鏡御影」は肖像画として大変優れたものと評価され国宝に指定されています。聖人のお顔の部分は繊細に描かれているのですが、着衣などは素描風の違ったタッチで描かれていて、別の人が描いたのではないかとされています。そんなことからこの「鏡御影」が第八段の聖人の肖像画だとする説もあったとされています。ただ、同じ覚如上人の自筆で、この「鏡御影」は似絵画家の専阿弥陀仏という人が描いた像だとされていることもあって、これもまだ定まっていないようです。

 覚如上人が最初に「伝絵」を制作されたのは、親鸞聖人が亡くなられてから33年後の1295年のことだったとされます。その後上人は「伝絵」に改定を加えられ、1343年(最初の「伝絵」制作から48年が経過しています)に制作された「伝絵」がいわば最終版として、現在私たちが見ることのできる『御絵伝』の姿となったとされています。
 「伝絵」を拝見していますと、上記のような議論を含めてその成り立ちや由来に興味が移ってしまいがちですが、覚如上人が「伝絵」を制作され、様々な改定を加えられましたのは、専ら親鸞聖人のみ教えとご遺徳とを広く伝え、本願寺の由来について知らせたいと願われたことによります。このようなご苦労のおかげで、親鸞聖人のご生涯が『御絵伝』、『御伝鈔』の形となって現在の私たちに届けられていることを思い起したいと思います。

(図の左は「伝絵」本願寺本、右は「鏡御影」です)

 「伝絵」は「信心諍論」の段の末尾とそれに続く「入西鑑察」の段の詞書が始まる部分で、「入西鑑察」の部分が後で追加されたとされる部分です。

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535.ご紹介します(19):「城の崎にて」

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 今回ご紹介しますのは、「城の崎にて」という志賀直哉氏の短編小説です。

 最初にそのあらすじをご紹介します。
 主人公(文中では「自分」と称しています)は、東京の山手線の電車にはねられるという事故に遭って負傷し、その養生のために城崎温泉の宿に逗留しています。

 その「自分」は3つの生き物に出合います。
 最初は、屋根の上で死んでいる蜂でした。他の蜂が忙しそうに動きまわっているなかで1匹だけが静かに横たわっていましたが、雨が降った次の日の朝にはもうその姿が消えています。
 その後しばらくして、川で鼠に出合います。その鼠は首に魚串を刺された格好で、それに子供や大人が面白がって石を投げているところに行き合わせました。鼠は岸の穴に逃れようとするのですが、串が邪魔してうまく行かない、そのような光景を見ることになりました。
 ついで、偶然に川で蠑螈(イモリ)を見つけます。そのイモリを驚かせてやろうと石を投げるのですが、狙っていたのでもないのにその石がイモリに当たって、イモリは死にます。

 「自分」は蜂の死骸を見て「冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。然し、それは如何にも静かだった。」と感じます。逃げ回る鼠を見て、「自分は淋しい嫌な気持ちになった。あれが本統なのだと思った。自分が希ってゐる静かさの前に、ああいふ苦しみのある事は恐ろしい事だと思った。」そして、イモリについては「可哀想に想ふと同時に、生き物の淋しさを一緒に感じた。自分は偶然に死ななかった。蠑螈は偶然に死んだ。」そして、死んだ蜂と逃げ回っていた鼠の現在の姿を思い、「死ななかった自分は今かうして歩いている。さう思った。自分はそれに対し、感謝しなければ済まぬやうな気もした。然し実際喜びの感じは湧き上がっては来なかった。生きて居る事と死んで了ってゐる事と、それは両極ではなかった。それ程に差はないやうな気がした。」

 最初に志賀直哉氏と五木寛之氏、それに宇多田ヒカルさんの写真を載せましたが、この三人はこの「城の崎にて」をキーワードのようにしてつながっています。
 「文芸春秋」の今年4月号に「平成31年を作った31人」という特集記事がありました。今回の改元に因んだ記事で、平成の31年の各年を代表する31人を取り上げたたものです。その平成10年(1998年)を代表する人として宇多田ヒカルさんが取り上げられていて、五木寛之氏が「衝撃の歌手デビュー 母娘三代『ミディアム』の血脈」という題で記事を書いていました。

 宇多田ヒカルさんは演歌歌手の藤圭子さんの娘さんで、平成10年に15歳でデビューし、その後ヒット曲を続けて一気に音楽界のトップに駆け上がったひとです。(ですが、今もそうなのですが、当時の私には藤圭子さんの娘さんというイメージが強くヒカルさん本人のことは余り知らないので、私が彼女のことを紹介するのはおかしいのですが)
 五木氏が今回の記事の中で注目していたのは、同じ「文芸春秋」の2000年(平成12年)1月号に掲載されたヒカルさんとダニエル・キイス氏という世界的な作家との対談を載せた「もうひとりの私」という記事です。ダニエル・キイス氏は当時72歳、一方のヒカルさんはまだ16歳という対談でしたが、「彼女はまったく怖気づくことなく、次のような言葉に、むしろ五分以上に渡り合っている印象を受けた」と五木氏は記しています。

 図書館で(近隣の市立図書館ではバックナンバーは保管されていなかったのですが、山口の県立図書館で閲覧することができました)、2000年1月号の「文芸春秋」を読んでみたのですが、ヒカルさんはその対談で次のように言っています。
 「日本の作家で、志賀直哉という人がいて、「城の崎にて」という小説を書いたの。列車事故で死にそうになった人がリハビリのために静かな温泉に行き、そこで死が人生に一番近いものであり、いつもそばに居るものだと気づくの。紙のようなもので、紙の両面が生と死を示している。それを読んで、私は恐ろしかった。結局、死とは未知のもの。でも生と死はすごく近い存在だから、若者は魅了されて、探りたいと思うのだろう、と」

 この16歳のヒカルさんの言葉を読んで、衝撃を受けました。
 私も「城の崎にて」を読んだことがあります。20歳よりも前、ヒカルさんの年齢よりは後だったように思うのですが、読んだときの印象は「なにか暗い話だなあ・・」といったものだったような気がします。その印象が志賀直哉氏に対する印象にもなってしまったような記憶があります。
 いわんや、ヒカルさんのように生と死の関わり、それが紙の両面のようなもの、すごく近い存在、などということは全く思い浮かべなかったように思います。しかし、ヒカルさんはこの小説を読んで、生と死は日常的に近くにあり、紙の裏表のようなものだと思った、と言っています。

 事実、この小説は志賀直哉氏が、実際に山手線の電車にはねられ重傷を負った後、城崎温泉で療養したという体験をもとに書いたもので、生と死についての思いをつづった簡素で無駄のない名文とされています。
 今、読み返してみますと、志賀直哉氏の思いは、蜂、鼠、イモリと少しずつ深く、重く沈んでいっていることが感じられます。しかし、その頃の私は、小説なら海外の小説、音楽はポピュラー音楽、映画は洋画といった「チャラい若者」で、そのような沈潜していく思いなどは読み飛ばしてしまっていたようです。

 今回「城の崎にて」を再読し、味わいなおすことができました。生と死の問題も、当時とは違って深いところで受け止めることができるように思います。
 いささか遅きに失したきらいがありますが、宇多田ヒカルさんというアーティストを見なおしました。そして、藤圭子さんの娘さんとしてではなく、ご本人の音楽を聴いてみようと思いました。

(最初の写真3枚は、ネットから探してきました。)

 いい表情だなあ、と思われるような写真に出合うことができました。

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534.降誕会をお勤めしました

20190506降誕会

 5月3日、ご講師に林正文師をお迎えして降誕会の法要をお勤めしました。
 当日は爽やかな快晴に恵まれご法話をお聞きすることができました。

 ご講師は、ご法話の中でお釈迦さまと一人の女性のお話をされました。
 幼い我が子を亡くし悲嘆にくれている女性がいました。彼女は、お釈迦さまの許に行って、我が子を取り返したい、そのためには何でもします、と訴えます。
 お釈迦さまはその女性に対して、そんなことはできないことだとは言われませんでした。そのかわりに、「あなたの悲しみはよく分かる。子どもを取り返したいのならば、これから町に行ってこれまでに家族が亡くなったという経験をしたことがない家を見つけてその家からケシの実をもらってきなさい、そうしたら子供さんを取り戻せるようにしよう」と言われたのだそうです。
 母親は、我が子を取り戻したい一心でたくさんの家を訪ねて回ります。しかし、どの家も家族を亡くした経験を持っていました。女性と同じように子供を亡くした家もありました。そうして、女性は最後に、人は必ず命の終わりを迎えるものだということに気づき、それ以後お釈迦さまの教えに耳を傾けるようになったというお話しでした。

 私たちは、今持っているものが永遠に続くものであって欲しい、いつまでも手の中に持っていたい、と願います。私たちの命には生、老、病、死の苦しみがあり、あらゆるものはいつかは失われ消えていくものなのですが、それに執着し捉われるのが私たちの姿です。子どもは「不老長寿は望まないけれど」子どもなりの願望を持ち、その後も私たちは死の瞬間に至るまで、あれが欲しいこれが欲しい、あの人は好きだこの人は嫌いだ、死ぬのはいやだいつまでも生きていたい、と果てしない欲望を持ち、それを得ることができずに苦しみ、また手に入れば入ったでそれを失いたくないと苦しみ、煩悩と苦しみに満ちた命を生きます。
 お釈迦さまは、そのような苦しみに囚われた私たちの姿を示されました。親鸞聖人は、阿弥陀さまはそのような私たちを悲しみ哀れんで、一人残さず間違いなく救い摂ると誓われたと教えていただきました。

 今回初めて知ったのですが、親鸞聖人のご誕生をお祝いする降誕会が勤められたのは割合に新しいのだそうです。私は、もっと昔からお勤めされていたものだと思い込んでいましたが、最初に勤められたのは明治9年だったのだそうです。

 今回の降誕会でも多くの方にお世話になりました。
 仏教婦人会の伊佐地区の皆さんには、おときの準備から給仕、後片付けまでをお願いしました。また総代の皆さんには、受付に加えて餅まきの準備と実施をお願いしました。
 おかげさまで、充実したひと時を持つことができました。ありがとうございました。

 また、昼食の後には勉強会を実施し、11名の方とご一緒にお正信偈の「念仏・和讃」について学ぶことができました。この勉強会は5年前の秋法座から始まって14回目になりますが、これでお正信偈が終わりました。

 写真左は、おときのお世話をいただいた、左から仏教婦人会の岩崎清美さん、木村茂子さん、会長の井上愛子さん、石川ハルミさん、杉山博子さん、監査の志賀信子さんです。
 右は、受付をお願いした総代会三役の井上啓志さん、吉屋博志さん、岩﨑明さんです。

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 次の写真左は餅まきの準備、右は餅まきの様子です。総代さんのご協力をいただきました。

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