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580.最近の話題(35):草引きの新兵器です

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 報恩講に向けて、少しずつ境内の草引きを行っています。
 雨が降って少し湿り気のあるくらいが一番草引きに適しているのですが、なかなか思い通りに行かないものです。

 その草引きの道具に新兵器がありました。先日ご門徒さんの杉山昭彦さんご夫妻が来られて、これがいいですよ、と勧められていただいたものです。

 写真に新旧3代にわたる草引き道具(なんという名前なのでしょうか?)を並べてみました。

 一番左は、私がこちらに帰ってきた頃に使っていたものです。新品のときには多分先端に切れ込みがあったものと思われますが、使いこんでその切れ込みもすり減ったようになっています。この切れ込みを使って深いところまで掘り込むことができるのですが、その場合、この道具の少し曲がった所はテコの支点(?)としては不十分で、石などを差し込んでテコとして掘り起こしていました。そのためには、そのたびに石を差し込むという作業が必要になります。

 その点、中の第2世代は、その支点になるところが半円の金属の形で取り付けられているという優れものでした。この半円の部分をテコの支点にして地中の根を掘り起こすのです。写真に写っているのはこの方式のなかでも2代目で、最初の分は中心の軸の部分が細くて、力を入れて掘り起こそうとしたらポキッと折れてしまったのです。それでもう少し頑丈な2代目を使っていました。

 それから、今度いただいた3世代目です。その特徴は、先端部分が鋭くとがっていて直角に曲がった形状と、先端部分につけられたのこぎりのような歯です。使ってみるとこれが実に有効なのです。
 尖った先端部分で深く掘り込みができますし、のこぎり状の部分で根を切断することができ、直角近くに曲がったところで、第2世代のテコの支点の役割を果たしてくれるのです。
 草引きというのは1本の草を根から引くという機能と同時に、少し広い範囲の草を浅く引くという両方の機能が必要に思われます。この3代目はこの先端部分を傾けると広い範囲の草を引くということも可能で、両方の要請に応えてくれるのです。

 同じ草引き機能でも色々な工夫がされているものだと、感心しながら使っております。

(写真左は、草引きの道具です。右はこの時期境内でもよく見かけるミゾカクシの花です。)

 ミゾカクシは漢字では「溝隠」と書きます。溝全体を覆うほど茂るところから命名されたそうですが、片側半分に花弁を持つ独特の花を持った華麗な植物です。キキョウ科の植物で、漢方薬の材料としても利用されているということです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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579.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (37):下巻補(1)

20191011信巻序   20191011本典

 しばらく間が空きましたが、「御絵伝」に戻ってきました。

 聖人が越後から移られて関東におられたのは約20年になりますが、その間の出来事として『御絵伝』に取り上げられたのは、すでに見ました下巻第二段(稲田興法の段)と第三段(弁円済度の段)の2件のみです。今回は「御絵伝に見る」というタイトルですが、親鸞聖人が関東におられた頃の出来事で『御伝鈔』や『御絵伝』には取り上げられていないことについて学びたいと思います。

 その最初は、『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の著述に関することです。
 『教行信証』は『広文類』とも呼ばれ、また浄土真宗の最も大切な聖典として『ご本典』ともお呼びしている親鸞聖人の主要な著書です。本書は6巻からなっていて、その中で聖人は仏典を始め多くの典籍を引用されて浄土真宗の教義体系を明らかにされています。原文は漢文で書かれていますが、延べ書きとして収録されている『浄土真宗聖典(註釈版)』では340ページを超える大部の著書です。

 この『教行信証』がいつ頃どのような目的で著述されたのだろうか、と古くから議論がなされており、多くの説が出されたようです。

 まず、著述の時期です。 

 このブログでもお知らせしておりますように、浄土真宗本願寺派では『教行信証』は元仁元年(1224年)に最初の草稿が完成したとされ、この元仁元年を浄土真宗の開宗の年として、2023年に「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年」を慶讃して法要がお勤めになります。
 元仁元年といいますと、聖人は52歳、建暦3年(1214年)越後国から常陸国に移られてから約10年になります。また、聖人は寛喜4年(1233年)には京へ戻られていたとされていますので、帰洛の約10年前の時期になります。
 この元仁元年が『教行信証』の草稿本成立の年とされているのは、『教行信証』の「化身土巻」の中で末法の年代を算定する基礎として「わが元仁元年」という記述があることによります。

 この『教行信証』の「草稿」に当たる本はまだ見つかっていないのだそうですが、聖人ご真筆の「坂東本」が東本願寺に伝えられています。この「坂東本」は、聖人がお書きになった草稿を聖人ご自身が書き写されたもので、国宝に指定されています。
 この「坂東本」を研究された赤松俊秀氏(「坂東本」の解装修理に携わられた人です)によりますと、「坂東本」は文暦元年(1234年)頃(聖人が京都に戻られた頃)に元の草稿本から書写されたものだとされています。赤松氏は、上記の「元仁元年」の記述が元の草稿本にもあったかどうか確かでなく草稿本の完成時期とは関連がないとされていますが、草稿本は元仁元年までには完成しており、その後聖人はこの「板東本」に対して何度も多くの追加や修正を加えられたとされています。
 
 一方、聖人は京都に帰られてから『教行信証』の著述をされたとする説も主張されていました。
 本願寺第3代宗主覚如上人のご長男存覚上人は、『六要鈔』という『教行信証』の注釈書(最初の注釈書とされています)の中で、『教行信証』について「此の書、大概類聚の後、上人いくばくならずして帰寂の間、再治に及ばず」と記されているそうです。つまり親鸞聖人は『教行信証』を書き上げて間もなくお亡くなりになった、とされているわけですが、このことが『教行信証』は聖人が京都に戻られてから著されたとされる根拠となったようです。
 その他、様々な論拠から親鸞聖人は帰洛の後に『教行信証』を著されたとする論が主張されていて、聖人は『教行信証』を書くために京都に戻られたのだという説もあったようです。

 さらには、越後に配流されている頃から著述を開始されたのだという説も唱えられていて、聖人が越後国から常陸国に移られたのは、『教行信証』を書くためだとする論もあったようです。

 いずれにしても、『教行信証』は一度で完成されたものでなく、最初の「草稿」が出来上がった後にも何度も手を加えられ、存覚上人が言われたようにまだその途上にあったのかもしれません。聖人は『教行信証』の構想を越後国の時代から懐いておられ、「草稿」は常陸国時代に成立し、その後の帰洛後も何度も手を入れられた、と見ることも可能なのかもしれません。

 次いで、聖人が『教行信証』を著された理由です。

 聖人は『教行信証』の総序(最初の置かれた全体の序)で次のように記されています。
 「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。」
 (ここに愚禿釈の親鸞は、よろこばしいことに、インド・西域の聖典、中国・日本の祖師方の解釈に、遇いがたいのに今遇うことができ、聞きがたいのにすでに聞くことができた。そしてこの真実の教・行・証の法を心から信じ、如来の恩徳の深いことを明らかに知った。そこで、聞かせていただいたところをよろこび、得させていただいたところをたたえるのである。)
 また本書の最後の部分で、親鸞聖人は法然聖人との出遭いや法然上人から『選択集』の書写を許されたことなどを感激をもって記されています。

 このように、親鸞聖人は、法然聖人はじめインド、中国そして日本の祖師方のおかげで、阿弥陀さまのお救いの力を説かれるお釈迦さまの尊い教えに遭うことができた、とその喜びを記されていて、『教行信証』は親鸞聖人がご自身の喜びを記され、ご自身の信を確認された書だといえます。

 一方、当時の時代を見ますと、承久3年(1221年)後鳥羽上皇(「承元の法難」により浄土教を弾圧した人でした)が幕府に対して起した乱は失敗に帰し、上皇は隠岐に流され以後朝廷は幕府の支配のもとに入ることになります。
 貞応3年(1224年)(元仁元年と同じ年です)には、延暦寺衆徒の訴えにより専修念仏停止の宣旨が出され、3年後の嘉禄の法難につながります。それは鎌倉幕府の意向もうけて関東の念仏者にたいする圧迫にもつながるものとなりました。
 また法然聖人のもとで共に法然聖人に教えを受けた同朋の間にも考えの違いが表面化し、親鸞聖人のもとにあった方々の中にも聖人のお考えとは違った方向に進み始めた人々があったと伝えられます。
 このような時代を背景にして、聖人は浄土の教えのあるべき姿を示したいとお考えになったともされています。文末に示しました「信巻序」を読んでいますと、その聖人のお心が述べられているように思われます。 

 このように、親鸞聖人は、一つには阿弥陀さまのお救いに遭うことができた喜びを記し、ご自身の信を確認され、二つには当時の同信の人々や在来の仏教界に対して正しい道を示そうと『教行信証』を著されたのだと思います。

 ちょっと長くなりますが、最初に戻って、御絵伝の作者である覚如上人はなぜこの『教行信証』著述のことを御絵伝に取り上げられなかったのだろうか、という疑問があります。『教行信証』は親鸞聖人が著された重要な書であり、浄土真宗の基本的な聖典とされるものですから、なぜなのだろうという疑問がでてきます。
 これについて、平松令三氏は、覚如上人は伝絵の制作に先立って関東を訪ねられて親鸞聖人から直接教えを受けられた方々から話を聞かれたのですが、その時には関東のお弟子さんから聖人が『教行信証』を著しておられたことを聞き出せなかったのではないか、とされています。覚如上人が伝絵を制作されたのが永仁3年(1295年)、聖人が関東を離れられてから60年以上経過していますので、そのような背景があったのかもしれません。
 あるいは、これも平松氏が書いておられるのですが、『教行信証』著述という事実は重要なことですが、絵にするとなると余りインパクトのあるものではなかったのでしょうか、それで伝絵に取り上げられなかった、といったようなこともあったのかもしれません。

(図左は坂東本『教行信証』の「信巻序」、右は得度の際に本山でいただいた「ご本典」の該当部分です。)

 ここには、次のように記されています。
「それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。
 しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。
 ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲す。広く三経の光沢を蒙りて、ことに一心の華文を開く。しばらく疑問を至してつひに明証を出す。まことに仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥ぢず。浄邦を欣ふ徒衆、穢域を厭ふ庶類、取捨を加ふといへども毀謗を生ずることなかれとなり。」
(さて、考えてみると、他力の信心を得ることは、阿弥陀仏が本願を選び取られた慈悲の心からおこるのである。その真実の信心を広く明らかにすることは、釈尊が衆生を哀れむ心からおこされたすぐれたお導きによって説き明かされたのである。
 ところが、末法の世の出家のものや在家のもの、また近頃の各宗の人々の中には、自らの心をみがいてさとりを開くという聖道門の教えにとらわれて、西方浄土の往生を願うことをけなし、また定善・散善を修める自力の心にとらわれて、他力の信を誤るものがある。
 ここに愚禿釈の親鸞は、仏がたや釈尊の真実の教えにしたがい、祖師方の示された宗義をひらきみる。広く三経の輝かしい恩恵を受けて、とくに、一心をあらわされた『浄土論』のご文をひらく。ひとまず疑問を設け、最後にそれを証された文を示そう。心から仏の恩の深いことを思い、人々のあざけりも恥じようとは思わない。浄土を願うともがらよ、娑婆世界を厭う人びとよ、たとえこれに取捨を加えることがあっても、真実の法を示されたこれらの文を謗るようなことがあってはならない。)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

(お詫びです)

 今回の記事を作成の途中で掲載してしまいました。掲載予定日時の設定を誤ったことによります。トホホ・・申し訳ありませんでした。

578.団体参拝の「しおり」

20191007しおり

 10月4日万福寺さんで、念仏奉仕団の「しおり」の編集打ち合わせが開催されました。この「しおり」は、7月10日に開催された若僧会で、奉仕団参加の皆さんにお配りしようと準備を進めることになったものです。
 私は「若僧」会のメンバーではないのですが、7月の打ち合わせに参加していたことから記事の一部の作成を担当することになっていました。

 10月4日には、「組長挨拶」および6名のメンバーが作成した原稿をまとめた「しおり」の原案について、意見交換を行い、その結果により最終印刷にかかることとなりました。

 そのうち私の担当は「長島一向一揆と願証寺」の項です。このブログにも掲載しましたように「一向一揆」「長島一向一揆」「願証寺」について情報を集めましたので、それをもとにして「しおり」用には次の原稿を作成しました。(文字数が300字程度ということになっていましたので、情報の要約版となりました。)

「戦国時代、15世紀中頃から16世紀終わりにかけて本願寺門徒を中心に、各地の領主層との間で戦われた戦(いくさ)は一向一揆と呼ばれています。1570年、本願寺の第11代宗主顕如上人は織田信長の圧迫に対抗して兵を挙げられ(石山戦争と呼ばれています)、これに呼応する形で長島の地に起こったのが長島一向一揆です。
 一揆は長島(当時は木曽川などの河口の七つの島でした)の願証寺の門徒を主体に信長に対抗する武士勢力も加わり熾烈な戦いとなりましたが、一揆勢は次第に劣勢となり1574年多くの犠牲者を出して戦いは終焉を迎えました。現在の願証寺はその後再建されたものですが、境内には「長島一向一揆殉教之碑」が建てられています。」

 記事には、写真あるいは図を1枚添えることになっていて、ブログで使用した室町時代の長島(七島)周辺の地図を使うことにしました。桑名市にいる知人に「しおり」に使おうと願証寺の写真を撮ってもらったのですが、考えてみると願証寺は参拝した時に見ることができますので、「しおり」には写真ではなく当時の地図を使用することにしました。(撮ってもらった願証寺の写真はブログの記事に使わせていただきました)

 当日メンバーとの雑談の中で次のような話がでました。

 その一つは、ネットを通じて印刷を手軽にかつ安く外部に依頼することができるようになっているということです。以前ご紹介しました、年に1回発行される宇部北組の組報「ご縁だより」も外部に印刷を注文しています。
 寺の新聞「壽福寺だより」はインクジェットプリンターを使って自分で印刷をしていますが、インクの価格も結構高く、外部に印刷を依頼することも検討してみたいと思います。勿論発行部数との関係で割高になる可能性もありますので比較検討が必要ですが。
 これも話題に上ったのですが、このようなインターネットを介して印刷の注文を受けるという方法は、いわゆる「街の印刷屋」に対しては大きな脅威になります。ちょうど大型書店が増えたことにより、「街の本屋」がなくなっていったのと同じ現象が起こっているようです。便利さと街の「財産」を残すこと、そのバランスをどのようにとっていくのか、という同じ課題が見えるように思います。

 もう一つ、これは当日のメンバーの一人も言っていたのですが、今回のように一つのことを担当することで新しく勉強するきっかけになるということです。
 今回私は長島一向一揆を担当しましたが、このことがなければこの一揆についても「そんなことがあったなあ」と名前を知っている程度で終わっていたように思います。記事を担当することになって情報を集めてみると、その背景も含めて新しい事実を知り違った見方ができるようになりました。このように学ぶ機会はどこにでもあるものだと、改めて思ったところです。
 
(図は、担当した「長島一向一揆と願証寺」(27ページ)の部分です。)
 全体31ページの中には、お晨朝(拝読するお経や御文章など)に関する説明や大谷本廟、本願寺(御影堂などの建造物)についての情報を中心にして2日目以降に訪問、参拝する場所や寺院に関する情報などが集められています。

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577.新聞版「壽福寺だより」を発行しました

20191004紙面  20191004紙面2

 新聞版「壽福寺だより」10月号を発行しました。10月14日に開催されます公開講座に間に合わせるためにいつもより早く発行しました。今月号の内容は次の通りです。

〇1面
 「秋法座をお勤めしました」

 「報恩講のご案内です」

 「ご連絡です」
 ・お取越しのご案内
 ・来年のご年忌(法事)のご案内
 ・秋の褒章を受章された方に
 ・同送:宇部北組報「ご縁だより」第3号
 ・同送:公開講座「SDGsと人権問題」
 ・今年度キッズサンガ

〇2面
 「宇部北組主催の公開講座にご参加を」
  公開講座への参加を呼び掛けています。

 「来年の『花フェス2020』の概要です」

 「ご紹介します(9)埴生政広さん」
  
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576.親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要「趣意書」

20190930ヒガンバナs  20190930ヒガンバナ2s


 すでにご報告しておりますように、2023年に「親鸞聖人御誕生850年・浄土真宗立教開宗800年」慶讃法要が営まれます。その法要の趣旨について記された「趣意書」が発せられましたのでお知らせします。

 「趣意書」の全文です。

 来る2023(令和5)年に宗祖親鸞聖人のご誕生850年を、また、その翌年には立教開宗800年をお迎えすることになります。つきましては、私たちの宗門は2023(令和5)年にその慶讃法要をお勤めいたします。
  ものごとを自己中心的にしか考えられない私たちがこの世を生きることは苦悩そのものです。その苦悩を超えて生きていく道を教えてくださるのが仏法です。阿弥陀仏は私たちに「どんなに孤独で苦しく悲しくとも、私はあなた方一人ひとりを、そのままに受けとめて、決して見放さない」との救いのメッセージを「南無阿弥陀仏」というみ名に込めて、よび続けておられます。そのメッセージをそのままに頷き受けとめることが、私たちに届けられた真実信心となり、どのような状況におかれようとも揺らぐことのない尊い安心を頂くことになるのです。それこそが、さまざまな苦悩にも向きあって生きることのできる依りどころとなりましょう。そういう阿弥陀仏から頂いている御恩への感謝の言葉がお念仏であり、その救いの在り方を、念仏者の生き方として私たちにわかりやすく、しかも体系立てて説き示してくださったということが、浄土真宗にとって親鸞聖人による「立教開宗」の意義であります。
  遙か2500年前、釈尊は、「諸行無常」と「縁起」という、この世界と人間のありのままの真実を見抜かれました。さらにそのような在り方のなかには、変化しない実体的な自我など存在しないにもかかわらず、人びとは自ら仮想した自我に執われ、限りない欲望に基づいて、自らに苦しみを、そして世界にさまざまな争いを引き起こしていることを明らかにされました。これは、現代にもそのままに通じる現実です。
  およそ800年前、親鸞聖人は、自己の在り方を深く省みて、私たち人間とは自己中心的な思い、煩悩からいかにしても抜け出ることのできない存在であると気づかれました。しかし、そういう煩悩に突き動かされる私たち誰にも、誰ひとり取り残すことなく尊い安心を与えようとはたらき続けている阿弥陀仏の願いに出遇われたのでした。そのことを身を以て私たちの生き方として示してくださったのが親鸞聖人です。その親鸞聖人の説き示してくださった浄土真宗の教えに出遇うことがなければ、今の私はあり得なかったという聖人への感謝と、その教えに出遇えたことの喜びを込めて、聖人のご誕生を祝い、「立教開宗」に感謝する慶讃法要をお勤めするのです。
  さて、現代世界は、社会・国家のレベルでは自国の経済や文化を優先する排他的で閉鎖的な在り方が優勢となり、それにより国際的にさまざまな対立や紛争が起こっています。また個人レベルでは、自己努力と自己責任という名目のもとに、共に生きるという価値観が薄らぎ、孤独・孤立が深刻な問題となっています。こうした人類の破滅をももたらすような閉塞した現代世界の方向性を、互いに響き合って生きていける方向へと転換し逆転させていくことは、世界のすべての宗教が果たすべき役割です。しかしながら、日本のみならず世界各地域では硬直した宗教からの離反現象が広がりつつあり、宗教は、その役割を十分に果たせているとはいえません。
  このような状況のなか、今こそ、「自他共に心豊かに生きることのできる社会の実現」を理念とし、仏道の基本を踏まえて人びとと共に歩む私たち念仏者の果たすべき使命は、かけがえのない、大変に重いものです。
  今回の慶讃法要に向けて、「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」との親鸞聖人のお言葉を胸に、地道にその役割を果たすべく、精一杯精進してまいりましょう。

   2019(令和元)年8月

                                                 浄土真宗本願寺派
                                                  龍谷山  本 願 寺



 併せて、「慶讃法要の趣意 付帯事項」として、慶讃法要のあり方や関連諸行事についての課題として次の5項目とその目指すことが示されました。

 〇大きな感動につながる法要を
  法要や諸行事を、若い人やこれまで仏教や浄土真宗の教えにあまり親しみのなかった方々で新鮮なメッセージをおくる機会とすること
 〇伝わる伝道を
  時代を超えて伝えられるご法義を、その時代に応じた形で宗門の内外に伝える法要とすること
 〇「私たちのちかい」の普及を
  今回の慶讃法要に向けて、特に若い方々に向けて示された「私たちのちかい」の普及に努めること
 〇社会に開かれた宗門へ
  今回の慶讃法要を機に、共に生かされ生きることの尊さを伝える「開かれた宗門」となること
 〇具体的な社会実践として
  SDGsをはじめとした社会の課題に取り組むこと

 このように、今回の慶讃法要は、親鸞聖人が誕生になられ私たちに浄土真宗のみ教えをお示しいただいたことを、現在の社会の現実の中で喜び、お礼申し上げる大切なご縁です。ご一緒にお参りをしたいと思います。

(写真は、ヒガンバナです。9月27日に撮影しました)

 藤ケ瀬から吉部に抜ける道の途中に、段々畑がきれいなところがあります。稲の刈り取りも終わり、日ごとに秋は深まっていきます。

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