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656.夏法座をお勤めしました

 20200713法座2  20200713法座
   昨日、7月12日に夏法座をお勤めしました。
 最後の法座が昨年11月の報恩講でしたから、間2回の休座(中止)をはさんで8か月ぶりの法座ということになりました。久しぶりに皆さんとご一緒にお正信偈をお勤めすることができて、嬉しく思いました。

 当日は、新型コロナウイルス対策として、マスクの着用をお願いし、アルコールで手指を消毒した上で本堂に入っていただく、席も間隔をあけて座っていただく(こちらはちょっとうまく行かなかったところもありましたが)などをお願いし、本堂の戸はすべて開放するなどの対策を行いました。

 ご講師には萩の浄国寺の杉山恵雄氏に初めてご出講いただきました。杉山氏は、8年前私が中央仏教学院で学んでいた当時の同級生です。同級生と言っても40歳という若い布教使さんで、熱意をもってみ教えをお伝えいただきました。

 ご講師は最初に親鸞聖人の「「聞(もん)」といふは、衆生、仏願の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」というお言葉を紹介されました。

 阿弥陀さまはなぜこの私を救わずにはおれない、と願われたのか、とご講師は問いかけられます。私は、自分の力ではどうすることもできない苦しみから逃れることができないのですが、それでもなんとかしたいともがき、苦しんでいる存在です。そのような私を見られて、手を差し伸べずにはおれないと、私たちに代わりに苦しみ、勤められたのが阿弥陀さまだとお伝えいただきました。
 「衆生往生せずば、われも正覚を取らじ」と、私が救われなければ自分も救われることはない、と誓われました。そして、私のぞばにいていただき、「間違いなく救う」と私に呼びかけられ、そしてそれが私の口に出ていただくものが「南無阿弥陀仏」の名号なのだと聞かせていただきました。
 そのお救いは、私がなにかをして得たものではありません、わたしの姿を見られて、阿弥陀さまからいただいたお救い、他力のお救いなのだと示されました。

 最後にご講師から教えていただいた和歌が印象に残っています。

「合掌し肩をふるわせ哭く老婆 菩薩はなにを告げたもうらん」
 老婆がみ仏の御前で合掌しながら哭いている、「哭く」は大きな声をあげて泣くことだそうです、老婆はなにを泣いていたのだろうかという問いです。
 この老婆は、ずっと明るく楽しい生活を送ってきたのではないように思われます。つらいこと、苦しいことの連続だったのかもしれません。でも、この歌からは、老婆がその苦しみ、悲しみゆえに哭いているのではないような印象を受けます。苦しみの中にいる老婆に対して、「菩薩」は「つらかっただろうね、そのまま救うよ、もう大丈夫だから安心しなさい、泣かないでくれよ」と呼びかけられたのではないか、その言葉が届いて老婆は哭いていたのではないか、と感じることができました。

 当日も多くの方のご協力をいただきました。
 ご報告いたしましたように、5日には総代さんに草刈りをお願いしました。また、井上さん、杉山さんにはお花をご提供いただきお飾りをすることができました。また、当日は総代会三役の方には受付をお願いし、仏教婦人会の役員さんにはお茶の接待などのご協力をいただきました。記してお礼申し上げます。

(写真はご講師の杉山氏とお参りいただいた皆さんです。)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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655.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (66):下巻補(10)

三代宗主ss

 前回までで、奥書も含めて『御伝鈔』と「伝絵」について学んできました。

 本願寺第3代宗主の覚如上人は、永仁3年(1295年)にこの『御伝鈔』を詞書とする絵巻「本願寺上人伝絵」を制作されました。この年は、親鸞聖人が亡くなられてから33年に当たる年です。
 その後上人は、内容に手を加えられ、最初の伝絵から48年後、康永2年(1343年)に制作された「康永本」がその最終版となりました。現在多くの浄土真宗寺院に伝えられる御絵伝は、この「康永本」を基本として描かれたたものです。
 
 覚如上人は、覚恵上人のご長男として文永7年(1270年)にお生まれになりました。覚恵上人は親鸞聖人の末娘覚信尼公のご子息になりますので、覚如上人は親鸞聖人の曽孫に当たります。若くして天台の教えを学び、その後弘安10年(1287年)には慈信坊善鸞氏(以前学びましたように親鸞聖人のご子息ですが、聖人から義絶された人です)の子息の如信上人に会われて親鸞聖人のみ教えを学ばれました。
 また伝絵制作に先立って、上人は父上の覚恵上人とともに関東の親鸞聖人の聖跡を巡られて、同地の門弟方から聖人の事跡について学ばれたと伝えられます。

 そのような体験を通じて、覚如上人は親鸞聖人のみ教えを承継するというご自身の立場を明確にしていかれました。
 その過程では、以前少し触れましたが上人の叔父に当たる唯善氏との留守職をめぐる争いや、上人に距離を置いていた関東の門弟方との関係の修復などの課題に対処されました。また、親鸞聖人の廟所であった大谷廟堂を真宗門徒の中心と位置づけられ、対外的にも「本願寺」を寺院として確立されました。

 一昨年の7月から66回にわたって「御絵伝に見る親鸞聖人の御生涯」について学んできました。
 覚如上人は伝絵の制作を通じて、親鸞聖人が師である法然聖人のみ教えを正しく受け継がれ、大変なご苦労を重ねられながらそれを守り伝えられたことを示されました。さらに、親鸞聖人の廟所を礎とする本願寺が真宗門徒の中心寺院であること、上人ご自身がその法灯を継承することを示され、現在に続く真宗教団の基礎を確立することに尽力されたたことを学ぶことができました。

(図は、右から親鸞聖人、如信上人、覚如上人です。)

 この図は、2017年4月に伝灯奉告法要に団体参拝した際にいただいた冊子からお借りしました。
 覚如上人は、親鸞聖人を御開山、如信上人を第二代、ご自身を第三代の宗主とされました。

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654.夏法座の準備をお願いしました

20200706草刈り

  昨日7月5日、夏法座の準備として総代さんんに境内周辺の草刈りをお願いしました。

 当日は、梅雨の間にもかかわらず、雨も降らず、暑くもないという天候に恵まれました。代表総代の井上啓志さんを始め、岩﨑明さん、吉屋博志さん、岩﨑昌彦さん、三上敏秀さん、山根惣一さん、稲田英明さん、今橋庄二さん、金子富士夫さん、杉山博子さん、志賀慎次さん、志賀進さん、西睦生さん、田中光明さんの15名の方においでいただいて作業を行いました。

 作業は9時から始まり、駐車場および石段周辺、石段から下の参道の草刈りをお願いし、約1時間で終了することができました。大岩郷方面の三差路から境内に下る参道の周辺は岩﨑昌彦さんが前もって刈っていただいていましたので、これで12日にはきれいになった環境で皆さんをお迎えすることができます。
 皆様のご尽力に対して心からお礼申し上げます。

 作業が終わった後に、お茶を飲みながら一息いれました。このようにして総代の皆さんと集まりますのは1月26日の定例の総代会以来のことで、懐かしくうれしく思いました。

 その際にも話が出ていたのですが、昨年1月まで宇部西地区の総代をお願いしていた徳田順久さんが3月28日に84歳でご往生されました。徳田さんには会計をご担当いただき、丁寧で正確な処理をしていただいていました。また、トイレの改修や杉林の法面改修の工事に際しては、毎回作業に参加いただくのと併せて弁当の段取りなどもお願いしていました。皆さんとお元気なころの徳田さんについてもお話しすることができました。
 改めて徳田さんにお礼申し上げす。

(写真は、当日ご協力いただいた皆さんです)

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653.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (65):奥書(3)

廟堂の推移s

  『御伝鈔』に付された3番目の奥書です。御文は次の通りです。

 「康永二載癸未十一月二日筆を染めをはりぬ。 
                   桑門 釈宗昭 
                   画工 大法師宗舜 康楽寺弟子」

 平松令三氏による訳です。
 「康永二年(1343)十一月二日筆をとって書き終わりました。
                   僧 釈宗昭
                   画工 康楽寺弟子大法師宗舜」 

 ここで、覚如上人はこの奥書を前回の第二の奥書の4年後に記されたことが分かります。
 こうして見ますと、覚如上人は1295年、26歳の時に初めて絵巻を制作され、その44年後の1339年に焼失した原本の写しをもとにして制作し直されました。そしてそのさらに4年後にもう一つの絵巻を制作されたことになります。この時、上人は74歳になっておられました。

 この最後の伝絵は制作年から「康永本」と呼ばれ、東本願寺に伝わっているものです。上人はその後伝絵を制作されなかったとされますので、伝絵の最終決定版であり、浄土真宗の寺院に伝えられる四幅の御絵伝はこの「康永本」を基本にして描かれたものです。
 この康永本について平松氏はその絵巻の紙幅について述べておられます。それによりますと、原本である専修寺本や西本願寺本が幅32~33センチであるのに対して、康永本の幅は41.8センチと10センチ近くも大きいのだそうです。これは、覚如上人が本願寺という寺院の地位を明確にしようという意思が現れているのだとされます。
 覚如上人は、大谷廟堂を寺院化して真宗門徒の中心とすることに注力された方でした。上人の晩年、そのご意志が実現していったという喜びと誇りもこの最後の伝絵に現れているとされます。

(図は、伝絵に描かれた廟堂の姿です。右から順に「西本願寺本」「専修寺本」「康永本(東本願寺本)」「弘願本(西念寺本)」です。)

 『真宗重宝聚英』にこの4枚を比較した記事がありましたので、図をお借りしました。
 廟堂の内部を見てみますと、西本願寺本では石塔だけが、専修寺本では親鸞聖人のご影像と石塔、康永本では正面を向かれたご影像、弘願本ではご影像が斜め向きに、見えます。

 これもみ教えとは別の話になるのですが、この絵相の違いから西本願寺本と専修寺本の制作時期の前後が論じられているのだそうです。その場合、廟堂内部の様子は画工が自分の判断で描けるものではなく、制作者の指示によるものであり、またそれは伝絵制作当時の廟堂の姿を伝えるものだ、ということが前提になっているようです。
 
 西本願寺本が専修寺本よりも古いとする立場からは、創建当時の廟堂には石塔だけが置かれていて、その後ご影像が安置されたのが専修寺本の姿だとされます。
 一方、専修寺本の方が先に描かれたとする立場からは、廟堂には最初から石塔とご影像が安置されていたのですが、ある出来事によりそのご影像が失われたというのです。それは、覚如上人と上人の叔父にあたる唯善氏との間に廟堂の管理権について争いが生じ、遠慶2年(1309年)に唯善氏がご影像を奪って関東に逃げるという事件が起こり、西本願寺本はその事件の後に描かれたので、ご影像がない絵になっているという説です。

 その時に、廟堂も破壊されたのですが、その後1311年に復旧され、それもまた前回記しましたように1336年に焼失しました。さらにその2年後1338年に古い仏堂が移設されたのだそうです。その時には石塔も失われていて、弘願本や康永本に描かれているように、その後に安置された親鸞聖人のご影像だけが描かれているということになります。

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652.お知らせ:夏法座をお勤めします

20200629掲示 20200629ナツツバキ  

 新聞版「壽福寺だより」の記事でご連絡しましたように、7月12日に夏の法座をお勤めします。
 先日の法中会で、7月の法座について情報交換を行ったのですが、中止することを決められたお寺が5か寺、実施する予定だとされたお寺が4か寺、とほぼ半々という状況でした。
 壽福寺では、マスクの着用をお願いし、手を消毒していただき、席が近づかないようにする、戸を全開にするなどの対策を実施してお勤めすることにしました。
 振り返ってみますと、最後にお勤めした報恩講が昨年の11月10日でしたから、8カ月ぶりに皆さんとお会いし、ご一緒にご法話をお聞きすることになります。

 先日、掲示板に夏法座のご案内と「ひとこと」を掲示しました。そのひとことは「これからが、これまでを決める」という言葉にしました。
 この言葉は、『文藝春秋』の6月号で出会ったものです。同誌の巻頭言に当たる部分に、数学者の藤原正彦氏が毎号文章を寄せておられるのですが、氏は「近所の真宗の寺を通りかかった時、」この言葉に出会い、「何気なく通り過ぎた私は、十メートルほど行ってから「あっ」と声を出し掲示板に戻った。」と記されています。

 藤原氏は、私たちが普通に考える「これまでがこれからを決める」という考え方は、「原因があって結果があるという欧米型世界観で」あり、この出会った言葉は「これからの生き方次第で、これまでの人生の意味が違ってくるということ」を示してくれる「東洋の哲学だ」と受け止められたようです。

 少し前になるのですが、金子大栄師の言葉をヒントに「やり直しのきかぬ人生ではあるが、見直しはできる」という言葉を寺の掲示板に記したことを思い出しました。
 大栄師の「やり直しのきかぬ人生であるが、見直すことができる 」という言葉を、掲示用の用紙に納まる字数にするためという申し訳ない理由で縮めたものでした。

 大栄師の言葉と今回藤原氏が紹介された言葉とは、通底するところがあると思います。
 私たちは、「過ぎ去った過去は変えることができない」と普通は考えます。しかし、何かを契機にして現在の姿について見え方が変わる、というようなことを体験することがあります。自身が病気になったり、親しい人が亡くなったりというような経験をすると、これまで当然のことと思っていたことが、そうでなく本当はかけがえのない大切なものだったと気付くことがあります。そうすると、これまでの過去も同じものでありながら違ったものに見えてきます。変えることができないと思われた私自身の「過去」についても、違った見え方ができることがあります。
 
 大栄師の言われる「見直す」ことのきっかけは、藤原氏の紹介された「これから」に向かう私たち自身の姿勢だということになるのでしょうか。このようにして、「これまで」を違う目で見るようになった私たちは、今度は再び「これから」に向かって違うアプローチができる、というサイクルを持つことができるのかもしれません。

 このブログでもご紹介しましたNHKの朝のドラマ「半分、青い。」で、医師から5年後の生存率が50%と告げられた主人公の母親の受け止め方も印象に残ることでした。彼女は、その宣告を受けて、これまでの当たり前だと思っていた時間が本当はかけがえなないものだったということに気づきます。そして、それに気づいた彼女は、残された時間をこれまで以上に大切にして生きていくことになるというように、「これまで」と「これから」のサイクルがつながっていくのだと思います。

(右の写真は、ナツツバキの花です)

 別名、サラソウジュ(沙羅双樹)とも呼ばれています。お釈迦さまはサラソウジュの元でお亡くなりになられましたが、そのサラソウジュはこのナツツバキとは別の植物です。寒冷な日本では、代わりにナツツバキが寺院などに植えられています。
 ちょうど今頃花期を迎えています。花は朝開き、夕方には落花する一日花です

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